第8話 渋い二度目のハジマリ
息子の克己(かつみ)が結婚した。
今日無事に式も終わり、克己とその嫁となった夏実(なつみ)ちゃんは、二次会、三次会へ参加すると言う。おそらく今日も明日も会うことはないだろう。明日には三泊四日のハネムーンに出かけるはずなのだから。
式へ出席してくれた親戚連中も帰り、リビングには俺と去年銀婚式を迎えた妻、千津だけが残された。俺は既に堅苦しいモーニングを脱ぎ、普段着に着替えていたが、千津はまだ留袖のままだった。式場から戻ってきたらきたで、宴会が始まったため、千津は着替える暇もなかったのだろう。 千津は、留袖のまま親戚連中が食べ散らかした皿やコップを片づけていたが、それらをのせたお盆をテーブルに置くと、ソファに腰掛けため息を吐いた。
「片づけは明日にすれば? 俺も手伝うから」
俺が言うと、千津はまあ! とでも言いたげに目を瞬かせた。
「お父さんがそんなこと言うなんて、明日は雨ね」
人が優しく言ってやれば……俺が黙り込むと、千津が呟いた。
「お父さんと二人になっちゃったわね。これからどうします?」
どうやら千津は、俺との二人きりの生活に不安と寂しさを感じているらしい。しかもそれが不満でもあるらしいことに、俺は気づいた。
「どうしますも何も、変わらないさ。克己たちだって、ここから五分程しか離れていないアパートで暮らすんだし、年内には家族が増える予定じゃないか」
俺が言っても、千津はただため息を吐くだけ。
克己はいわゆるできちゃった婚だ。だから、去年嫁いでいった姉の真由香(まゆか)よりも早く、克己は父親になる。子どもが結婚するというのはめでたいことだし、ましてや孫が生まれるとなれば、大喜びしなければならないハズだ。なのに、千津は今、喜ぶどころか、不幸のどん底にいるかのような顔をしている。
「克己、うまくやっていけるかしら?」
今日結婚したばかりの息子の今後を、今から心配するのか? そう喉まで出かかったけれど、俺はなんとかその言葉を飲み込んだ。
「やっていけるさ。俺たちだって、ここまで続いたんだから」
俺が言うと、千津がチラリとこちらを見た。その目に、いろいろなものが含まれているのを感じ、
ちょっと慌てる。
「そりゃあ、最初は戸惑うだろう。赤の他人が一緒に暮らすんだし、一緒に暮らしてみて初めて分かることもあるだろうし」
言い訳がましいことを言っているな。と自分でも思いながら、自分が結婚した二十五年間を振り返る。千津に恋をして、ドキドキしながらプロポーズをして、二度断られた俺。それでも諦めきれず、根性で押して押して押しまくって、ようやくOKをもらったその後は……釣った魚にエサはやらん主義できたな。確かに。
「でもホラ、一緒に暮らして、お互いのことを学んで『夫婦』になっていくものだろう?」
「お父さんからそんな言葉が出てくるなんて意外だわ」
千津はソファの背もたれに寄りかかって、目を閉じた。ひどく疲れた顔をしている。
克己から「実は……」と切り出されてからのこの数か月は目まぐるしかった。疲れもするだろう。特に女親は、あれこれと気をもむことも多かったはず。にしても、千津をマジマジと見つめたのはいつぶりだろう? そんなことを思い、千津が、いや俺もなのだが、年を重ねてきたことを感じた。
「感謝してるよ。母さんには。俺は仕事しか頭になくて、克己や真由香のことは全てお前に任せてきたし。俺は言葉が足りないから、お前には不安しかなかったと思うが、ここまで一緒に歩んできてくれてありがたいと思ってる」
いつもは言えないようなセリフが、素直に言えた。千津は驚いた顔をしていたけれど、俺が素直に話しているのを見て、微笑んだ。
「ほんとにね。『夫婦』って、やってみないと分からないものね。恋愛して、結婚すればゴールかと思っていたけれど、そうじゃなくて、そこがスタートだったってことに、ずいぶん経ってから気づいたわ」
千津が言いたいことがよく分かり、俺も頷いた。千津に分かるか分からないかくらいの、小さな頷きで。
「何度離婚しようと思ったかしれないわ」
千津の爆弾発言に、俺はギョッとしてしまう。従順な妻だと思っていた。今の今まで。まさか離婚の危機があったとは。
「どうしてこんなに偉そうにしてるのかしら? っていつも思ってたわ。私がやることが当然で、自分は動きもしないで。目の前にある新聞だって取ろうとしないんだもの。仕事してるのは、お父さんだけじゃないのに! って、いつも思ってたわ」
偉そう? 俺が?
そんなつもりは毛頭なかったけれど、確かに俺は動かない。仕事から帰宅すると、自分の椅子だと決めている場所に座ったが最後、トイレや風呂などに行く以外は全く動かない。必要であれば千津を呼んで、あれこれと用事を言いつけていた。
……アレか。思い当たって、当惑する。
つまり今も、その『離婚の危機』とやらは継続中ということになるからだ。
「でも、結婚したときよりも、お父さんも手伝ってくれるようになったなぁって、ついこの間思ったのよ。以前は、食べた後、テーブルにお皿がそのまま放置されていたし、電話がかかっても、出てもくれなかったじゃない?」
そう言われて、そうかな? と考える。
「ようやく『夫婦』になれたのかな? と最近思ったばかりよ」
「そう?」
「えぇ。お互いに我慢できないところがあっても、譲り合う場所が分かったっていうかね。ホンモノの夫婦になるのって、時間がかかるものなんだなぁって、実感したわ」
微笑む千津。そんな千津を、俺は可愛いと思った。そこで、閃く。
「なぁお母さん、せっかく二人になったんだから、二人の時間を楽しもうよ。恋と呼ぶのは恥ずかしい感じがするけれど、二度目の恋を楽しむなんていうのもオツじゃないか?」
「二度目の恋? またお父さんと恋をするの?」
千津がちょっとイヤそうなのが気になるが、敢えてそれは言わないでおくことにした。ここで揉めては、全てが無駄になる。
「そうだよ。同じ人と二度目の恋。なんかオシャレじゃないか?」
俺が提案すると、千津は笑った。
「じゃあ、例えばどんなことをするの? 今までの生活と何が変わるの?」
そう言われて、俺もすぐには答えられなかった。今迄の生活と変化をつけるとするならば、何があるだろう? 何しろ『二度目の恋』なのだ。今迄の生活よりも、ちょっとは色をつけなければ。
「買い物に行くときに、手をつなぐのはどうかな?」
我ながら突飛なアイディアだったけれど、ちょっとは恋っぽい気がして、言ってみた。
「イヤですよ」
即答か! 俺だって、けっこう勇気を出しての発言だったというのに。
「一緒に釣りに行かないか?」
「それ、お父さんの趣味でしょ?」
「一緒に出来ることを探せばいいじゃないか?」
「じゃあ、社交ダンスしません?」
「……ムリ」
こんなやり取りを何度か交わしていると、千津の顔が明るくなってきていることに気づいた。克己や真由香がいなくなった寂しさも、少しは薄れたということだろうか? 千津が声を出して笑ったところで、俺たちは結論に至った。
「結局、いつもの生活になっちゃうってことですね」
悔しいけれど、そうなのだ。二度目の恋と言いつつも、同じ家に住み、同じ場所で食事をし、同じ部屋で寝る。そうなると、恋人同士のような付き合いには発展しそうにない。いいアイディアだと思ったのだが……と呟く俺を見て、千津はまた微笑んだ。その笑顔で思いついた。ベストなアイディアを!
「今更……と笑うかもしれないが、名前呼びしないか?」
「え?」
「俺は『母さん』を止めて、『千津』と呼ぶ。母さんも『お父さん』を止めて『克明』と呼んでくれ」
風景がくるくると回り、青々とした緑の中で、俺はドギマギしながら、手のひらを握りしめていた。
「千津さん、俺、どうしてもあなたがいいんです! どうかお願いします! 俺と! 俺と結婚してください」
「私、この間お断りしたはずです。あなたとは……」
言いかける言葉をさえぎり、俺はズイッと彼女の手を取った。
「千津さん以外、考えられないんです!」
じっと千津さんの目を見つめる。どれくらい見つめていたのか分からない。瞬きすらしなかったかもしれない。長く感じたけれど、本当は短かったかもしれない。
「……負けましたわ。克明さん」
あの遠い日。自分の名前を呼んでもらえた喜び。
「克明さん?……コレでいい?」
照れくさそうに言う千津に、俺は微笑んだ。
「旅行もしよう! 食事にも行こう! 千津の好きな映画を観に行ったり、ただの散歩もいいな」
弾む俺の声を聞いて、また千津が笑った。
「克明さんと二度目の恋か……」
そう言う千津の声は、今度はイヤそうには聞こえなかった。この声を聞く限りでは、受け入れてもらえたと思っていいのだと俺は思う。
子どもも巣立ち、いい年をして! と笑われるかもしれない。でも、『夫婦』でいられる時間は限られている。伝えておけばよかった! なんて後悔するようなことにはなりたくないから。だから、俺はまた千津と二度目の恋をする。
そう心に決めた、渋い二人の、日常の中での二度目のコイノハジマリ。
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