第6話 二度目のハジマリ

 「あの、ここいいですか?」

 声をかけながら、私は自分でも驚いていた。自分から男の人に声をかける……なんて。でも、どうしても気になって、声をかけずに立ち去ることが出来なかった。

 私はこのファミレスによく立ち寄る。自宅のあるマンションが近いということもあるけれど、一人暮らし中の私にとって、一人分の食事を作るということが面倒だということと、ファミレスは安いし、早いし、ドリンク飲み放題だし、仕事に煮詰まったときに、一人でぷらりと立ち寄って、気分を変えるってことにも向いてるし。

 何より、ファミレス内にはパソコンがない。Webデザイナーで仕事大好きな私は、パソコンがあると、どうしても仕事モードになってしまうし、私がパソコンを開いたが最後、時間が経つことをすっかり忘れてしまって、気が付いたら朝……ってことも多いのだ。

 だから、パソコンが無くて、安くて早くて自動的にご飯が出てくるファミレスはなかなか快適な場所だった。

 もちろん、そのほかにも私自身が認めたくない理由もある。

 一年前、私はここで離婚届にサインをし、夫と別れた。元夫には娘が生まれ、新しい家庭で幸せに暮らしていると風の噂で聞いた。それを理解しているはずなのに、時折もしかしたら私のところへ帰ってきてくれるんじゃないか……なんて、バカげた考えが浮かぶ。

 そういうときに来てしまうが、このファミレスだった。ずっと無自覚で通っていたのだけれど、

自動ドアが開くたびに、来た? なんて、つい目が入ってくる人を確認していることに最近気づいた。別れた場所に、彼が来るわけなんてないのに。

 自分では認めたくないけれど、寂しいのかもしれない。

 飲み放題のコーナーから三杯目のコーヒーを手にして席に着く。読もうと思って持ってきた文庫本を開きながら、意識はさっきから別の場所へ向かっている。私はお店の中央の席に陣取っているのだけれど、さっきから窓際に座っている一人の男の人が気になって仕方がなかった。

 カッコいい! 素敵! そういう軽薄な思いではなく、その男性の仕草や雰囲気から何かを感じて、気になって仕方がなかった。それが何なのか自分でも分からないけど、本を読むふりをしながら、私はその人の一挙一動を見逃さないように見ていた。

 どうかしてる。私……。

 その男の人は、私よりも少し年上だと思う。仕事帰りなのか、品のいいグレーのスーツを着ている男性。ただ、ネクタイは締めておらず、Yシャツの一番上のボタンは外してあった。何かに沈んでいるような面持ちで、遠くを見つめる眼差し。手のひらに包んだコーヒーのカップをぐるぐる回し、さっきからそのしぐさだけを繰り返してる。飲むわけでもないコーヒーのカップを、ただ回している。それだけ。

 私もかなり長い時間そのファミレスにいたので、私がその男性に気付いた時間から考えても、その男性も相当長くいると思う。でも、立ち上がるわけでもないし、誰かと待ち合わせという雰囲気でもない。

 えーい! 私らしくない! 気になるなら聞いてみろ! よ。

 ということで、私は自分でも驚く行動に出た。自分のバッグと飲みかけのコーヒーカップと、会計の伝票を持ってその人のテーブルへと近づいて行ったのだ。

「あの……ここ、いいですか?」

 男性は、ぐるぐる回していたカップの手を止め、ハッ我に返って私を見た。

「え? 僕?」

 問い返された。そりゃあ驚くよね。見ず知らずの女が唐突に声をかけて来たのだもの。私が頷くと、彼は少し笑って「どうぞ」と言ってくれた。さっきまでの悲しげな表情は消え、少しだけ明るい表情になった気がして安堵する。私は彼の真向かいに座り、カップをテーブルへ置いた。

「約束をキャンセルされたんですか?」

 言ってしまった後に、いきなり私ったら! と、自分の言葉に後悔した。でも彼は迷惑そうでもなく、笑ったりもしなかった。そして、大いに真面目な顔で答えてくれた。

「そうだね。うん。待ってる……のだろうね」

 その意味ありげな言葉に、私はすごく納得した。

 そうだ。そうなのだ。他人事のように見えなくて、それで気になったんだ。誰かを待っている感じなのに、誰もこない。なのに帰らない。寂しげで、思いつめたような様子。同じに見えた。私に。

「その人は来るんですか? ここに?」

 しつこいかもしれないと思いつつ、ついつい聞いてしまう。

「いや、来ないよ。来ないことは僕自身わかっているのだけど、分かってて待ってるんだ」

 彼はおかしそうに笑った。自分を嘲っているような感じを受ける。でも、それこそ私は他人事とは思えなくて、笑うことが出来なかった。

「勝手にしゃべっちゃいますけど、私も同じなんです。一年前にここで離婚届にサインして。私が悪かったから、彼が戻ってきてくれるわけがないし、彼には新しい家庭があるし。なのに、もしかしたら……なんて考えちゃって」

「ご主人、浮気したの?」

 私は首を振った。

「私が『家族』になろうとしなかったんです。主人は『家族』が欲しかったのに」

 なんでだろ? 初めて会ったのに、こんなことまでしゃべっちゃって。こんなこと、友だちにだって言えなかった。「子供をつくることを拒否したから離婚した」なんて、親や兄弟にだって言えるはずもない。

「僕もね、『家族』を作ることに失敗した一人」

 彼は右ひじをついて、窓から外の方へ視線を移した。外は暗く、ひっきりなしに通り過ぎて行く車のライトだけが交差していた。

「結婚って難しいよね」

 独り言のように呟いて、ゆっくりと戻ってくる視線。

「離婚されたんですか?」

「うん。君と同じ。一年前に、ここで」

 どこまで境遇が似てるんだろう? 胸騒ぎなのか、ときめいているのか、私には判断がつかない。さっきから心臓がバクバク鳴っていた。

 離婚してからというもの、私はずっと後悔だけで過ごしてきた。

 あのときこうしていれば。

 あのときこう言っていれば。

 そんなこと、もうどうしたって、どうあがいたって駄目なのに。その思いはついさっきまで、このテーブルへ近づくまで心の中にあって、寂しくて、悲しくて、孤独だということを切に感じ、一人になるのが怖くてマンションへ帰る気になれずにいた。

 なのに、目の前の男性が「同じ」そう言ってくれただけで、なんだか私の目の前に、広くて長い道がぱああああっと開けたように思えた。我ながら単純だ。

「こんな偶然滅多にありませんし、どうせだから付き合っちゃいません? バツイチ同志ってことで」

 おどけたように言ってみた。

 このテーブルへ近づいたとき「付き合って欲しい」なんて考えを持ってはいなかったと思う。でも「同じ」だとわかったら、なんだか甘えたくなった。「同じ」だから、甘えられる気がした。極力冗談に聞こえるように、私はおどけたように言ったのに、彼はものすごく緊張した顔になり、私をじっと見つめてくる。

 何? どうしたの? そんな悩むとこ? あ、今日、私化粧してなかった! それに、そうだよ。ファミレスだと思って、服装もゆるいし、靴だってぺったんこだった! なんでこんな女と……って思ってる? 一瞬のうちに浮かんだそれらのこと。今更だけど、自分の浅はかさが笑える。

「ごめんなさい。いきなり来て言いたい放題言っちゃって。離婚されてるからって、同レベルって考えちゃダメですよね。ただ……あの、私、誰にでもこういうこと言ってるわけじゃくてですね。なんだか、あなたならわかってくれる気がしたっていうか。それでいきなり付き合ってはなかったと思いますけど……。あの、今言ったことは、忘れて! 忘れてください!」

 早口でまくしたてて、向かいあって座る彼が吹き出したことにも気が付かなかった。

 仕事しか頭になく、仕事場では鋼の女だと陰口さえたたかれている私が、こんなにも動揺していることに、自分でも驚いてしまう。

 ひとしきり笑った後、彼は口元を緩めたままだ。さっきまでの「誰かを待ってる」ときの表情とは全然違って、やっぱり「私と同じ」そう思える笑顔だった。

「僕も、誰にでも言うわけじゃないんだけど、君はすごく魅力的な人だと思うよ?」

 ただそれだけの言葉なのに、私の頬がカッと熱くなるのを感じた。元夫との結婚生活の中でもあまり感じなかったような、久しぶりの熱。一人で浮かれる私だったけれど、彼は穏やかな顔のまま言葉を続ける。

「ただ、僕と付き合うのは、君にとって良い選択かどうかは分からないし、僕の真実を知ったら、君もきっと僕とは無理だと思うはずだよ」

 穏やかなのに、その言葉の底に深い悲しみと思いつめた辛さが含まれていて、分からないけれど、不意にその冷たい部分に触れた気がして、心の中にちくんと何かが刺さった。

 彼は伝えるべきか、それとも伝えない方がいいのか……と、私の目の前で葛藤している様子が見てとれた。

 何? なんなの? 私、何を言われるの? 更に私の鼓動が早くなる。

 少し躊躇した後、彼はテーブルの上のカップを少しだけ左側にずらし、ぐっと顔を引き締めた。見えないけれど、テーブルの下の彼の手は握りしめられているような気がする。そして私の目をしっかりと見詰め、思い切ったように言った。

「僕ね、子供をつくれないんだ」

「子供」という単語は、私にとってもNGワードで、聞いた瞬間は「え? 子供?」と思い、なんだか一年前を思い出した。でも、彼の言葉をよくよく噛み砕いていけば、私にとっては何でもないことのように思え、ついつい身構えていた自分の身体から力が抜けていくのを感じた。

「なんだ。そんなこと?」

 思わず出た言葉。一瞬走った緊張がふにゃりと抜け、私は気楽なものだったけれど、彼は気分を害した様子だった。

「君はそんなことって言うけれど、『子供』だよ? 結婚したら、次は子供だろう? まわりからも責められるし、いつになったらってせっつかれるし。妻とはそれが理由でダメになったんだ。いや、子供をつくれないという事実よりも、僕が妻に対して負い目を持ってることに疲れてしまったっていうのが大きいのかな」

 ほんとに。ほんとにどこまで似てるんだろう? 私たち、やっぱりこれって運命なのかも? 私は微笑んだ。

「私、菜穂(なほ)です。あなたは?」

「僕? 僕は、陽基(はるき)。太陽のヨウに、基地の基って書くんだ」

 後ろめたさ、秘密のこと、誰にも言えなかっただろうこと。初対面なのに、ここまでぶっちゃけちゃうのは正直どうかとは思うけれど、陽基さんは私に打ち明けたことで少し楽になれたように見えた。私が一瞬のうちに受け入れたであろうことも、感じてくれたのだと思う。

「私たち、すごく相性がいいように思えるんですけど、付き合うのってやっぱり無理ですか?」

 自分からこんなにもアプローチしていることが信じられないけれど、理由じゃなく、私の中で引きあうものが、普段は言えないことを言わせてしまう。

「子供のことを聞いても引かないなんて、君にも何かあるの?」

 陽基さんは、私の様子を見てすっかり警戒を解いたようだった。その様子がまた嬉しくて、私は微笑んだ。

「教えてあげてもいいですけど、私、このファミレスにもう既に四時間いるんです。そろそろ店員さんの目が痛いので、場所を移動しません?」

 彼も私を見て微笑んで、自分の分と私の分の伝票を取ると立ち上がった。

「じゃあ、教えてもらえるところに行こうか?」

 私たちは、このファミレスに入ったときとは全く違う気持ちで、二人並んでファミレスを後にした。

 もう恋は出来ないと諦めていた。バツイチ女に、そうそうチャンスはないと思っていたし。でも、意外にも「同じ」ことって起きるものなのね。

 辛いことがあったからこそ分かる「価値」。あの時出来なかったからこそ、理解し合うために努力するべきだと私は学んだ。一回目の結婚で成功しちゃう人は多いけれど、私はきっともっともっと勉強しなさいってことだったのだろうと思う。

 夜は長い。これからいっぱい話して、いっぱい笑って……まだどうなるかは分からないけれど、いい大人が二度目に落ちるだろう、コイノハジマリ。




 

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