第5話 揺れるハジマリ

 風が吹いている。ふわりと柔らかく、愛しくさえ感じる風。いつもなら気にも留めないことだけれど、その風はちょっと違う風だった。その風は、いつもなら、メルヘンなことになんて興味のない俺の心にさわやかな何かを吹き込む。優しい、温かい、何か。

 目の前の緑の葉が揺れ、サワサワと音がする。きれいな青空の中に、その緑はくっきりと、それでいて優しい印象を与えた。思わず見上げてしまうその緑の木。

 こんなに気持ちのいい日にその緑を見つけたことは、なんだか宝物でも見つけたような、そんな気分になる。そして、その宝物を見つけたのは、どうやら俺だけではないことに気づき、俺はその子のそばに近寄った。

 ここへ来てからの変わらない日常に退屈し、イラついていた俺は「同志」を見つけた気がして、その女の子を見つけたことが嬉しくて仕方がなかった。

 緑の木の向かいには芝生があって、その芝生に設置された白いベンチに、一人の女の子が座っていた。

 膝に本が広げられているけれど、その本を読んでいるふうではなく、目の前に広がる緑に目を奪われているようだ。赤い縁のメガネをかけて、カラーリングもしていない黒い前髪を無造作にカッチン留めで右側に留め、ただひたすらに緑の木を見上げていた。

 その目の輝きに見とれて、俺はしばらく声をかけることも忘れ、彼女に見入っていた。でも、いくら見つめても、彼女が俺に気づくことはなく、まわりを歩く人の存在も、塀の向こうを行き交っているであろう車の音も、まったく彼女の中に入ってくることはないようだ。

 俺自身も、彼女に気を取られすぎていることにはっとして、ようやく彼女の隣に腰を下ろした。

「すごいよね。俺もつい見とれちゃった」

 俺がそう声をかけて初めて彼女は俺を見て、すぐに俯いた。そして急いで本を閉じると、立ち上がろうとする。俺はつい条件反射で、彼女の腕を掴んでしまった。

「あ……あの、ごめん。そういうつもりじゃなくて」

 どういうつもりじゃないんだ? と自問自答しながら、彼女の腕を離す。

「自分と同じものに感動してる人を見つけたから、なんか嬉しくなっちゃって。で、つい声かけちゃったんだけど。ごめん。迷惑だったかな?」

 彼女は俺を見て、それから俺の左足を見て、そしてベンチに立てかけてあった松葉づえを見た。

「バイクで転倒しちゃってさ。骨折。全治二か月」

 俺はギプスに入っている左足をひょこひょこと動かして見せた。彼女が少し笑ったように見え、警戒心が少し解けたようだ。ベンチにまた座りなおしてくれた。赤いメガネをかけなおし、俺のことをまっすぐ見つめてくる。そこまで見つめられると……こっちが緊張するんだけど。俺よりも年下……だよね? 高校生くらい?

「葉っぱがね、なんだか輝いて見えたの」

 俺がどう思っているかなんてかまわずに、彼女は一生懸命に話し出す。彼女の声が、俺の中に溶け込んでくる。不思議な感じだ。

「いつもは部屋で本を読んで過ごしているんだけど、今日は天気がいいから外に出てみたら? って看護師さんに勧められたの。ちょっと迷ったけど、出てきて正解だったわ。この木の緑、生まれたての命って感じがしない? こんな緑を生み出せるなんて、この木はすごいわ」

 興奮気味に話す彼女・その表情が、本当に嬉しいんだってことを感じさせて、俺も嬉しくなる。俺って単純だろうか?

「俺、野々山大胡(ののやまだいご)二十五歳。よろしく」

 俺が手を出すと、彼女が手を滑り込ませて笑った。

「私、三上奏(みかみかなで)です。同い年なんて、すごい偶然!」

「え? 同じ年? うそ! 高校生くらいかと思ってた」

 俺が言うと、彼女はプーっと頬を膨らませた。

「どうせ色気がないって言うんでしょ! お化粧も出来ないからすっぴんだしね!」

「いやいやいや、そんなこと言ってないし!」

 俺が慌てると、彼女はクスクスと笑った。

「野々山さんって、素直なんですね」

「何それ? 仕返しのつもり? 単純って言いたいわけ?」

 俺が言うと、お互いにおかしくなって笑った。久しぶりに大きな声で。まわりの人たちが俺たちを見てまた笑い、緑の木の前は、なんだか幸せなスペースが出来た。

 それから一時間ほど、俺と奏ちゃんはとりとめのない会話をして過ごした。当たり障りのない世間話、奏ちゃんが飼っているハムスターの話、俺のバイクの話、二年浪人してまだ俺が大学生って話、奏ちゃんは社会人一年生でOLさんだって話。

 話せば話すほど、奏ちゃんの気さくさと一生懸命さが伝わってきて、ここ以外でも会いたいな……という思いが強くなっていた。一時間があっという間に経って、奏ちゃんが立ち上がった。

「そろそろ戻らないと」

 俺も松葉づえを頼りにヨロヨロと立ち上がった。

「じゃあね! 野々山さん!」

 奏ちゃんがにっこり笑って背中を向けた。本を大事そうに抱え、俺の前から去っていく。俺は、今言わなきゃいつ言う! って覚悟で、奏ちゃんの背中に向かって叫んだ。

「あの! ここ以外でも会えないかな?」

 奏ちゃんがびっくりした顔で振り返り、戸惑った顔をして立ちすくんでいる。俺はヒョコヒョコした足取りで奏ちゃんに近寄ると、もう一度言った。

「ここ以外でも会いたいんだけど」

 奏ちゃんは俺を見つめ、寂しそうな顔になる。……迷惑だったか。

 俺はさっきまでの時間を共有していた幸せな気持ちが、萎えていくのを感じた。幸せだと思ったのは、俺だけだったんだ。

「私、ダメなの」

 奏ちゃんが呟いた。俺はその意味を聞きたくて、問い返した。

「何がダメなの? 俺が?」

 奏ちゃんは大きく首を振った。そして、うるうるとした瞳で俺を見つめる。

「私、結婚出来ないの」

 突拍子もない言葉に、内心俺は焦った。今、この時点で結婚? もう? 驚いている俺の前で、奏ちゃんは視線を彷徨わせる。

「いきなり結婚なんて突拍子もないって、びっくりしたでしょう? 野々山さんには分からないと思うけど、私には真剣な問題なの。野々山さんとおしゃべりした時間がどれだけ楽しかったか、野々山さんには分からないと思う。私だって、ここ以外で野々山さんと会えたらって、そう思ったの。でも、野々山さんに迷惑かけちゃうから、だからダメなの」

「何が迷惑なの? そういえば、奏ちゃんはなんでここに入院してるの? なんの病気?」

 俺は何気なく聞いた。病院の中庭で出会った俺たち。何かの病気で入院しているのだろうというのは、暗黙の了解のもとだ。

 奏ちゃんの目から涙がこぼれ始めた。大粒のきれいな涙だった。流れ落ちてしまうのがもったいないほどの。その涙を見て、俺はなんとなく感じたことを口した。

「何か治らない病気?」

 奏ちゃんはまたふるふると大きく首を振った。

「じゃあ別に問題ないじゃん。奏ちゃんも会いたいって思ってくれていたなら、俺たち、気が合うってことなんでしょ? じゃあ……」

 俺が言いかけた言葉を遮って、奏ちゃんが言った。

「……私、子宮を摘出したの。全部、ないの」

 俺には女の人の体の構造なんて、よく分からない。ましてや子宮が女の人にとってどれだけ大切なのかとか、どういう役割をしてるとか、子宮を摘出した気持ちとか……何も言えずにいる俺を見て、奏ちゃんは続ける。

「今日ほんの少しの時間を共有して、楽しかったから……それだけじゃ、私を受け入れていくのは無理だと思うの。野々山さんとお付き合いして、もし結婚なんてことになったら、野々山さんは子供が欲しいって思うかもしれない。でもそのとき、私は子供を産むことが出来ない。そうしたら、お互いに傷つくでしょう? だから……」

 奏ちゃんが話す言葉を聞いていたら、俺は無償に腹が立ってきた。

「奏ちゃん、奏ちゃんにとって、この問題が深刻だってことは分かった。だけど、決めつけてしまうのはよくないと思う。俺も今すぐ責任が負えるかっいうと、それは出来ない。でもさ、俺たち、今出会ったばっかりじゃん。傷つくかもしれない将来のことで、今別れてしまう必要はないと思う。違う?」

 イライラをぶつけてしまったかもしれない。でも、ここで俺が引き下がったら、俺自身がちっさい人間に思えたし、奏ちゃんとの出会いは、言葉では言い表せない「大事なこと」のように思えて

仕方がなかった。

「さっき、緑の葉っぱを見つけたときの奏ちゃんの表情とか、気持ちとか、俺と同じだったんだ。

いつもなら気にも留めない風のことが気になったりしてさ。うまく言えないけど、奏ちゃんを見つけられた俺は、ラッキーだったと思ってる。傷つくかもしれない未来を恐れるんじゃなくて、とりあえず『今』を俺と生きてみようよ。もちろん、いつか来るかもしれない現実を、奏ちゃんと一緒に俺も真剣に考えていくからさ」

 奏ちゃんの目から、再び涙がこぼれ落ちた。

「……ありがと」

 どうにか聞こえるくらいの声で、奏ちゃんが答える。震える肩。俺は松葉づえを放り投げ、奏ちゃんを抱きしめた。

「OKってことでいいんだよね?」

 俺は腕の中の奏ちゃんに確認する。奏ちゃんは小さくこくんと頷いた。俺は思わず「よっしゃー!」と叫び、みんなの注目を集めてしまった。俺たちがいた中庭では、事の成り行きを見守っていた人たちの拍手が起き、俺たちは照れ笑いをしながらペコリと頭を下げた。あの木の緑も、嬉しそうにさわさわと笑っているようだ。

 俺が言う「今を生きて行こう」というのは何にも考えてないだけの理想かもしれない。ただ楽しいだけの付きあいではなくなって、厳しい現実と向き合ったら、俺は折れてしまうかもしれない。でも、それでも奏ちゃんと会えなくなるのはイヤだと思った。

 これからお互いのことを知り、現実を向き合うことも視野に入れて……

 病院の中庭で出会い、付き合う前に結婚の話までしてしまった俺たちの、現実と理想の間で揺れるコイノハジマリ。





 

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