第2話 ギャップからのハジマリ
いつもだったら難なく歩くことができるであろう砂浜も、今日は白いしぶきがあがり、時折大きな波が押し寄せて危険極まりない。風はそうでもないけれど、今日の海は荒れている。変に近寄ったら、波にのまれることだってあり得る。そう思いながら、靴が濡れない距離を測って波間に近寄った。頬に冷たいしぶきが飛んでくる。ザッブン、ザッブンと、今日の海は色気のない音を立て、感傷に浸るには向いていない。
「はぁ」
そんな波を見つめながら大きなため息をついたところで、不意に後ろから声をかけられた。
「オジサン? だいじょぶ?」
今の、空耳か……? 俺は自分の耳を疑いながら振り返る。
「オジサン、だいじょぶ?」
その声の主は同じことを言った。……俺に言ってるんだよ……な?
この浜辺には誰もいなかった。誰もいないことを確認して、こうして浜辺へと下りて来たのだから。
「オジサンって、俺のこと言ってるの?」
俺は、遠慮するでもなくこちらを覗き込んでくる女子高生に尋ねた。
「やーねー。オジサン、自分で自覚ないの?」
女子校生はふふっと笑った。俺はカチンときて。
「俺はまだ三十だ。オジサンじゃない!」
きっぱり言ったけれど、それが女子高生にはまたウケたようだ。
「オジサンはみんなそう言うんだよ!」と、ゲラゲラ笑う。
近くの高校に通っている子なのだろう。セーラー服で、超ミニのスカート。今日は肌寒いのに、素足にソックス。今時三つ編みは流行らないのか、ポニーテールに結い上げられた髪は、少し明るい色をしている。染めているのか、この色が地毛なのか?
「オジサン、見すぎ! 何よ? 女子高生が珍しいの?」
俺は、ついつい見つめていた素足から、急いで目を逸らした。
「うるせー。さっさと帰れ」
俺は女子高生から再び海へ視線を戻した。
くそっ。子供にまでからかわれるなんて、俺、ダメダメじゃん。心の中で自分に突っ込む。荒れた海を見て、少し落ち着いたように思えていた気持ちが、また深く沈んでいく。
「はー。しょうがないな。これだから大人って面倒よね」
女子高生は悟ったように言って、俺の隣に立った。大人相手に堂々とした態度。俺の肩ほどしかない背たけなのに、なぜかすごく存在感を放っている。
「止めないけどね。一応言っておくよ。今日、けっこう海が荒れてるじゃない? こういう日に海に入ると、死体も見つからなかったりするよ?」
俺はドキリとして、女子高生を見下ろした。
「図星?」
女子高生は、高校生なのだから、当然十七、八歳くらいなのだろうけど、すごく大人びた目をしていて、俺の心なんて見透かしているように思えた。
「何があったか知らないけど、死ぬなんて、最後の最後の決断だよ? 後悔しないくらい努力した? もうこれ以上は無理っていうくらいやってみた?」
女子高生の言葉にぐっと詰まる。
くそっ! 俺はこいつよりずっと大人で、男で、年上で……なのに、言い返せない悔しさだけが胃の中でキリキリする。最初はこの女子高生に対して怒りが沸いた。くそっ! くそっ! って、そればかり。
でも、荒れている波音と、俺のことを怖がりもしない女子高生の態度を見ているうちに、段々と冷静さを取り戻してきたらしい。女子高生に当たっても仕方がないことなのだと気づいた。そうしたら、気を張っていた分力が抜けたのだろう。俺は、へにゃりとその場に座り込んだ。女子高生も、俺の隣にカバンを抱えて腰を下ろした。しばらくの間、俺も女子高生も口を開かなかった。
「彼女がさ、浮気してたんだ」
今会ったばかりの普通の女子高生に、なんで俺こんなこと……? そう思うのに、この子に聞いて欲しいと思った。この子になら話せる気がしたのだ。
「彼女とは五年付き合ってる。あ、もう付き合ってた……になるのか。俺は結婚を考えていたんだけど、タイミングが合わないっていうか……浮気相手から直接俺に電話があってさ。そいつ、俺の友だちだったんだけど、俺のことを相談してるうちにってことみたいで……『結婚したいから、別れてくれ』って言われた。いつの間にか、俺のほうが浮気相手になってたっててさ……笑えるだろ?」
波は相変わらず激しく水しぶきを上げ、頬にしぶきが飛んでくる。
「オジサン……」
オジサンと言われても、もう否定する気にもならない。あぁ、もうとことん笑ってくれ。オジサンは傷ついてるんだ。
「彼女さんって、もしかしてオジサンと同じ年だったりする?」
女子高生は、真剣な目で俺のことを見つめてくる。さっきから俺のほうが押されている。何者なんだ? この女子高生?
「そうだけど。よくわかったね」
透視能力でもあるのかと驚く俺を前に、女子高生はヤレヤレとでも言いたげに、アメリカ人がよくやるようなジェスチャーで肩をすくめ、やけにオーバーに手を上げた。
「オジサン、女心がわかってないわ!」
女子高生ははっきりそう言いきり、俺に説教を始めた。
「五年も付き合ってて、しかも同い年でしょ? そりゃあ、彼女さんは焦ってたと思うわ。女って、三十歳になる前には結婚したいってよくテレビとかで言ってるじゃん。私だって、いけるなら早く嫁にはいっときたいって思うもん。それに、オジサン見てると押し切れなさそうっていうか、なんていうか。はっきり『結婚』なんて言葉、彼女さんに言ったことないでしょ?」
「うっ……」
あまりに図星すぎて、言葉に詰まって仕方がない。
「そういうのはね、ちゃんと言葉にしないと伝わらないの。一緒にいるから分かるだろうなんて、
そんな以心伝心できる人なんていないわよ?」
この女子高生、想像力が豊かすぎる。なぜこうも俺のやってきたことがわかるんだ?
「う、うるせー。お子様のお前には分からない、大人の事情ってのがあるんだよ」
精一杯強がって言う俺。なんて情けない。
「なーに強がってるんだか。自分がヘタレのせいで失恋したくせに、それで海なんて。マンガの世界じゃないんだからね。ここでオジサンが死んだって、彼女さんにはただのあてつけにしかならないのよ? 彼女さんが戻ってくるなんてことはないんだからね?」
なんなんだ! この高校生は! さっきから俺のことを言いたい放題に言いやがって。なんとか凹ませる方法がないかと考える。いつまでもこんなお子様にやられてばかりでたまるか。
「お前こそ、こんな荒れた海に何しにきたんだよ。案外、お前も俺と同じこと考えてたりするんじゃないの?」
俺はふざけたつもりだった。やられっぱなしじゃ気が済まないから、ちょっとくらい凹ませてやろう! そんな軽い気持ちだったのだ。なのに、途端に女子高生の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ち、それまで流暢な言葉が流れ出ていた唇をきゅっと固く結んだ。
ちょ、ちょっと待て! 何だよ! さっきまでの強気な女子高生はどうした?
俺はオロオロしながら、声を押し殺して震えている女子高生を自分の方へ抱き寄せた。さっきまでの強さはどこへいったのか、女子高生は俺のされるがままに、俺の腕の中で震えている。ぎゅっと俺の背中を掴んだまま。
しばらくそうしているうちに、女子高生は落ち着いたのか、俺の胸を軽く押し返した。
「ごめん。ありがと。もうだいじょぶ」
セーラー服の袖口で何度も目をこする。全然大丈夫そうには見えないけれど、かけるべき言葉が浮かばない。こういうとき、口下手な自分を呪いたくなる。
「なぁ、お前も死にたいって思ったわけ?」
聞くべきことじゃないかもしれないけれど、俺の恥だってさらしたわけだし、俺には女子高生の話を聞いてもいい権利がある気がした。
「どうしてもってわけじゃないよ」
女子高生は、さっきの強気がウソのようにおとなしく言う。
「ここのとこ、何もかもうまくいかないんだ。進路も決めなきゃいけないのに、これってものが見つからないの。あたし、何が自分に向いてるのかもわかんないし。なのに、みんなどんどん将来のこと決めちゃうし、ほとんどの子が彼氏持ちだし。世の中が私だけ置いて、どんどん進んでいっちゃう気がしてさ」
そうか。なんかわかる気がするな。俺も高校生の頃にそういう気持ちになったことがある気がする。忘れていた、もう遠い、戻れない過去……
「お前の気持ちは分かる。だけど、そう悩まなくたって、けっこう生きてけるもんだぞ? 未来なんて、はっきりこうなります! って分かってるもんでもないしさ。分かってたら、おもしろくないことだってあるわけだしさ」
俺が必死に言葉を探しながら言うと、女子高生は涙を溜めたままゲラゲラと笑い出した。
「オジサン、必死すぎ! 分かってるって。さっき言ったでしょ? 私、まだ後悔しないくらい努力もしてないし、もうこれ以上は無理ってとこまできてないもん。だから、まだ死ねないの」
女子高生の目には、もう俺がとうの昔に諦めてしまった光が浮かんでいる。もう俺には手にすることが出来ない眩い光。
「お前、すごいな」
ポロリと言葉が出た。まだ俺の半分くらいしか生きていないのに、俺よりはるかに大人だ。女子高生は、俺の口からこぼれ出たコトバを聞くと、明らかに動揺し、みるみる赤くなった。ふっと、俺は微笑む。こういうところはまだ子供か。なんだか安心している自分に驚く。
「死ぬのはいつでもできるもんな。よし、じゃ、まずは行くか!」
俺は立ち上がり、女子高生に手を出した。女子高生は俺の手を見つめ、戸惑っている。
「彼女への結婚祝い、一緒に選んでもらえないかな? 俺には女心ってのが分からないらしいからさ」
俺が言うと、女子高生は明るく微笑んだ。そして、俺の手に自分の手をのせた。
「そういうことならまかせて!」
俺の人生半分くらいしか生きていないくせに、年上の俺がへこまされるくらいにこの女子高生はやたらと頼りがいがある。なのに、それが嫌じゃない。ヤバいかな? 俺……? 犯罪ギリギリな気がしないでもないが、俺と女子高生は一緒に波間を後にした。
波はまだ荒れていたけれど、先程までの心の中とは違い、俺の心の中は落ち着いていた。元カノにも「おめでとう」と素直に言えるだろうと思えるほどに。これもこの女子高生のおかげなのだろう。今日のお礼に晩飯くらいは奢ってやるか。そんなことを考えながら、手を繋いでいる女子高生が眩しくて、俺は目を細めた。これからのことなんて考えてもいなかったけれど、これが、強気でありながらも可愛いと思える女子高生と、オジサンと呼ばれる俺の、コイノハジマリ。
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