コイノハジマリ

恵瑠

第1話 かけひきのハジマリ

 「えっ……」

 言いだしたのは私なのに、店長の返事を聞いた途端、私の口も顔も体も、手や指先の神経、細胞までが全て固まった。

 私が、バイトをしているカフェの店長に好意を持っていることは、バイト仲間の間でも有名になっていたようだ。私としては、店長のことを見ていられるだけでいい。そう思って、バイト募集の張り紙を見つけたのと同時に、バイトに雇って欲しい。と申し出たという経緯がある。

 私は元々、このカフェのお客だった。大学の近くにあるこのカフェは、うちの大学のご用達のようになっていて、サークルの集まりや、デート等でよく使われている。

 ピアノが流れるシックな店内と、無駄なものを置いていないクールさ、なのに料理のメニューは充実しているし、盛り付けもオシャレ。その上味も申し分なく、お値段も手軽。そんなおしゃれなお店は大学の近くではこのカフェだけだったこともあって、私はどこかのサークルに入っているわけでもなかったけれど、友だちに連れられてランチに来たり、おしゃべりに来たり……と利用していた。

 最初はランチが目当てで通っていただけだったのに、店長がにこやかに笑って迎え入れてくれることが何より嬉しく、楽しくなって、私は一人でもこのカフェに通うようになっていた。毎日のように通う私のことを店長も覚えてくれて、カウンター席に座る私にこっそりサービスで一品つけてくれたりもして。

 そしてある日見つけた「バイト募集」の張り紙。

 これは! チャンス!

 そう思って、自ら「雇ってください!」と乗り込んだ。善は急げって言うし?

「翌日からでいいよ!」と言ってくれる店長を遮って、その日から私は、毎日大学が終わると速攻でカフェに走り、仕事をこなしていた。料理もお皿洗いも、掃除も好きだし、人と接するのも嫌いではない。だから、私は店長と会うためのバイトではあったけれど、仕事に対して不満もなく、充実した毎日を送っていた。

 でも……。私の「店長好き好きオーラ」は、まわりの人に見え見えだったらしい。

 バイトは、私のほかに、曜日によって男の子だったり、女の子だったり、の三人が交代で入っている。毎日通ってるのは私だけだから、店長狙いっていうのは、見え見えだったかもしれないけれど、私としては、気づかれないようにしていたつもりだった。

 なのにある日、その日のシフトに入っていた同じ大学に通う経済学部の和也(かずや)くんに言われたのだ。

「ねぇ、花(はな)ちゃんって、店長に告白しないの?」

 その言葉に凍りついたのは言うまでもないけれど、そのあとの和也くんの言葉に、私は氷の絶壁に立たされた気がした。

「店長、最近言い寄られてるよ? 花ちゃん、急がないとヤバいんじゃない?」

 店長が言い寄られてる? 気づかなかった! 毎日一緒にいるのに、いつ、どこで?

 いやいやそれは置いといて、もし店長がその子と付き合うことになったら、私にはもうどうすることも出来ない。あれ? でも、店長には彼女なんていないのだろうか? そう言えば、そういう噂すら聞いたことがない。バイトを始めて早くも半年が過ぎたというのに、側にいられることだけで満足していて、店長のプライベートなことを聞いたことも、知ろうとしたこともなかった。

 あぁ、私のバカ!

 そうして、和也くんの言葉により焦りに焦った私は、その日カフェが閉店し、後片付けを済ませた和也くんが帰り、店長と二人になったことを確認すると、勇気を振り絞って店長に声をかけた。

 店長はカウンターの椅子に座り、その日の売り上げを計算したり、帳簿をつけたりしていたようだ。仕事中は後ろに一つに束ねられている黒髪のゴムをほどき、肩より少し長めのストレートの髪の毛を無造作にかきあげながら、店長は電卓を叩いていた。店長のトレードマークのカフェエプロン、黒い長めのエプロンはまだ着けたままだ。

 私も帰ったと思っていたらしい店長は、私がカウンターの中に現れたのを見て顔を上げ、ちょっとびっくりした顔をしたけれど、すぐさまいつもの優しいにこやかな笑顔を浮かべて「どうしたの?」と聞いてくれた。

「店長、あの……私……」

「うん? 何か悩み事?」

 店長の黒目が、滑らかなビロードのように私を包み込む。店長の目には今、私しか映っていない。それがなんだかとても贅沢なことのように思えてしまう。

「悩みというか、あの、あの、あの! 私、店長のことが好きなんです!」

 直球! もう少し可愛く、色っぽいことが言えなかったのだろうか? 言った直後に後悔した。顔が上げられずモジモジしていると、店長の深く大きなため息が聞こえた。

「そっか……」

 椅子の背もたれに寄りかかって、天井を見上げている店長。上を見上げる店長の顎のラインがセクシー。なんて思ったけれど、深いため息ということは……迷惑だったってこと? 戸惑ってる私を見て、店長は少しだけ笑みを浮かべた。

「花ちゃん、俺ね、花ちゃんのこといい子だなと思ってるよ。好きだなって思うこともあるよ。でもさ、花ちゃんは、俺のこと全て受け入れられる?」

 イエスかノーという答えしか想像していなかった私は、私が考えつく答えとは全く異なる不可思議な問いかけをされて、どう答えるべきなのか頭の中で懸命に考えた。けれど、どう言えばいいのか、ベストな言葉が全く思い浮かばない。

「受け入れるって、どういうことをですか?」

 恋愛経験の乏しい私には、そう問い返すしかない。

「そうだな。まずは年の差? 花ちゃん、二十一歳だったっけ? 俺、もうじき三十四だよ?」

 年令が離れているだろうなとは思っていた。店長は若く見えるけれど、こんなに素敵なカフェを開く資金があるということは、ぽっと出の学生に出来るようなことではない。でも、十三歳も年が離れていたのにはちょっと驚いた。

 だけど!

「年齢は関係ないです! 私が子供だって言われるのなら、大人っぽくなれるように努力します!」

 私が言いきると、店長はさっきより口角を上げた。

「俺ね、束縛が嫌いなんだ。メールの返信もそうしないと思うし、毎日電話をかけたりもしないと思うよ?」

 メールや電話が嫌いってことか。うーん。それはそれでちょっと寂しい気はするけど、でも!

「店長とはお店で毎日会えますもん! だから大丈夫です! それに、寂しいときは『寂しい』って口で言います! その時は、店長だって少しは構ってくれるでしょう? 知らん顔はされないでしょう?」

 大真面目に私が言うと、店長はさらに口角を上げた。

「俺ね、子供がいるんだけど……それはどう?」

 思考も、動きも、神経も、細胞も、何もかも全てが停止。店長に、子供? ってことは、店長は既婚者で、つまりは「受け入れる」っていうことは愛人になれってこと? 『子ども』と『愛人』という言葉が頭の中でぐるぐるとまわり出した。あの優しい微笑みも、にこやかな笑顔も『営業用』で、私はその『営業用』に騙されて告白しちゃったってこと?

「やっぱコブ付きには抵抗あるでしょ?」

 寂しげな目で言う店長。そんな目、ズルい!

「俺ね、けっこう告白されることがあるんだけど、子供がいるって言うと、みんな引いちゃうんだよね。だから、花ちゃんもごめんね。気にしないで? 今日の花ちゃんの気持ちは聞かなかったことにするし。もし、俺とのことで仕事がしずらくなるっていうのなら、俺の知り合いの店を紹介するから、そっちに移るのも……」

 言いかける店長に、私はカウンターの中から叫んだ。

「なめないでください! 私は店長が好きなんです! 年の差とか、束縛嫌いとか、子どもがいるからとか、そんなことで……。そんな生半可な気持ちで告白したわけじゃないんです! 事情は分からないし、奥さんがどうとか、そういうのも今すぐ! ってわけにはいかないし、愛人になるのはムリですけど、でも! 私は店長が好きなんです!」

 自分でも意味不明のことを口走っているとは思ったけれど、断るなら断るで「私のことが嫌い」って言えばいい。それをまわりくどく、俺こんなんですけどー? 的ないい方で、私の方から引かせようとするなんて! 私の気持ちを馬鹿にしてる! 奥さんがいるとか、子供がいるとか、

そんなことは別にして、ちゃんと私と向き合って欲しかっただけなのに。そう思ったら、涙が溢れて来て、嗚咽が漏れた。

 私はくるりと踵を返すとロッカーに向かい、制服を脱いで私服に着替えた。その間も涙は止まらない。私は泣き止むことを諦め、泣きながら荷物を持つと控室を出た。

 と、ドアを開けた瞬間、ドアの側に立ってた人にぎゅうううっと抱きしめられた。でも私は、抱きしめてくる店長の手を振りほどいた。

「私、愛人にはなれません! 不倫はダメです! 子供さんが悲しむことになるって分かってるじゃないですか? 店長だって、分かってるくせに!」

 そう言う私を、店長は更にぎゅううっと抱きしめた。

「……ごめん」

 耳元で囁かれ、また目に涙が溢れる。

「もうバイト辞めますから。もうここへは来ませんから……」

 店長の腕の中でようやくそう言うと、また店長が耳元で「ごめん」と言い、私の顎を持つとぐっと顔を上げさせた。店長の目が私の目を捉える。頬を涙がつたい、涙が頬から顎へ流れ、そこから雫となってポタリ、ポタリと床に向かって落ちていく。

「ごめん。さっきの、全部ウソ」

「え……?」

「歳はホントだけど、後はウソ。俺の見かけとか、カフェの店長と付き合ってみたいとか、そういう子多いから、そのときのためのウソ。ああいえば、大抵の子は『最低!』って言って、俺のこと嫌いになるみたいだからさ」

「奥さんは?」

「いないよ? 結婚なんてしたことないもん」

 飄々とした表情で店長が言う。

「子供は?」

「いるわけないじゃん。奥さんもいないんだし?」

 けろりと言い放つ店長。

 信じられない! 涙も止まらず、言葉も出ない私に店長は唇を寄せた。

「『なめないでください!』は効いたよ。花ちゃん」

 何がどうなっているのか? こんなことされてていいのか? 思考能力がうまく働かない。そんな私を面白そうに見て、店長はキスを繰り返す。そのキスを受けながら、私騙されてないよね? と目を閉じ……


 翌日、昨夜のことが夢だったのではないかと思いつつも、カフェへとやって来た私がロッカー室に入ろうとしたとき、中から声が聞こえ、私はドアの前で足を止めた。

「店長、もういい加減にしてくださいよ?」

 和也くんの声だ。そしてすぐに、店長の声が聞こえてくる。

「お前、いい仕事してくれたな! 特別ボーナス弾むぜ?」

「こういう裏の店長を知ったら、絶対花ちゃん引きますよ?」

「大丈夫! 花ちゃんはちょっとやそっとじゃ引かないよ?」

「そうですかねぇ? 実は店長が黒いって知ったら、俺なら完璧に引きますけどね」

「男はねぇ、好きな子にはイジワルしたいもんなんだよ。大体、花ちゃんの好きなランチに一品つけて餌付けしたり、花ちゃんが来る時間を見計らって『バイト募集』の張り紙したり、俺だって苦労してるんだからさ。これくらいのイジワルは許してもらえる範囲じゃないの?」

 え、餌付け? 私、餌付けされてたの……? バイトの紙も……? えええ?

「いやいやいや、そういうこと全てを計算して花ちゃんを手に入れるってとこが『黒い』んですって!」

「しょーがないじゃん! 好きなんだからさ!」

「だから! 好きなら、店長から好きですって言ってあげればいいじゃないですか!」

「お前、分かってねーなぁ。花ちゃんの方から『好きなんです』って言われるのが、たまらないだよ! かなり待ってはみたけどさぁ。花ちゃん、全然言ってくれないからさ。これは次の手に出るしかないと思ってお前に頼んでみたんだけど、我ながら正しい選択だった!」

「あー、はいはい。いいですけどね。でも、言っておきますが、店長、かなり屈折してますよ?」

「うるさい!」

 二人の会話はまだ続いていた。私はそぅっとドアの前から離れると、もう一度カフェの外に出た。そして、一度すううっと息を吸い込むと、元気にドアを開け「こんにちはー」とわざと声を上げて再び中に入った。ロッカー室の方から、にこやかな店長と、ちょっと顔がひきつった和也くんが現れ、二人は何事もなかったかのように私に「お疲れ!」と声をかけた。

 店長はコーヒーのサーバーの方へ、和也くんは掃除道具を出すために倉庫の方へ。私がロッカー室へ行こうとすると、右手をそっと引かれ、店長の黒目にまた捉われた。

「店が終わってから、デートしない?」

 店長が言う。私はにこやかに笑うと「いいですよ」と答え、ロッカー室へ入った。

 彼らは、私が話を聞いたことに気付いていない。店長が実は「黒い」と聞いたことも、和也くんが店長のイジワルに手を貸したことも、全てが店長の計算だったと私が知ったことにも気づいていない。

 そのことがおかしくなって、私はロッカーで笑ってしまった。

 隠せているようで、隠せていない店長。黒いのか可愛いのか、微妙なところだ。でも、それが許せてしまうのだから仕方がない。好きって気持ちは、それだけすごいことなのだろう。これからどんなイジワルをされるのかちょっと心配ではあるけれど、恋愛初心者の私と腹黒店長とのカケヒキを覚悟しつつの、コイノハジマリ。









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