第8話 ストーカー扱い
看護師の副島亜希子はここでは珍しく自分のことを話す人だった。複雑な家庭環境に育ち、恋人から暴力を振るわれ、仕事でも苦労をした。そして、持病もいくつかある。そういったことを舌っ足らずな喋り方でまくしたてるように話した。そのすべてが本当なのかは疑わしかった。すべて嘘かもしれなかった。
私は聞き役に徹しているつもりだったが、それでも質問はいくらかした。私から聞くわけではなく、あくまで彼女が話したことに関する質問だった。
だが、私の記憶力の良さが彼女には不気味に思えたらしい。次第に口ごもるようになり、「あー」という間が多くなった。最初のうちは笑顔だったが、そのうち真顔で答えるようになった。
なぜ、そこまで彼女が私にプライベートな話をしたのかはわからない。ただでさえ、その手の話は禁じられているはずだった。もっと不思議なのはある程度まで話しておいて、みなまで言わないという彼女のスタイルが何を意味しているのかだった。
狐のお面のように地味な顔だったが、それが時にビクビクと震え、顔の左半分だけで笑っていることがあった。
だが、私は彼女と距離をとることはあるまいと考えていた。なんとなく彼女とは話しやすいと感じていたし、フィーリングが合うとも思っていた。
この隔離された施設で他に話す人がいなかったせいもあったかもしれない。
私はたまに湖畔でFと呼ばれた女性を見かけることがあった。だが、たいてい横顔や背中を遠くに見るだけだった。
その話を副島にすると、はじめのうちは私に対して同意をするというか、肯定的な意見を述べてくれていたが、私がその女性の髪形について触れた途端、副島は態度を急変させた。
例の女性はロングヘアで、副島はショートカットだった。ここに意味があるのかはわからない。
それ以来、副島は露骨に私を避けるようになり、私が話しかけても笑いながら立ち去ってゆくのだった。なぜ笑っていたのかはわからなかった。私が何を言っても「他の人に言ってください」「そんなことを言われたら困る」など、私には彼女が何を言っているのかわからなかった。どういう気持ちなのかが。
やがて私は看護師長の瀬戸崎に呼び出された。「副島さんがあなたにしつこくされて困っているから、これ以上、接点をもつことをやめるように」とのことだった。
副島は他にもいろいろな人に私の話をしたらしく、時おり白い目で見られることを感じた。
若手医師の内川とその話になったときも、彼は「誤解を解いた方がいい。直接話せないなら手紙でも渡せば」と言った。
こういう話は、寝たきりの女性患者に夢中の木原や、ここのすべてを見下している筋肉質の古瀬に話しても意味がないと思われた。
私には何がなんだかわからない一件だったが、自分なりに考えてみて、たぶん副島亜希子は妄想癖と虚言癖の強烈な女性なのだろうという結論に達した。地味で他人から相手にされないため、あることないこと語り、立て板に水のごとくしゃべり散らし、彼女といるとラジオを聴いているようだった。普段はひとりぼっちでしゃべらないぶん、どこかに発散する場所を求めている。それでも足りないから、次々と嘘を生み出し、妄想を爆発させる。
これ以上、関わらない方がいい。内川の言っていた誤解を解く方法はむしろ地雷を踏むようにも思われた。
このことはもちろん田沼の耳にも入っていた。だが、彼からはお咎めなしだった。むしろ「水井さんは女性にもてるんですね。そんなに男前でもないのに」と冗談のように言っていた。
「看護師とごちゃつくなんて大したものです。たいていの事務員は相手にされませんから。でも、女性の方が多いですからね。必然、おこぼれもあるでしょう。ただ、患者さんはなるべくね。特に、例の彼女はダメですよ」
田沼は付け加えるように言った。
「水井さん。最近、手話も勉強しているそうですね。点字に手話。いずれ役に立つことがあるでしょう。紙はいくらか差し上げますよ。たくさんはダメですが。そのうち三階にも行っていただきましょう」
二階には軽い病気の患者、三階には目や耳が不自由な患者、四階には重症の患者がいた。
事実、私はそれまで出入りを禁じられていた三階に入れるようになり、目や耳の不自由な患者と点字や手話でコミュニケーションをとることができるようになった。
患者にとってはレクリエーション、私にとっては勉強という形で。
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