第6話 点字を学ぶ

 湖畔をひとり歩く女性は時々、医師から話しかけられていた。彼女は楽しそうに笑い、医師の体に触れるなどしていた。これを私は医師と患者のただの接触だと思っていた。

 私は禁じられてはいたが、彼女への接触を試みた。あくまで自然をよそおい、「好きなものは何か」「最近、何か楽しいことはあったか」など、あたりさわりのない会話をするように努めた。

 彼女の瞳は輝き、口角はこれほどにないまでに上がっていた。だが、自分では普通にしていたつもりだったが、どこか不自然だったのだろう、話しかける回数を重ねるごとに、次第に彼女の表情がぎこちなくなっていった。

 どこか驚いたような、そして、やがては気まずそうになっていった。

 私が話しかけると、蚊の鳴くような声になり、スタスタと行ったり来たりを繰り返した挙句、どこかへと逃げていってしまった。

 彼女は地縛霊か斧の女神のように湖畔にたたずむことが多かったが、誰かに禁じられたのか、その姿を見る機会が減っていった。

 私は彼女を探し、追い求め、話しかけるチャンスをうかがった。もっと彼女のことを知りたかった。どういう人間なのか、これまでの経緯は、そして病気のことも含めて。名前も知らない彼女を……。

 そして、とうとうある日、田沼に呼び出された。これが二度目の忠告ということになる。

「困りますね。水井さん、彼女に近づいてはいけません。もちろん、お気持ちはわかります。実際、そういう人は多いのですよ。何せ、ここは出会いがありませんから。でも、まあ、彼女だけはやめてください。いろいろと面倒ですから」

「恋愛を否定するつもりはありません。患者だからって恋愛してはいけないということはないですから。ただ、わかるでしょう。あなたは頭がいいから。別の人にした方がいいということですよ。まあ、木原さんが相手にしているような、ああいう……」

「あなたには期待しているんですよ。真面目だし、寡黙だし、最近めずらしい。何より頭がいい。ここにはあなたのような頭のいい人は少ないんです。そのうち、あなたにも新しい仕事を任せられるでしょう。それまでは……とにかく、今回のことは大目に見ますから。今後は彼女に近づかないようにしてください。周りの目もありますから。あなたにとって損になるだけです。誤解を招くだけですから……」

「でも、あなたにも人間らしいところがあるんですな。私はね、実を言うと安心したんですよ。あなたはどこか他人と違ったところがありますから。でも、かわいい子が好きになるなんていう、直接的すぎますか、まあ、確かに彼女はかわいいですから……」

 終始、田沼は奥歯に物が挟まったような言い方をしていた。みなまで言わないというか。

 何の特徴もない男だったが、小柄でまるい体で、頭が禿げ上がっているという特徴はあった。口臭がきついという。

 おそらく出会ったときから田沼のことは嫌いだったが、彼の言うことを守り、仕事は真面目にこなしていた。唯一、Fと呼ばれた彼女に関することだけは反抗したわけだ。

「そういえば、水井さん。最近、点字を勉強しているようですね。いや、感心感心。ここにも目の不自由な方はいらっしゃいますから」

 以前、私がここの図書室から点字に関する本を引っ張り出し、読んでいたところを誰かに見られたようだった。

 必要なものがあったら何でも言ってくれと田沼が去り際に言ったので、私は点字を打つための小型のタイプライターを望んだ。後にそれは私のもとに届けられた。田沼としては見返り品というか口封じのための品といったところだったのかもしれない。

 私は少しずつ点字が打てるようになっていった。目の不自由な患者とのコミュニケーションに役立つし、何かを勉強しているというのは気分の良いことだった。また、他の目的にも……。

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