第4話 湖畔に佇む美女
私たち事務員の日々の仕事は書類の整理とデータの打ち込み、このときはパソコンを使うことができたが、インターネットにつながっていないため、ほとんどワープロと変わらない存在だった。
他にも物を運んだり片付けたりといった雑用があった。清掃や洗濯は他の人たちが行っていた。
そのため、患者との接触は基本的になかったが、木原のように抜け駆けして患者に接する者はいた。
医師や看護師ともほぼ接触はなく、廊下ですれ違っても会釈もされない程度の扱いを受けた。彼らからすると眼中にもない、ただの雑用係か使用人といった感じだったのだろう。
湖畔を歩いているとき、例の女性が花畑にいるのを見つけた。私は躊躇したが、思いきって声をかけた。
彼女は切れ上がった目と大きな口をしていた。常に笑っているような顔だった。髪は長く茶色で、ウェーブがかかっていた。地毛のようだった。スタイルが良く、胸も膨れ上がっていた。その日も白いワンピース姿だった。
会話はなんとか成立した。ハスキーな、歯の間から息がもれるような声だった。突然「イヒヒ」と笑いだしたり、急にぎこちない表情になったりしていたが、単に恥ずかしがり屋の女性というふうにも解釈できないこともなかった。
何よりここでは若い女性と話せる機会がほとんどない。男である以上、そういう機会を求めるのはごく自然なことだった。
私は彼女と話していて束の間の幸福感を得た。なんとも不思議な気持ちだった。
湖の波立つ水面、ざわめく木立、落ちてくる葉、ゆれる花。そのひとつひとつを指さし、私は彼女に説明した。この世界のことを、四季のことを。
彼女は笑っていた。体をくの字にしたり、急にひねったりと奇妙といえば奇妙だったが、それすらも好意的に私はとらえていた。
「私は……まだ……こっちにいる……」
別れ際、彼女はよくわからないことを言ったが、私はあまり気にしなかった。
次の日には田沼からお呼びがかかった。どこでどう知ったのかはわからないが、「患者さんとの接触は基本的に禁じられています」「確かに、いろいろな人と話すことは患者さんにとって良い場合もあるかもしれませんが」などと言って、私と彼女が接点をもつことを禁じた。
私が何を言おうと、「それはそれとして」「向こうの受け取り方はまた違いますから」と言って、相手にしなかった。
彼のニヤついた顔が余計、何事も受け付けないという意思表示に見えた。こんなことは今までに何度もあった、こんな問答はうんざりだ、といった感じだった。
「木原さんにも、古瀬君にも困ってましてね。正直、お医者さんや看護師さんからクレームが寄せられています」
つまり、私たちは当て馬というかスケープゴートというか、ストレス発散の道具にされているんだなと思った。
医師や看護師にとっては楽園で、私たちにとっては地獄。患者たちにとってはあってないような世界。
医師や看護師は無限に雑談ができるし、笑い合うことも許されている。だが、私たちは沈黙を守り、暗い顔をしているしかない。そして「あの人たちはいつもどうしてああなんだろう。本当に陰湿で嫌だね」と言われるのが性に合っているというか適任というか、そういう役回りのようだった。
こういうことを不満に思い、辞めていく者も多いようだった。だが、辞めた者がその後どうなったのか不思議と誰も知らなかった。
連絡先を交換することは禁じられているし、それを書く紙すら容易には手に入らない状態だ。
また、過去の話をするのも極力やめろと言われていた。
「ここにはいろいろな経緯で来る人がいますからね。プライバシーは尊重しなくてはなりません」
そういう田沼はみなのことをどれくらい知っているのだろう、そしてこの施設のことをどれくらい……私は田沼を知ることが重要なようだと考えるようになった。
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