第2話 植物人間を弄ぶ
私が収容された部屋はアパートの二階にあり、ベランダからはちょうど向かいにある病棟のバルコニーでゆれる白いシーツの群れが見えた。
風にあおられ、むくれあがった隙間からはその奥の空間、また白いシーツがあるわけだが、そんな連続が見えた。
時おり一人の女性がシーツを干したり、広げたり、しまったりするのが見えた。その女性が看護師なのか、私はあまり目が良くないので、誰なのかまではわからなかった。
田沼が言っていた木原というのは六十前の男で、枯れ枝のように覇気のない男だった。
長年勤めた会社を辞め、ここに来たそうだった。今まで一度も結婚したことがなく、もちろん子どもを持ったこともないとのことだった。
「水井さんはひとりでいることが多いでしょう。それが誤解を招くんです。なるべくみんなとまんべんなく話した方がいいですよ。特定の誰かにだけ声をかけたりしたら、やはり変な人と思われますから」
そういう木原は一人の女性を愛しているようだった。
患者の一人で、しゃべることも動くこともできない、それこそ植物のような女性だった。日本人形のような顔と髪で、年齢はまだ二十代前半に見えた。木原はこの女性の体を丁寧に洗い、念入りにマッサージをしていた。
木原は私と同様、看護師でも介護職でもないはずだった。
たまたまその現場を私に見られたとき、木原は「かけもちなんです。人数が足りないから、こういうこともしないと」と言っていた。わりと平然と。私が口が堅く、他人とあまり話さないために安心しているようだった。
この施設は広大だが鉄柵で囲われていて、外部との接触は少なくとも普通の事務員にはほぼなく、出会いというか心を通わせる相手を求めるとしたら、それは看護師でも医師でもなく、患者なのかもしれない。
ただ、その患者のほとんどは無反応か奇妙な反応しか示さないわけで、これを普通のコミュニケーションと呼んでいいのかはわからなかった。
私は腫れ物に触れるように患者たちに接していたが、すれ違いざまに「おはようございます」などと笑顔で言われると、それはそれで少し嬉しい気もするのだった。特に若い女性である場合は。
そういう意味では木原は、確かにもっともな方法で相手を選んだわけで、あの彼女と少なくとも木原自身は心を通わせている気になっていたのだろう。
心を通わせている気になっていた……に違いない。
はたから見れば六十前のジジイがいろいろな意味で不自由な若い女の子に手を出していると映ったとしても、当人としては至極まっとうな、そして真剣な交際をしていたつもりだったのだろう。
木原が時おり見せる快活な笑顔は「自分はまだ若い。ジジイなどではない。オジサンでもない」と訴えているかのようだった。
「水井さんもまだ若いんだから」
まだ若いのだから、ここでお相手を見つけたら。六十前の男がそうしているのだから。
そうでもしなければ、ここでの生活はすぐに終わってしまうよ。
終わってしまうことが一番いけないことなんじゃないの。
終わってしまうことが……。
私はここに来た日に見た、湖畔で踊る女性を思い浮かべていた。彼女の長い髪を、彼女の白い横顔を。白い服を。白い……白い……白い……。
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