第1話 精神病院初出勤

 Y県の山奥深く、周囲を森に囲まれた広大な敷地に、それはあった。

 私がはじめて訪れたのは夏も終わりに近い頃で、木々の緑は深く、影もまた深く、目に映りこんできた。

 入口には巨大な鉄門があった。いばらをかたどったもので、黒ずみ、重々しく音を立てて開いた。まるで二度と開くことがないかのように。

 まず目に飛びこんできたのは湖……それとも、大きな池と言うべきか。だが、水は澄んでおり、どこからか流れこみ、どこかへと流れ出ているようだった。

 湖には木々が覆いかぶさっていた。木陰はいかにも涼しそうだった。

 敷地には芝生が敷かれ、所々に道らしきものがあった。舗装されているものもあったが、たいていは土がむき出しの道だった。そこを一人で歩いている老人がいたが、どのような人なのかよくわからなかった。

 一見すると人がいないようにも思える芝生の広がりのなかに、ぽつんぽつんと二階建てのアパートが建っていた。どれも新しいようだった。

 所々に、放送用のスピーカーが付いた鉄柱とか、病院旗を揚げるためのポールが立っていた。

 敷地の奥には白い巨大な建物が聳えていた。窓ガラスがたくさんあったが、不思議と人影は見えなかった。開いている窓もあり、ゆらめいているカーテンもあったのだが……。

 ひょっとすると、ここには人がいないのではないかと思った。

 入口の大きな自動ドアを通り抜け、ロビーを歩いていった。新しいようだが、どこか古びてもいる、そんな印象だった。なぜ私がそう思ったのか、自分でも定かではない。たぶんどこかで見た光景と似ていたのだろう。古い緑の壺であるとか、枯れかけた枝のような植物だとかがそう思わせたのかもしれない。

「驚きましたか。ええ、そうです。ここはわりと新しい方でして……」

 一人の、なんの特徴もない男が私に話しかけてきた。会話の内容はよく覚えていないが、だいたいこんな感じだったと思う。

「水井さんですか。そうですか。確か、永井さんという方もいらしたし、水川さんという方もいらしたな」

 彼なりの冗談なのか、そんなことを言っていた。彼の様子は楽しそうでもつまらなそうでもなかったが、もともと私はそんなことに興味がなかった。

「ここにいらっしゃる方はみんなそうです。まずは少しずつ慣れていくことが大切です。私もそのように言われてます。最初は戸惑うかもしれませんが、徐々に慣れていきますよ」

 彼は田沼という管理人のような男で、新しくここに来る人間の世話というか案内役をおおせつかっているようだった。実際のところは事務局長なのだが、そんな感じだった。

「ご案内しますよ。ぐるっと一周。それでだいたいここのことがわかるでしょう」

 そう言って彼は私を外に連れ出した。白い病棟よりも先に緑の芝生ということのようだった。

 敷地の周囲を鉄柵が囲っていた。そのそばを歩きながら田沼は言った。

「別に電流が流れているわけではありませんがね。一応、脱走者が出ると困るので。この鉄柵を越えたところで森、というよりもまずは雑木林が広がっています。けっこう地面は平らなんですよ。木の実でも落ちていそうなね。その先は崖、というより急な斜面で、木もうねるように生えています。ジャングルと呼ばれていますよ」

「森を抜けたところで幹線道路がありますが、車はほとんど通りませんし、電話ボックスもなかったんじゃないかな。コンビニまで車で十分、二十分、どれくらいかかったかな」

「まあ、必要なものはそろってますよ。コンビニはありませんがね。売店はありますし。そこでたいていのものは買えます。雑誌はありませんがね。カップラーメンが食べたければ、それで。まあ、栄養満点の食堂があるわけですが」

 湖畔に出たとき、白いドレスのようなものを着た女性が遠くに見えた。水面を眺めているような、少し踊っているような……。

「あれは、まあ、気にしないでください。いろいろな人がいますから。あれはあれで、けっこう、ちゃんとしている方なんでしょうね。外を出歩いているわけですから」

 患者の人数だとか、どのようなレベルの患者がいるのかを聞こうと思ったが、まともに答えてくれなそうな気がしたので、やめた。

「一応、荷物をチェックさせてもらいますよ。まあ、念のためです。みなさんしていることですから」

 事務室に戻ったとき、田沼はそう言った。デスクの上に置きっぱなしにしていた私のバッグをおもむろに彼はあさりだした。だが、どうやら私たちがいない間に荷物のチェックは済んでいたようだった。

「ああ、これは」田沼はほくそ笑んだ。「まあ、いいでしょう。こういうものも必要ですからね。何せ、ここはパソコンもスマホも使えませんから」

 実際、私はここに電子機器の類は持ちこんでいなかった。仮に持ちこんでいたら没収、彼らの言葉で言うと一時保管ということになるのだった。

 外と連絡をとるには事務室にある固定電話を使うか、あるいは田沼に言って必要なものを送ってもらう、知り合いなり、ネット通販なりで。パソコンはいくらでもあるようだった。ただ、使える人間は限られていた。

 これはまるで刑務所か何かのようだった。だが、間違ってもそんな言葉は使えそうになかった。

「事務員で木原という者がおります。彼があなたの直接の指導者となるでしょう。他にも事務員はいくらかおりますので。そのうち紹介していきますよ。もちろん、お医者様や看護師のみなさまにもね」

 目に見える光景がよどみなく流れているような気もしていた。すべてが自然に、何事もなく、万事がうまくいっているかのように。

 太陽の光が射し、木の葉がざわめき、水面が波立つように、自然に、自然に……。

 だが、どこか不自然に、人間の息がかかる以上、どこまでいっても不自然に流されているようにも感じるのだった。

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