第10話 鬼ばばあの名前

 翌日は良く晴れた日曜日でした。マルは朝のパトロールを終えて、二度寝のために雲の上にいました。うつらうつらしていたマルの耳に、雲の下から叫び声や罵声が響いてきました。マルは慌てて跳び起きると、声がする方へと飛び立ちました。

 小学校のスクールゾーンの途中にある古い一軒家。その家の周りを街の人々が取り囲み、中にはご丁寧にプラカードまで作って参加している人の姿までが見えました。玄関は開いていて、そこに立っているのは鬼ババアです。そして鬼ババアの目の前に、ケンタの両親がすごい形相で向かい合って立っていました。ケンタの両親の周囲には数えきれないほどの街の人たちがいます。

「うちのケンタを毎日連れ込んで何をしてるんですか! あの子はまだ小学校三年生です。変なことを教えられては困ります!」

 ケンタのお母さんは何を勘違いしているのか、鬼ババアに向かってそう叫びました。その叫び声と共に、街の人たちが「出て行け!」と大声で喚きます。

「鬼ババアなんか出て行け!」

「この街には妖怪屋敷も鬼ババアもいらない! 出て行け!」

 その声は波のように前から後ろへと広がりを見せ、最後には「出て行け!」の大コールになってしまいました。こうなってしまっては、もうマルにはどうしようもありません。こんなにも大勢の人間の記憶を消し去るには、マルの羽では到底足りそうにないからです。

 どうしよう! マルは必死に考えました。考えて考えて考えて……。

 そうしているうちに、鬼ババアの前にケンタが両手を広げて立ちふさがりました。

「おばあちゃんを苛めるのは止めて! みんな、誤解してる! おばあちゃんは鬼ババアなんかじゃないし、ここは妖怪屋敷でもなんでもない!」

 ケンタは声をあげて必死で叫んでいますが、大人数十人を相手では分が悪すぎました。後ろの方にいる街の人たちには、ケンタの声は届きません。今度は後ろの方から「出て行け!」のコールが始まりました。

「出て行け!」

「出て行け!」

 マルはただ見守ることしか出来ず、空を飛びながら鬼ババアの様子を見守っていましたが、鬼ババアは、このまま倒れてしまうのではないかと思うほど、顔色が真っ青になっています。

「出て行けなんて言わないで! おばあちゃんは良い人なんだ!」

 ケンタは必死に叫んでいますが、大人は誰一人耳を貸しません。

 その時でした。

 プップー! 明るいクラクションの音がして、人々の間を一台の車が進んできました。その車は白い軽自動車で、車の横には「松竹動物病院」という宣伝文字と電話番号、それに犬や猫の絵が描いてあります。その軽自動車は鬼ババアの家の前で止まり、運転席からは長身の男の人が下りたちました。髪の毛を後ろに一つに束ね、白衣を着ています。そして助手席からは、茶髪の髪の毛をやはり後ろに一つに束ねたピンクのナース服姿の女性が下りてきました。

 男性が降り立ったとたん、街の人たちの中から「松竹先生?!」という声が上がりました。男の人は声がした方を向き、声の相手が誰であるのか分かるとにっこりと笑い「ポメラちゃんは最近調子いいですか?」と声をかけました。声をかけられた相手は「ええ、おかげさまで!」と、男性を見てうっとりした顔をしています。確かに男性は、イケメンと呼ばれる人間に属する部類だとマルは思いました。男性に限らず、助手席から降りて来た女性もとてもきれいな人です。

「それで皆さんはいかがされたのですか? うちの祖母が何かしでかしましたか?」

 男性が言うと、辺りはしんと静まり返りました。「祖母」という単語を聞いて、顔を見合わせています。

 黙っていなかったのはケンタ一人でした。

「僕がいけないんです。うちのミーコが子猫を三匹産んで……。僕のパパとママはこれ以上飼えないから保健所に連れて行くって。それで公園で誰かに拾ってもらえないかと子猫を捨てようとしてたところをおばあさんに助けてもらって。でも、そういうのを全部みんなが勘違いして、おばあさんに街から出て行けって言うんです!」

 ケンタの目からは涙がこぼれ落ちていきました。おばあさんがそんなケンタの肩をそっと撫でると、ケンタはおばあさんに抱きついて「僕のせいでごめんなさい!」と声をあげて泣き出しました。

 そんな二人を見て、長身の男性は街の人たちに向かって声をあげました。

「僕はこの妖怪屋敷に住んでいる鬼ババアの孫の松竹真之介(まつたけしんのすけ)と言います。こっちは妹の弥生(やよい)です。ここにいらっしゃる方たちの中にも、ペットを診察させていただいたことがある方がいらっしゃるようなので、僕らのことはご存知かと思います。祖母は誤解されやすい性格をしておりまして、僕たちも心配してはいたのですが、妖怪屋敷や鬼ババアと呼ばれることを気にもせず、むしろ楽しんでいるくらいだったのですが、こんなにも大騒ぎになってしまっていることに、まずはお詫びいたします」

 長身の男性と隣りに立った女性がペコリと頭を下げると、街の人たちは気まずそうな顔になりました。

「一応ご説明させていただきますと、祖母は戦争で祖父を亡くし、僕たちの父と二人で暮らしてきたのだそうです。あの時代は親を亡くした子供が多かったそうで、祖母は他人事じゃないと言って、震災孤児を引き取り、一時は十五人もの子供を育てていたと聞いています。この家は、その祖父と短い時間を共に過ごした場所であり、子供たちとの思い出に溢れていることもあって、離れがたかったようです。古い家ほど愛着がわくというか、そういう気持ちなのではないかと思います。それから、猫に関しましても、これまでにも捨て猫やケガをした猫などを連れて来ては世話をし、里親を探したりとしていたようです。今回も、ケンタくんの子猫のことを見捨てられなくて、こういう経緯になったと本人からは聞いています。今日、僕たちは、ケンタくんの子猫の健康診断のためにここに来ました。僕と妹の弥生も、鬼ババアの手伝いをしている一員ですので、鳴き声や糞尿などでご迷惑をおかけしているのであれば、相応の弁償はさせていただきます。どなたかそういう件でご迷惑をおかけしている方は、僕の方にご連絡を入れていただきますと助かります。あ、電話番号は車の横に書いてありますので、そちらにお願いできれば」

 男性がそこまで話したところで、街の人たちはバツが悪そうな顔になっていきました。そういう迷惑行為を受けた人はいないようです。

 マルはその様子を見ながら、ホッと胸を撫で下ろしました。でも、天使である自分が何も出来なかったという後悔だけは胸の中で燻っていました。

「こう見えて祖母はスマホは使いこなしますし、実はパソコンでインターネットなんかもやってるんですよ」

 にっこりと笑いながら言う男性に、鬼ババアが後ろから「余計なことまでしゃべるんじゃない!」と突っ込むと、街の人たちからドッと笑い声が起きました。

「そのインターネットを使って、子猫の里親募集などもやっているんです。僕の病院にも張り紙を出したりもしていますけど、インターネットの方が早く見つかる時代ですから。祖母は口は悪いですし、誤解されることも多いと思うのですが、思い出深いこの家から追い出すことはしないでやってください。もし良ければ、お年寄り向けの『インターネット講座』を開いたり、広い庭を使って何か出来ることがあれば、僕もぜひ協力させていただきますから」

 男性はこれまでにもいろいろと考えていたらしく、次々にアイディアを出して行きます。マルはただ目をパチクリとして見守るだけでしたが、確かにいいアイディアです。鬼ババアがインターネットまで使えるというのは初耳でしたが。

 そうして男性が話しているうちに、街の人たちも顔つきが穏やかになり「出て行けコール」は見事に治まっていきました。鬼ババアへの誤解は完全に解けたようです。

「あぁ、それともう一つみなさんにお願いしたいことがあります。妖怪屋敷もですが、鬼ババアと呼ばれるのは、孫の僕としてもあまりいい気分ではありませんので、良ければ祖母の本名を呼んでいただけるとありがたいです」

 男性の申し出は、鬼ババアにとってかなり意外な、出来れば明かされたくないことだったらしく、鬼ババアは玄関から飛び出してくると、男性の口元をどうにか押さえられないかとぴょんぴょん跳ねましたが、長身の男性に届くワケがありません。

「シン! もういい! これ以上、何も言わんでくれ!」

 そう懇願する鬼ババアを後目に、男性はさらっと鬼ババアの本名を告げました。

「鬼ババアの本名は、松竹梅(まつたけうめ)って言うんです。ウメさんって呼んでやってください」

 一瞬の間がありました。誰しもすぐにはピン! と来なかったのです。がしかし、すぐに誰かが「ショウチクバイってこと?」と言いだし、その言葉が聞こえた途端、その場にいた全員が大爆笑になりました。

「めでたい名前だなぁ」と言いだす人もいて、マルはまた微笑みました。

 マルが住む街、この日本では、松、竹、梅は縁起が良い樹木だとされています。結婚してたまたま「松竹性」になったのだろうとは思いますが、そこに名前の「梅」まで加わったとなれば、確かに「ショウチクバイ」です。

 ウメさんとしては、知られたくはなかったようですが、こうしていろいろありながらも、鬼ババアはその後、鬼ババアと呼ばれることは無くなり、「ウメさん」と呼ばれるようになりました。

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