第9話 マルと鬼ばばあ

 天使会議が終わった後、自分の街へ戻ってきたマルでしたが、まだ夜の九時くらいだったこともあって、マルは街のパトロールをしてから雲に帰ろうと考えました。マルは街を守る天使です。鬼ババアのことだけでなく、街全体に何かトラブルが起きていないか、事件が起きていないか、それらを見て回るのも大事な仕事です。

 そうして街の中が平和に保たれているのを確認した後、マルは鬼ババアの家の庭へとやってきました。池の淵にあるどっしりした大きな岩に座り、池に映りこんだ月を眺めていると、不意に後ろから声をかけられ、マルはビクリと身体を震わせました。

 声をかけてきたのは、もちろん鬼ババアです。

 マルは慌てました。人間には姿を見られてはならない。もし見られた場合は、天使の羽を使って、その人間の記憶から天使にまつわる記憶を消してしまわねばならない。天使規約第八条が浮かびました。マルはそっと背中から一本だけ羽を抜こうとました。

 ですが、そこで気づいたのです。人間には普通、天使の姿は見えません。「見せる」ためには、特別な粉が必要なのです。なのに、鬼ババアにはその粉がなくとも、マルの姿が見えているのです。マルは驚いて声が出ませんでした。

 そしてそこで気づきました。さきほどの天使会議の中で、シカクさんとダイケイさんが言っていた『神様の領域に入った人間には見えることがある』という言葉を。

「おばあちゃん、おばあちゃんには僕が見えるんですか?」

 マルは鬼ババアをまっすぐに見つめて聞いてみました。鬼ババアはシワシワの顔に笑みを浮かべると「見えるから声をかけたんじゃ」と答えました。そして「外は寒い。中へおいで」とマルを家の中へと誘ってくれたのです。

 マルは、初めて人間の誘いを受けて人間の家の中に招かれました。入ったのは縁側からでしたが、ちゃんとガラス戸を引いて開かれた窓から中へ入ったのです。

「さあさ、遠慮しないで。寒いならこっちに炬燵があるから足を入れなさい」

 鬼ババアはマルを怖がるでもなく、炬燵を進めてくれました。マルは大人しく炬燵へと足を入れ、その温かさに驚きました。

「ほら、みかんもお食べ」

 カゴに盛られたみかん。それをマルの前にずいっと押し出すと、鬼ババアもマルとは反対側の炬燵の方へと足を入れました。炬燵のそばにはヤカンが湯気を立てているストーブがあって、その前でミーコと子猫たちが丸まって眠っています。

「あの……」

 何から話せばいいのかと悩んでいると、鬼ババアはふふふとそのシワを一層シワシワにして笑いました。

「お迎えに来たんじゃろ? あたしも、もう八十二じゃからね、そろそろだろうとは思ってはおったんじゃ」

「お迎え?」

 マルは話しが分からずに戸惑いましたが、おそらく鬼ババアが言ってる「お迎え」は死神のことだろうと思い当たり、ぶんぶんと手を振りました。

「違います! 僕はただの天使で、お迎えなんかじゃないです」

 マルが必死で言うと、鬼ババアは期待が外れかのように「あらまぁ」とため息を吐きました。

「そろそろかと思ってたんじゃけどなぁ」

 まるでお迎えを待っているかのような言い方に、マルはぎゅっと心が痛くなりました。

 その時、明るい電子音が部屋に流れ、マルは何の音だろうと部屋を見回しました。鬼ババアは照れたように笑い、炬燵の上に置いてあったスマートフォンを手に取りました。そして慣れた手つきでスマホをタップすると、そのまま耳にあてて会話を始めました。

「シン、悪いねぇ。明日は日曜日だってのに。あぁ、出来れば一度見てもらった方がいいと思ってね。あぁ、悪いねぇ。じゃあ、お願いするよ」

 短い会話で切れたものの、マルは鬼ババアがスマホを使いこなしていることに驚いていました。

「何だい、その顔は。年寄りだってスマホくらい使えるさね!」

 威張って言う鬼ババアのドヤ顔がおかしくて、マルはふふふと笑いました。

「今のっておばあちゃんの家族の人?」

「あぁ、孫の真之介(しんのすけ)だよ。隣町に住んでるんじゃ」

「ここに一人で住んでるの寂しいでしょ? そのお孫さんと一緒に住んだりは出来ないの?」

 マルは思いきって言ってみましたが、鬼ババアはただ黙ったままでした。なんだか嫌な空気になってきたので、マルは急いで話題を変えようと、さっき見たスマホの手つきの素晴しさを褒めちぎりました。

「おばあちゃん、すごいなぁ。羽が生えてる天使を見たって驚きもしないし、スマホもちゃっちゃと使っちゃうし。おばあちゃんくらいの人って、スマホを使うのって大変なんでしょ? それに、天使はね、普通は人間には見えないものなんだよ。なのに、おばあちゃんには僕が見えるんだもの。それってすごいことなんだって、先輩天使が言ってたよ?」

 マルは鬼ババアを励ますつもりでそう言ったのですが、鬼ババアはさみしそうな顔になりました。そしておもむろに蜜柑を剥きながら、ポツリと言ったのです。

「この年になるとね、なんでもかんでも見えるもんなんだよ。……見なくていいものまでね」

 鬼ババアのその一言を聞いて、マルはもう何も言えなくなってしまいました。


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