第10話

 公園からの帰りに寄り道をしてしまい、遅くなったことを気にしながら家に戻ると、母さんが俺の方に背を向け、テレビを見ながらお菓子を食べていた。今朝は忙しいなんて言っていたけれど、やっぱりテレビが見たかっただけじゃないか! そう思いながら静かに母さんの背後を通りキッチンへと向かう。

「ただいま」

 とりあえず小声で声をかけたものの、テレビに夢中の母さんには聞こえていないと思っていた。が、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを持ってリビングに戻ると、母さんは食べかけの煎餅を片手に、俺の方を振り返っていた。

 早くもバレた! という思いと恥ずかしさで顔が上げられず、俺は母さんの方は見ずに、リビングのテーブルにチョコレートの箱を置いた。

「淑子おばさんとこ行ってきた」

 それだけ言って、そそくさと自分の部屋へ向かおうとしたけれど、母さんはバリッと煎餅をかじりながら

「何? もうやめたの?」と声をかけてきた。あれだけ粋がってチャレンジしたというのに、一日で止めるなんて、母さんも呆れているのだろう。

 俺は小さな声で「……まぁ、うん」と答えた。それでこの場から解放してもらえるような気がしていたけれど、そう簡単にはいかなかった。

「気は済んだの?」

 俺が顔を上げると、母さんはいつもの母さんで、笑っているわけでもなければ怒っているわけでもない。普段通りの母さんで、やっぱり煎餅をバリボリとかじっていた。

「うん。とりあえず。……新しい自分になれるような気がしてたけど、外側だけ変えても変われないらしくってさ。だから、バカバカしいから辞めることにした」

 これは本当だ。俺なりに『新しい俺』をプロデュースしたつもりだったけれど、タカには心配をかけただけだったし、琴葉には呆れられただけだった。望くんなんて、爆笑しただけだ。この三人がノッてくれなければ、俺にとって何の意味も成さない。特に、琴葉に呆れられるだけでは全く持って意味がない。

「そう……まぁ、あんたらしいっちゃ、あんたらしいわね」

 母さんはそこまで言うとテレビの方が気になったらしく、くるりと反転してテレビへと向いた。その母さんの背中に向かって、俺は言ってみる。

「金髪の方が良かった?」

 どう返事が返ってくるのかとドギマギしていると、母さんはテレビの方を向いたまま、何て事なく言う。

「別に? 母さんはどっちでもいいわよ? あんたが金髪だろうとどうだろうと、あんたが母さんの息子であることは変わらないことだもの」

 俺の心臓がまたバクバクうるさく動き出した。でも、悟られないように努めて冷静な声を出す。

「ふーん」

 俺はその後自分の部屋へ向かおうと、リビングのドアに手をかけた。ドアを開けようとしたとき、母さんがまた、こちらを振り向かないままテレビに向かって言う。

「さっき琴葉ちゃんから電話があったわよ? ライン通話が繋がらないとか何とか言ってたけど? そう言えばその時に『ヨッシーには黒髪の方が似合いますよね』って言ってたから、琴葉ちゃんは金髪より黒髪の方が好きなんじゃない?」

 母さんに全て見透かされてる気がして、俺は急に恥ずかしくなった。と同時にやけに喉が渇き、手に持ったミネラルウォーターをごくごく飲みながら階段へ向かった。リビングからまた母さんの声が追いかけてくる。俺が離れた為に、母さんは大声を張り上げた。

「先月だったっけぇ? 琴葉ちゃんとスーパーで会って、望くんのことカッコいいって言ってたのぉ? あれねぇ、淑子姉さんの前だったからよぉ? 琴葉ちゃん、気を遣う子だからぁ」

 俺は階段を踏み外し、向う脛を嫌と言うほど打ち付けた。

「いってぇ……」

 その痛みと共に、あの日の琴葉との会話が蘇る。


 母さんと淑子おばさん、俺の三人でスーパーに買い出しに行ったときのことだ。嫌がる俺に、母さんは一方的についてくるようにと命令し、断る口実が見つけられないまま、俺は米十キロを持ってレジに並んでいた。

「あらー、琴葉ちゃん、おつかい?」

 淑子おばさんの声に顔を上げると、琴葉がいた。先に会計を済ませた淑子おばさんと琴葉が話していた。

普段はポニーテールにしている髪の毛をおろし、真っ白のワンピースを着ていた。制服ではない琴葉。それだけでも俺にはかなりの衝撃だった。

「玉ねぎを買い忘れたって母が……」

 手に提げているビニール袋を軽く持ち上げ、中に玉ねぎが入っていることを主張する琴葉。そうしている間に母さんと俺も会計が済み、俺たちも琴葉に近づいた。

「エライわねぇ。うちの義臣なんて、おつかい頼んでも絶対行ってくれないのよぉ」

 いやいやいや、今日、付いて来ただろ? そう言いたいのを我慢する。

「私もたまにしか来ないんですよ?」

 謙遜しながら琴葉が笑う。

「あら、義臣くんはいいわよぅ! 立派な成績で良い子に育ってるもの! 嘆かわしいのは、うちの望よ!」

 淑子おばさんが望くんの悪口を始めようとしたときだった。おばさんの悪口が始まる前に、琴葉が遮ったのだ。

「のんちゃん、ステキだと思いますよ? この時代に合った生き方をしてるというか。あの自由さ、憧れます。普通の人には出来ないことをするって、すごく勇気があると思うし、カッコいいです」

 微笑みながら言い切る琴葉に、俺が大きなショックを受けた瞬間だった。時代に合った生き方。自由な生き方に憧れる。勇気があって、カッコいい! 琴葉の発言が、それからしばらくの間俺の頭を悩ませた。琴葉があれだけ褒めているのだ。俺も望くんのようになれば、もしかして?

 どうすれば望くんのようになれる? 望くんみたいに自由に生きるにはどうすれば?

 そうして一か月ほど悩んで出した、俺なりの答え。


 あの時の琴葉の発言が気を遣っての発言? 望くんの母である淑子おばさんに気を遣った? それを俺はまともに受け取った?

 俺は顔がかああっと熱くなるのを感じた。

 あり得る。琴葉ならあり得る。特に幼馴染である望くんの悪口は、聞いていて気持ちの良いものではなかったはずだ。

 そこまで考えて、俺はハッとした。

 今朝、母さんが何か言いたげに、でも、言わなかった理由がわかった。あのとき既に、きっと母さんには全て分かっていたのだろう。母親は侮れない。

 俺は部屋にもどると、鏡の前でワシャワシャと髪をかき混ぜた。さっきまで金髪だったその髪の毛は、元の真っ黒な髪に戻っている。短めにカットもしたので、しばらくの間はサイヤ人にもなれない。俺は耳たぶの裏側に刺さっているキャッチ部分を取り、ピアスを外した。そこには、まだ生々しい穴が開いている。けれど、このままピアスをつけずにいれば、穴はすぐに塞がってしまうだろう。

「何やってんだかね?」

 俺は自嘲気味に言った。

 たった一日だったけれど、俺は元に戻ることに決めた。とはいえ、たった一日ではあったものの、180°のセカイは俺にとっていい経験だったと思う。やってみてよかった。やるべきことではあったのだ。でも……?

 俺はコンタクトを外し、いつもの黒縁メガネをかけると「もっとデッカくならなきゃな」そう呟き、鏡に向かって笑った。

 

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180°のセカイ 恵瑠 @eruneko0629

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