第3話 疑惑

 



 ……これで、亜希子が同行してなければ、無駄足を踏んでいた。


 ――ホテルに戻ると、亜希子の姿は無く、代りにメモがあった。


《18時までには帰ります。隆史さんへ 亜希子》


 ……何だよ、お前が待ちぼうけを食らってると思って、気を利かせて駆け付けたのに。


 桐生は泣きっ面に蜂、と言った具合に苛立つと、「ったく、もう」と呟いた。


 仕方無く、桐生も時間潰しをする事にした。


 目的地を富山城にすると、帰途、本屋で立ち読みをして、序でに歴史小説を一冊買った。


 ――長編の序盤を読み終えた頃、亜希子のノックがあった。


 目を合わせた亜希子は、白々しい笑みを作った。


「どこ行ってたんだよ」


 桐生が愚痴を零した。


「ん? ……あぁ、富山城に行って、桜通りというとこでウインドーショッピングしてた」


 亜希子のその言葉には違和感があった。


 ……物欲の無い亜希子に、ウインドーショッピングという台詞せりふは似合わなかった。


「何だ、俺も富山城に行ったんだぞ」


 桐生が、そう、発した途端、背を向けてコートを脱いでいた亜希子の手が止まった。


 ……何だよ、この雰囲気は? ……俺が何かマズイ事でも言ったか?


「……桜はどうだった?」


「……あぁ、もう直ぐ咲くわね」


 亜希子は背を向けたままで答えた。


 いや、富山城の桜はまだつぼみだった。亜希子は東京の桜の状況を答えた。東京と富山では開花時期が違うんだぞ。……仮に富山城に行ってないとしても、街路樹の桜くらいは目に入るだろ? ……それさえも、見ていないとすると、桜を見る余裕も無いくらいの緊急の事態が発生して、出掛けたと言う事か?


「ねぇ、お腹空いちゃった」


 振返った亜希子は笑顔を作ると、桐生に抱き付いてきた。


「……どこにするか? 外で食べるか、ホテル内にするか」


 亜希子の耳元に聞いた。


「うむ……ホテルにしよう」


 桐生を見た。


「よし」


 階上のレストラン街に行くと、日本料理店に入った。


 窓際に座ると一望千里いちぼうせんりといった具合の展望窓から夜景を眺めた。


「あったっ」


 酒の好きな桐生は、メニューから海鞘ホヤの塩辛を見付けて感激した。


「どこに飲みに行ってもなかなか、ホヤはないんだよな。三杯酢でもイケるんだ。これがまた」


「ホヤホヤしてるからよ」


「何だ、それ」


「ボヤボヤをもじったのよ」


「別に俺がボヤボヤしてるからホヤが無い訳じゃないだろ?」


 桐生が子供のようにムキになった。


「じゃ、もとい。ホヤホヤにしましょ」


「……何だよ、それ」


「私達が新婚ホヤホヤだから」


「…………」


「ホヤがヤキモチ焼いて、隆史には食べさせない、って意地悪したのかもよ」


 亜希子はまるで、愚図ぐずる子供をなだめるかのように言葉を創作した。


「……かもな」


 ……亜希子が言った、新婚の私達、というフレーズで、桐生は気分を良くした。……気がムシャクシャしていたせいで、亜希子に八つ当たりした。だが、そもそも、その原因はお前じゃないか。……ウインドーショッピングなんて嘘だ。一体、誰と会ってたんだ?


 桐生はよからぬ妄想と共に余計な邪推をした。


 聞き質すことは簡単だった。だが、それをしたら、“The end”。そう、なりそうで怖かった。……プライドの高い女だ、一人の男に執着するタイプではない。“あなたにだって、ツマラナイ妻が居るじゃない。私にだって、オットリした夫が居てもいいじゃない。あなたにかく、言う権利はないわ”と、ダジャレまじりに罵倒されるに決まってる。……亜希子を失いたくなかった。




 一向に展開を見せない捜査に業を煮やした桐生はもう一度、最初からやり直す事にした。


 フロントの吉川と目を合わせると、桐生は会釈をした。


「刑事さん、見付けたんですね?」


 吉川が意味不明な事を口走った。


「……はぁ?」


「あの夜、場違いの女の人が居たって僕が言ったじゃないですか? ホステスでもOLでもないって」


「……ええ」


「見付けたんですね? さすが、刑事さんだ」


 ……一体、誰の事を言ってるんだよ?


「新宿駅で一緒に居たじゃないですか」


 亜希子の事を言っていた。


「犯人を連行する場面なんて、テレビでしか見た事ないから、興奮しましたよ」


「あぁ、あれね。ハッハッハッ……。あれは私の親戚ですよ」


 桐生は咄嗟とっさに機転を利かせた。


「……そうだったんですか。それはどうも失礼しました。……よく似てたもんですから」


 確かに、富山に行く日の亜希子の格好は黒いコートに髪を下げていた。


「……そうですよね。長い髪に黒い服装だったら、誰でも似たり寄ったりですよね」


 吉川は自分を納得させるかのように一人うなずいた。


 ……いや、俺が褒めたくらいだ、吉川の目は確かだ。ホテルの女と亜希子は同一人物に違いない。……では、なぜ、板倉が停泊していたホテルに亜希子が居たのか。


 桐生の心中は嵐の前兆となる稲光と共に暗雲が立ち込めていた。


 ……まさか、真犯人は亜希子じゃないよな? 神様、お願いだ! 愛する人を俺の手から奪わないでくれ!


 桐生はわらにもすがる思いだった。


 桐生は亜希子に会って、真実を確かめる勇気がなかった。容疑者となった亜希子にどんな顔をすればいいのだ? 本人を目の前にして平然と振る舞える技など持ち合わせてはいない。


 その夜から、桐生は署に泊った。眠れぬままに自分勝手な妄想だけが一人歩きをした。


 ……亜希子の出身地は確か、長崎だった筈だ。富山との繋りはない。つまり、板倉とも無関係だ。所用で、たまたまあのホテルを使っただけだ。多分、そうだ。そう、結論づけたものの、亜希子への疑惑を拭う事は出来なかった。


 結局、亜希子の戸籍抄本を取り寄せた。

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