第2話 恋仲

 



「ありがとうございます」


 伝票に書きながら背を向けた。Gパンにピンクのエプロンを付けたアキは、遠目だと20代に見えない事もなかった。――



「はい、お待たせしました」


 料理を置いているアキに、


「先程はご協力ありがとうございました。大変、助かりました」


 と、桐生は笑う目を向けた。


「あ、いいえ。こちらこそ、お役に立てて光栄です」


 アキが笑みを湛えた。


「で、ゆっくりと話を伺いたいんですけど」


 アキの笑みが終わらない内にと、桐生は急いで喋った。


「えっ、今日ですか」


「できれば」


 アキの気分を損なわないように桐生は言葉を択んだ。


「何時に終わるか分かりませんよ」


「構いません」


 桐生は真剣な目をした。


「……じゃ、出て、直ぐ左に、〈モア〉という喫茶店があるので、そこで待っててください」


「分かりました」




 二杯目の珈琲を注文した頃、アニマルプリントのコートを手にしたアキがやって来た。桐生は急いで吸っていた煙草を揉み消した。


「お待たせしました」


「こちらこそ、お忙しいのにお呼び立てして申し訳ありません」


 桐生はこれ程までに気を遣った聞き込みは、かつて経験がなかった。


「いいえ、大丈夫です。コーヒーを」


 水を持って来たウェイターにアキが注文した。


「……実は、アキさんにお願いがあって」


「はあ?」


 桐生のその台詞は予想だにしなかったのか、アキは言葉の意味を把握できない顔をした。


「事件解決の手助けをお願いしたいんです」


「はあ」


 アキはまだ、事情が飲み込めずにいた。


「ズバリ、今回の事件、どう思われます?――」


 珈琲がきたので話を止めた。


「……どう、って?」


「つまり、連れの男が犯人かもしれませんよね」


「ええ」


「アキさんの推測で構わないんです」


「……たぶん」


「! ……根拠は?」


 桐生は興奮した。


「連れの男は殺された男、つまり、板倉氏に脅迫されていた」


「脅迫?」


「ええ。……富山での事は誰にも喋ってないから安心しろ、みたいな事を板倉氏が連れの男に言ってました」


「……よく、覚えてますね」


「ええ、はっきりと。客はその一組だけでしたし、閉店時間の11時を過ぎても帰らないので、苛々しながら、二人に背を向けてレジの前に立ってましたから、話が丸聞こえでした。板倉氏は相当酔ってたから、声の大きさの度合が分からなかったんだと思います」


「……なるほど。他に気付いた事はありますか」


「ええ。連れの事を確か、イイダとか、イダとかって呼んでました」


「えっ! それは確か?」


 それが事実なら大きな収穫だった。


「でも、名前じゃなくて、方言かもしれないけど……」


 意外にもアキが自信なさげに言った。


「いや、いずれにせよ、大きな手掛かりになりますよ。ありがとうございました」


 桐生は頭を下げた。


「あ、いいえ」


 アキはカップの把手に指を入れた。


「話は変わりますが、絵が上手ですね」


 アキの事をもっと知りたかった。


「ありがとうございます」


 やっと表情を和ました。


「美大でも?」


「いいえ。独学です」


「画家になろうとか思わないんですか」


「多少、絵が巧いからと言って、絵で食べて行けるものでもないでしょ? 食べて行ける人はほんの一握り。新しい風が吹かない限り、どう、足掻あがいても、それは、砂の穴から這い上がるようなもので、いつまで経っても零れ落ちる砂に埋もれたまま……」


 その、アキの話を聞きながら、一度は絵に懸けようとした時期があったのだと、桐生は推測した。


「今度、私を描いてくれませんか? お金を払いますから」


「ええ、いいですけど、高いですよ。10万は頂こうかしら」


「えっ? そんなに?」


 桐生が大袈裟に驚いてみせた。


「冗談ですよ。フフフ……」


 アキが笑ってくれた。


「ところで、お名前を教えてくれませんか」


 途端、アキが表情を曇らせた。


 ……マズイ事を聞いたのかな? 名前を聞いただけなのに……変な名前だから言いたくないとか?


「……林亜希子です。アは亜細亜の亜、キは希望の希です」


 ……いい名前じゃないか?……林亜希子か。


「わたくしは桐生隆史と申します。キリュウは桐タンスの桐に生まれる。タカフミはこざとへんの隆に歴史の史です。よろしくお願いします」


 軽く頭を下げた。


「こちらこそ」


 亜希子が笑みを浮かべた。


「ホントに、これからもアドバイスとか助言とかお願いしますよ」


「アドバイスは助言ですよ」


「あ、同じ意味でしたね、これは失敬。馬から落馬、みたいなもんだ。ハハハ……」


 照れ隠しのように桐生は空笑いをした。


「フフフ……」


 亜希子も空笑いに付き合ってくれた。


「……送りますよ」


「いえ、いつも歩いて帰ってますので大丈夫です」


「今日は送らせてください」


 桐生は強引だった。


「……はぁ、では、お願いします」




 ――大通りで流しのタクシーを拾うと桐生は先に乗った。


 亜希子は行き先を告げると車窓に目をやった。


「小滝橋通りだったら近くていいですね」


 話のネタにした。


「徒歩で通勤できる距離が理想です」


「その事を言う四字熟語がありましたね?」


 またまた、ネタにした。


「……職住近接しょくじゅうきんせつですか?」


 亜希子が見た。


「そうそう。それそれ。……若いのによく知ってますね?」


 またまたまた、ネタにした。


「え? 若くないですよ」


 途切れない会話に成功した。


「いや、まだ、若いじゃないですか。僕なんか来月で四十六ですよ。男、四十にして惑わん、て言うけど、僕なんかいつも惑いっ放しですよ。でも、だって、一回りは違うでしょ?」


 亜希子の横顔を見た。


「……さあ、いくつでしょう。フフフ……」


 亜希子は笑って誤魔化した。


 ……しかし、年齢不詳だな。若く見える割には、古い事も知ってるし。単なる物知りか? 亜希子の実年齢を知るのは容易な事だが、あえて“謎”として、保留にして置くのも面白い。



 流しのタクシーは気の利いた運転手で、乗った時からずっとラジオのBGMを流していた。……客の話に聞耳を立てない。それが、常識ある運転手のマナーだ。


「あっ、信号の手前でいいです」


 亜希子の指示にタクシーは徐行を始めた。


「コーヒー、ごちそうさまでした」


 亜希子がこっちを向いた。


「あ、いぇ」


「じゃ、お気をつけて」


 亜希子は降りた。


「また、食事しに行きますので」


「お待ちしています」


 桐生を乗せたタクシーが角を曲がるまで、亜希子は見送っていた。


 見送っていた、と言うより、単に住まいを教えない為の常套手段だろう……。神経質な一面を見た。違う言葉にするなら、クレバー、かな。


 それからは、週に数度、〈満珍楼〉に行き、食事の後に〈モア〉で亜希子と会うのが約束事のようになっていた。


 それから、間も無い、る夜、自家用車で来た桐生は亜希子をアパートの前まで送ると、強引に唇を奪った。


 その瞬間、桐生の脳裏に、“職権濫用”という文字が過った。


 何度か会っているうちに気心が知れたのか、亜希子は抵抗の意思を示さなかった。


 ――そして、亜希子と恋仲になった。


 桐生には妻子があったが、息子は既に家を出て自立しており、近所の子供にピアノを教えている女房とも同性のような感覚になっていた。離婚は造作ぞうさなかった。


 亜希子の部屋は旅土産の置物や外国製の人形といった、余計な飾り物が無くて、性格を物語るかのようにこざっぱりとしていた。


 それだけに、壁に掛かった亜希子の描いた数点の風景画が、その価値を高くしていた。桐生は酒代として幾らかの金を置いて帰ると、亜希子が部屋に居る時間帯と自分の手隙とが合致した時に逢っていた。



 一方、事件の捜査は一向に進捗しんちょくしなかった。


 ……亜希子に現を抜かして、仕事をおろそかにしてたんだから、自業自得か。


 亜希子が提供してくれた、イダ、もしくは、イイダという名前に関しても、富山県警に問合わせたが、明確な回答がなかった。……直接、署長に会ってみるか。


〈満珍楼〉の定休日を狙うと、亜希子を誘い、挨拶ついでに旅行を兼ねた。


「わぁー、旅行なんて、何年振りかしら」


 亜希子は満面の笑みを浮かべた。




 富山駅前のホテルに亜希子を置くと、その足で富山県警に赴いた。


 東京から持って来た手土産を初対面の署長の魚住に渡すと、牛革のソファに腰を下ろした。


「これはこれは。遠いとこ、よう、来てくれたがぁちゃね」


 小皺を刻んだ浅黒い顔の魚住が茶を淹れると前に座った。


 ……趣味はゴルフか釣り?


「突然に申し訳ありません。板倉氏の件で、直接、お伺いしたい事がありまして」


「彼の事では東京でお手数を掛けまして、すまん事でしたがぁな」


「いいえ。……ところで、板倉氏はどういう人間でしたか」


 桐生は行き成り本題に入った。


 途端、魚住の顔が曇った。


「……県警の恥なんで、言いたくないがぁが、……権力を笠に着るというがか、……脅迫されたもんもおるがぁちゃね」


 “脅迫”という言葉を以前に聞いた。……あっ、そうだ、亜希子からだ。“板倉氏は相手の男を脅迫をしてるみたいだった”……確か、そんな事を言っていた。


「――例えば、万引犯や痴漢、窃盗、覗き、といった連中に集っては金を脅し取ってたいう話ですがぁちゃ。が、こればかりは被害届を出さんばぁちゃね。……悪運が強いと言うがか、誰からも被害届が提出されんかったがぁですよ。それをいい事に、図に乗ったがぁやろね」


 魚住は肩身を狭くした。


「……そうでしたか。……つかぬ事をお尋ねしますが、板倉氏の関わった事件とか身の回りに、イダ、もしくは、イイダ、という姓に心当たりはありませんか」


 桐生は瀬戸焼の湯呑みを手にすると、魚住に目を据えた。


「……イダとイイダですがぁか? ……さあ」


 魚住は腕組みをして、首をひねっただけだった。


「じゃ、富山弁で、イダやイイダはありますか」


「……いゃ、使わんわぁね」


 結局、埒が明かなかった。

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