檻の中の黒い手
紫 李鳥
第1話 出逢い
新宿のKホテルの一室で、富山県警の元刑事、板倉泰造(58)が殺されていた。
発見したのはフロント主任の吉川で、チェックアウトの時刻が過ぎてもフロントに現れなかったため、寝ているのかと思い電話をしてみたが応答がなかったので、起こしに客室に出向いた。
――ノブには“Don't disturb”の札も掛っておらず、ノックと共に声を掛けてみたが返事がなかったので、鍵を開けた。
――板倉はホテルの寝間着姿で仰向けで倒れていた。検死の結果、死因は
新宿△署の桐生隆史は事情聴取をするためにホテルに出向いた。
「――ええ。発見したのは10時5、6分頃です」
如何にも、ブランドホテルのフロント主任らしく、吉川は七三分けの髪型で、ツルツルした顎には一本の剃り残しもなかった。
「昨夜は何時頃、帰って来ました?」
直ってない寝癖の頭を桐生は中指で掻いた。
「……11時40分ぐらいですか」
吉川が考えるような顔をした。
「一人でしたか」
「ええ。鍵を渡すときに酒臭かったんで、どこかで飲んで来たんでしょ」
「電話はありましたか」
「え。ありました」
その返答に、必死でメモを取っているノッポの相棒、三島を見上げると、
「何時頃?」
桐生が早口になった。
「帰って来られて間も無くです」
「男? 女?」
桐生は更に早口になった。
「女です」
気持ちがいいほど吉川は明確な受け答えだった。
「いくつぐらい?」
「……さあ、声だけでは何とも言えませんが、20代後半から30代後半ぐらいですかね」
……何だよ、幅があり過ぎだよ。折角、褒めたのに。ホテルマンなら、声で年齢を判断する研修もしろよ。
「話の内容は?」
「……そちらに、富山県の板倉という男の人が泊まっているはずですが、と。確かに住所は富山になってましたし、他に板倉さんは居ませんでしたので、電話を繋ぎました」
「どんな感じの人でした?」
「うむ……はきはきした感じです」
「……訪ねて来た人は居ませんか」
「それは分かりません。フロントを通さないで直接、客室に行かれる方もいらっしゃいますので」
「うむ……何か、不審な客は居ませんでしたか」
「さあ……ただ、気になるお客様は居ました」
その言葉に桐生は反射的に鋭い眼を向けた。
「どんな?」
「女性のお客様は殆どが夜のお勤めの方で、とても華やかなんですが、その方はホステスさんでもなければ、OLさんでもなく、かと言って主婦と言った感じでもなく、何か、場違いな感じがしました」
……よし。やるじゃないか。さすがホテルマンだ。耳の方はイマイチでも目の方は自信ありか?
「顔は?」
「いや、長い髪で顔が隠れていたので分かりません」
……何だよ、褒めると、続かないな。
「服装や背格好は?」
「……全体的に黒っぽかったですね。黒のハーフコートに黒のズボン。黒のショルダーバッグ……背格好は小柄で……コートを着てましたから体型ははっきりしませんが太ってはいませんでした」
「うむ……」
次に、板倉の背広のポケットに入っていた領収書の中華料理店に赴いた。そこまでは徒歩でも行ける距離だった。
ガラスドアから〈満珍楼〉の店内を覗くと、昼時とあって満席だった。
皿を手にした店主らしき男と目を合わせると、手招きした。
迷惑そうな顔をした店主が自動ドアから出て来た。
「お忙しいとこすみません」
警察手帳を店主の目線に合わせると、俄かに眉間の力を弛めた。
「これ、お宅の店のですよね」
桐生がポケットから領収書を出した。
「……ええ。そうです」
店主が眼鏡のフレームに指を置いた。
「これを書いた人は居ますか」
「これはアキちゃんの字だ。アキちゃんは夜の部ですよ」
「夜の部?」
「夕方5時からの出勤です」
出直す事にした桐生は署に戻ると、板倉の遺留品をチェックした。
使い古した財布に、
17時過ぎに〈満珍楼〉に行くと、客はなく、背を向けたシニヨンの女がレジに立っていた。
ドアの開く音と共に女は振返ると、
「いらっしゃいませ!」
と、笑顔で声を上げた。
と、同時に厨房の店主に何やら声を掛けられた女は、途端に笑顔を消した。
「新宿△署の者ですが、これを書いたのはあなただそうで」
領収書を見せながら、ご機嫌うかがいのように桐生が作り笑いをした。
「そうです。私が書いたものです」
アキは30半ばだろうか、はきはきしてるだけあって、気の強さが顔に出ていた。
「一人でしたか」
「いえ。男性と二人です」
その言葉に、桐生はペンを動かしている三島を見上げた。
「よく覚えてますね?」
「ええ。昨夜、領収書を請求したのは殺された方の連れの人だけでしたから。それに、テレビのニュースでもやってましたから、直ぐ分かりました」
「テレビのニュースを観て、殺されたのが昨夜の客だと分かったんですか」
「いいえ。殺された方の顔は覚えてません。連れの方を覚えてたんです」
「……殺された方の顔を覚えてないのに、ニュースでやってた殺人事件が昨夜のお客だと、よく分かりましたね?」
「会話の中に、富山があったからです。“殺されたのは、富山県警の元刑事”って。ましてや、殺されてた場所が目と鼻の先のホテルでしょ? 誰だってピンとくるわ」
薄笑いを浮べると桐生を
「……なるほど」
……これこそ、正しく、
「で、連れはどんな男でした?」
「はっきり覚えてますよ、特徴があったので。描きましょうか」
「えっ、描くって、顔を?」
未だ経験のない展開に、ベテランの桐生も面食らった。
「ええ。趣味で絵を描いてますので」
桐生は目の輝きを三島に向けた。
追風に帆を上げる、と言った具合だった。吉川君、上には上が居るもんだな?
「……じゃ、お願いします」
「えっ、今ですか? 今は仕事中ですから」
「アキちゃん、いいよ。まだ、お客さん居ないから」
店主の計いに、桐生は軽く頭を下げた。
「じゃ、スケッチブックと7Bか8Bの鉛筆を」
桐生に請求した。
「三島、買ってきてくれ」
「あ、はい」
慌てた様子で三島が足踏みを始めた。
「出て、右に文具店があります」
アキが教えてやった。
「あっ、はい」
アキに振返った三島が、その図体に似合わない
二人が奥のテーブルに腰を下ろすと、店主が烏龍茶を運んできた。
「アキちゃんが絵を描くなんて知らなかったよ」
店主が
「私だって趣味ぐらいありますよ。マスターだって、ゴルフが趣味じゃないですか。マスターズゴルフ、なんちゃって」
「まだ、マスターしてないの。なんちゃって」
「マスター、キー」
「あら、キーはどこかしら?」
「それが、カギだ」
二人は駄洒落の応酬で盛り上がっていた。
桐生は二人に合わせるかのように苦笑いをした。
ドアが開く音にアキの神経が入口に集中した。
「6Bしかなくて」
息を切らした三島が削った鉛筆とスケッチブックをアキに手渡した。
アキは少し考える顔をすると、一気に描き始めた。その、アキの表情は、
――最後に中指でなぞると陰影を表現した。
「こんな感じです」
アキがスケッチブックを桐生に向けた。
そこには、写真のような
「そうそう、こんな顔だった。アキちゃん、巧いもんだね」
店主が感心した。
「ありがとうございます」
アキがニコッとした。
「いやあ、ご協力ありがとうございました。早速、参考にさせて頂きます」
桐生と三島は深々と頭を下げた。――
「巧いもんですね?」
桐生が鑑賞しているアキの絵に、ハンドルを握った三島が
「……ああ。確かに巧い」
桐生が
「中華屋の店員なんて勿体ないですよね。美人で、頭も良さそうだし、その上、絵が巧いときてる。似顔絵描きにだってなれるのに」
三島が期待を込めて語った。
「……人の事だ、余計な事は言うな」
桐生が釘を刺した。
「……すいません」
その夜、署からの帰り、桐生は一人、〈満珍楼〉に赴いた。
店内には三組の客が居た。ドアの開く音と共に桐生の顔を認めた途端、アキは露骨に嫌な顔をした。
「……まだ、何か」
「いえ。食事をしようと思って」
途端、アキは一変して笑顔になった。
「そうでしたか。いらっしゃいませ。さあ、どうぞ」
アキは先刻と同じテーブルに桐生を愛想よく案内した。
「何、しましょうか」
「そうだな、先ず、ビールと――」
「先にビールを持ってきまーす」
メニューを見ながらの桐生の言葉が終わらないうちにアキは背を向けた。
……テキパキしてると言うか、せっかちと言うかぁ……
厨房に目をやると、店主が愛想笑いで会釈をしたので同じように愛想笑いで応えた。
「はい、おまちどおさまです。どうぞ」
アキは桐生の前にグラスを置くと、手にした瓶ビールを傾けた。
「あ、どうも、ありがとう」
桐生は慌ててグラスを持った。
……ほんとに、せっかちだなぁ。
「お食事は決まりました?」
「うむ……そうだな……おすすめは?」
面倒臭いのでアキに任せる事にした。
「そうですね、ビールのツマミにするなら蒸しアワビの南蛮風もイケますし、茄子チリもおすすめです」
チラチラと見る、アキの目はなかなかチャーミングだった。
「じゃ、両方ください」
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