第39話 僕の大事な……


 大舞台の裂け目は、ひんやりと開けた空間になっていた。上方には落下してきた大穴が見える。地上ではラロード率いる盗賊団と、ロズウェル率いる騎士団とが激しい戦いを繰り広げているだろう。彼らのことを信じつつ、アスカは目の前のヒカゲに向き合う。


「ああもうっ! イライラする! イライラする! イライラするよっ!」


 頭を抱えながら、ヒカゲが大声を上げていた。その姿はとても頼りなくて、弱々しく見えた。現世のヒカゲが決して見せることのなかった姿である。


「立て、ヒカゲ。勝負だ。……リーナも手を出すなよ」

「でも……」とリーナが心配そうにアスカを見つめる。

「これは……これだけは、俺とヒカゲで決着を付けなくちゃいけないんだ」


 アスカの返事を聞くと、リーナは口を引き締め『裁きの槍』を地面に突き立てた。


「勝負……? 僕と君が? まさか、まだ対等だとでも思ってるの……?」


 その言葉に、アスカは胸の奥をぐっと掴まれたような気がした。かつて自分とヒカゲは対等な存在だと思っていた。だが、本心ではヒカゲが障害者であることを可哀想だと哀れみ、見下していた。必死に正当化して偽りの友達として過ごしていたのだ。


「前は……思ってなかった。でも……これから俺たちは対等になる」

「何を言ってるんだよ……意味がわからない! 本当にもう、ムカつくなぁ!!」

「……ヒカゲ、構えろよ」


 アスカがファイティングポーズを取る。


「は……? そんなんで僕と戦うつもり……?」

「お前は創造魔法使うか? 別にそれでも構わねーぜ。俺は拳だけでお前を倒すけどな」

「……バカに、してんの?」

「さっきの戦いでわかったけど、お前、創造力が弱まってると思うぜ。想像力豊かなお前が、愛を込めた自作のキャラクターたちが、あんな風に機械的に動くなんて可笑しいからな」

「何を……言って――」


 ヒカゲが羽根ペンを取り出し、宙に筆を走らせようとしたとき――アスカの拳が顔面に入る。

 ヒカゲの身体は簡単に吹き飛び、背後の岩に衝突した。大量に溢れた鼻血を拭いながら、ヒカゲがよろよろと立ち上がる。


「クソっ……殴ったな! しかも本気で!」

「おいおい、敵の目の前で余裕ぶっこいてお絵かきか? 流石王様だな。……俺がこの世界に来たときがどんなだったか、教えてやろーか?」

「この野蛮人が! チンケなナイフしか出せないくせに! 調子に乗るなよッ!!」

「裸の王様よりはずっとマシだぜ!」


 握っただけの拳で、アスカとヒカゲは正面から殴り合う。砂まみれになりながら血反吐を吐き、腫れ上がった顔面に次から次へと強打を放つ。


「ヒカゲ、お前は迷ってるんだ! 現実世界に戻るか、この世界に居座り続けるのか! だからそれが創造魔法にも影響してる! グリモワールを初めて創ったときのような夢想は、もうできなくなってきてるんだよ!」

「うるさいうるさいうるさいッ! 君らが邪魔をしてくるせいじゃないか! そうやって僕の心を掻き乱すのが目的なんだろ!? 余計なお世話なんだよ!」


 アスカの右ストレートが、ヒカゲの頬にめり込む。

 ヒカゲの左アッパーが、アスカの顎に直撃する。


「はぁ、はぁ……お前とこんな風に殴り合うなんて、思わなかったよ……ヒカゲッ!」

「はぁ、はぁ……僕だってそうだ。アスカにこんなにイライラするなんてッ!」


 二人は同時に頭突きを繰り出す。鈍い音が響いて、同時に背中から倒れた。


「くっ、痛ぇ……でも、俺は今最高に楽しいよ。こんな気持ちは……初めてだ!」

「僕は気分最悪だけどね。今すぐにでもやめたいよ……ああああぁぁぁぁぁぁもうッ!」


 突然、ヒカゲが爪を立てて髪を掻き乱す。


「クソクソクソ! 全部クソだよ! 良いことなんて一つもない現実世界も、君が面倒なことを持ってくるこのグリモワールも!」


 鬼のような形相で、ヒカゲが立ち上がる。

 その手には、いつの間にか光の粒子を纏った巨大な剣が握られていた。


「君なんて――、居なくなればいいんだ!」


 その言葉は、アスカの胸に間違いなく大きな傷を与えた。でもそれで諦められるほど彼は潔い男では無くなった。泥臭い精神は命を繋ぐのだと、この異世界で教わったからだ。


「嫌だね! 俺はお前とまだ一緒に居たいんだ! ヒカゲと、本当の友達になりたいッ!」

「しつこいんだよッ!」

「アスカくんっ……!」


 ヒカゲが大剣を振り下ろした。アスカの隣の空間が完全に消え去る。その部分が羊皮紙色の世界に戻っていた。つまり、“世界が消えてしまったのだ”。瞬時にリーナが飛びかかっていなかったら、アスカは消滅していた。


 ――これだけの創造魔法……ヒカゲの身体に何が起こってもおかしくない。

 ぶしゅ――と、アスカの左耳が半分ほど消失していた。血がぼたぼたと溢れる。傷口を押さえることも忘れ、アスカは再び立ち上がった。


「障害者だって、可哀想だって思ってたのは本当のことだ。心の底で、きっと俺はお前を哀れんでたんだ。ゴメン……心の底から謝る。一緒に悩んでやれば良かった。もっと話をすれば良かった。たとえお前がイジメの話題を嫌がったって、俺がそこで逃げちゃいけなかったんだ。辛くても戦い続けるお前は格好良かった! 意気地無しで弱かったのは俺の方なんだ!」

「格好いい!? 冗談じゃない、ずっと嘲笑ってたんだろ! 君も教室のあの連中と一緒だ!」

「ああそうだ。俺はあの連中と一緒だった。でも、俺はもう逃げない……お前と一緒になって戦う! 二人で現実の重荷を背負っていきたいんだ!」

「勝手なことばかり言ってさ……! 僕はずっと一人で戦ってきたんだ! 誰にも相談しないでずっと抱え込んできた! 僕には味方なんて必要ないんだ! たったの一人も!」


 アスカにとって――それは初めて聞くヒカゲの本音の声だった。それを思うと、痛みで胸が張り裂けそうになる。そして、言ってやりたいことが幾つも浮かび上がる。


「お前にも味方はいっぱいいたさ! お前のお母さんも、弟のカズラだって学校でのお前がどんな風かきっと知ってる! どんなに隠そうとしても、家族はそういうのわかっちゃうんだよ! 新聞配達で毎日挨拶をしてくれるおじいちゃんやおばあちゃんだって、みんなお前の味方だよ! あの人たち、学校に抗議をしてたらしいぞ。ヒカゲが虐められてるんじゃないかって署名活動までして。全部……お前のためにっ!」

「…………っ」

「いつも言ってたじゃないか。みんなの笑顔を見るのが好きだって……そんな心の優しいお前が、こんなことをしてるって知ったら、みんな悲しむよ! お前は……お前が思っている以上にたくさんの人たちに愛されて生きてるんだ!」


 ヒカゲの手が止まる。目の前のアスカの涙ぐんだ表情が、ヒカゲの心を鈍らせる。


「僕は……君が思っているような優しい人間じゃない。表面で笑ってても、内心ではとても残酷なことばかり考えてる最低の奴だよ。今だって仕返しにクラスメイトを処刑しようとしてるんだ。そんなやつのことは……放っておいてくれよ!」

「嘘と本音は誰だって持ってるよ。裏がまったく無い人間なんて、居ない。……お前は確かにやっちゃいけないことをした。だけど、グリモアがそばにあったら、人間誰だっておかしくなっちまうんだ。だから……暴走する親友を助けてあげられなかった、俺のせいでもあるんだ」


 ヒカゲが口を閉ざす。アスカは大きく息を吸って、言葉を紡ぐ。


「……ヒカゲ、お前この世界に治癒魔法が無いと思ってるか?」

「それはそうだよ。僕がそういう風に設定したんだから。負った傷は……ずっと付き合っていくものだから。……そんなもの、要らないよ」

「この世界にはな、妖精がいるんだ。そいつは死ぬ間際の大ケガだって癒やせる。ゲームで言う最高位の回復魔法みたいなもんだ。実際、俺もそれで助かったしな」

「妖精……? そんなもの、世界の隅々まで冒険した僕ですら見たことがないけど?」

「この世界は、ヒカゲと密接な関わりがある。お前は……やっぱり心のどこかで思っていたんだよ。“耳を治したい”って。でも、強がりなお前はそれを認めなかった。だから、妖精とも出会うことが無かったんだ。……ヒカゲ、妖精はこの世界でのお前の良心だ。お前の優しさが、まだこのグリモワールには残ってるんだよ!」

「そんな……僕はっ、僕は……」

「お前は優しくて強い奴だ。誰がなんと言おうと、隣で見てきた俺がそれを知ってる。ヒカゲのことを悪く言う奴がいるなら、俺が声を大にして言ってやる! 俺の親友は最高だって!」


 恥ずかしさなんてなかった。正真正銘アスカの本音だった。


「……気が付いてるか知らねーけど、『妖精の王様』の主人公のモデルは、絶対にヒカゲだぜ。お前は……ああいう主人公になりたかったんじゃないか?」

「そんなこと……言ったって。もう、僕は取り返しの付かないことをたくさんしてきてる! もう僕は戻れないんだよっ!」

「一緒に考えようぜ。これからどうしたらいいのか。リーナと、俺と、お前でさ」


 アスカが手のひらを向けてくる。その手はとても汚れていて。でも、まるで物語の主人公のような逞しさだった。そんなとき、大穴からゆっくりと光が差し込んでくる。

 それは、一冊の本だった。


「グリモア……? どうして、ここに」


 ――グリモアがヒカゲに語りかける。


『あなたの野望を邪魔する存在は皆消し去るべきだ』

 同時に、こうも言っている。

『皆と一緒に、元の世界に帰りたくはないの?』


 天と地。白と黒。決して交わることのできない二つの感情が、ヒカゲの中で渦を巻き続ける。

 世界を“創るか”、“壊すか”しかできない魔道書に、答えの出ない問題を突きつけられる。


「――王様! 王様! 王様!」


 上方の大穴から、狂おしい程の忠誠を誓ってくれる存在が身一つで飛び込んでくる。


「王様に仇成す存在はすべてボクの敵です! アスカという盗賊も、リーナという反逆者も、ヒカゲ様には必要無い! 王様のそばには、いつもボクがいます! ボクだけがッ!」


 べっとりと血で濡れたロズウェルの手に、小さな刃が握られていることにヒカゲは気が付いた。その奇襲の軌道は、確実にアスカの心臓を狙っていた。


「これ以上――ヒカゲ様に近づくなぁぁぁ!」


 自分のことを慕ってくる可愛い従者。こんなに小さい彼が血だらけになってまで、守ろうとしてくれている。その気持ちが、とても嬉しかった。

 アスカが言うように、自分はたくさんの人から愛されていたのかもしれない。

 仲間がたくさんいたのに、勇敢なふりをして一人で逆境に立ち向かっていただけだった。それは、きっと強さとは違う。ただ、意地っ張りなだけだったんだ。


 僕はどうしたいんだろう――。僕は何がしたいんだろう――。



 ――君の素直な気持ちを、真剣に受け取ってくれる人がいるでしょう――?



 もう一人の自分が、そう語りかける。


 ヒカゲは、瞬時に走っていた。


 驚くほど真っ白な頭で、感情のままに動き出していた。



「僕の大事な友達を……傷付けないでっ!」



 アスカの盾になるように、ヒカゲが手を広げる。

 途端に時間がぎゅっと濃縮される。現世でのたくさんの想い出がふつふつと蘇る。

 小さな刃物がヒカゲの胸に突き刺さり、身体の中心を赤く染めていく。


「ヒカゲ……お前っ、どうして」


 がくりと身体を崩したヒカゲを、アスカが受け止める。


「そんな……王様っ……ボクは、なんて、なんていうことをっ……」

「ごめん、ロズウェル…………僕は……君が思うほど良い王様じゃなかったみたいだ……」


 悲しそうな声で言うヒカゲは、吐血しながらその場に倒れた。


「ヒカゲ!」「ヒカゲくん!」


 馬鹿みたいに涙を流す大好きな男の子と女の子に囲まれながら、ヒカゲは心地良い感覚に包まれていた。


 このふわふわした感じが――“友情”ってことなのかな。


 アスカとリーナの想いが、涙声と重なって心の中に染みこんでくる。

 この二人は、そばで笑ってくれる。泣いてくれる。怒ってくれる。心配してくれる。



 ああ――本当の友達が、こんなにも温かい存在だったなんて。



 僕は、なんて幸せな奴なんだろう――。



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