第34話 ここで殺しちゃおうか
年期の入った古めかしい本棚。段ボールの中に散乱する原稿用紙。勉強机の上に詰まれた文庫本とハードカバーは今にも崩れそうだった。ヒカゲは、現世の自室へと帰還していた。
「ヒ、ヒカゲ様……お姿がっ……」
隣で狼狽するロズウェルが唇を震わせる。自分の容姿が変化したことに驚いているのだ。服装、髪型、そのどれもがグリモワールとは違っている。あまり現実世界と異世界で容姿を変貌させたつもりはなかったが、常に共に居る従者から見れば、当然の反応かもしれない。
「いいかい、“こっち”の世界で君は異質な存在なんだ。だから、僕の言った通りに大人しくしてるんだよ」
グリモワールに存在するものをこちらの世界に持ち越した場合、一時間で消滅することがわかっている。ロズウェルはグリモワールで生まれ育った人間だ。用心に越したことはない。
ロズウェルがあたふたしながらヒカゲの部屋を物色する。「王様、これはなんですか?」とヒカゲの創作小説を仔犬のように見せてくる。ヒカゲは黙ってそれを奪い取った。
「ロズウェル、こっちの世界でもし何か問題があったら……そのときは君に罰を与える」
「はい。申し訳ありませんでした」
ヒカゲは床に落ちているグリモアを腋に抱えて、クローゼットの戸を開いた。
ヒカゲは外出に喜びを感じない人間だ。そのせいか中身も随分と寂しい。数少ない衣服の中から、薄茶のダッフルコートと手編みのマフラーを取り出す。通学時の愛用品だった。
そのとき。とたとたと、何やら懐かしい足音が迫ってくる――。
途端にヒカゲの周囲の空気がどんよりとよどんだ。……吐き気がする。
甘い香りの漂うグリモワールに慣れてしまったせいだろうか、こちらの世界に蔓延る空気をとても汚く、臭いと感じてしまう。急に頭にくらりと来て、ヒカゲはその場にくずおれた。
「王様っ!?」
「……大丈夫、平気だよ」
支えになろうとするロズウェルを追い払って、ヒカゲは部屋の扉へと向かう。しかし……彼が手をかけるよりも早く、ドアノブは回った。
「――――お兄ちゃんっ!?」
希望に満ちたその声に、思わずヒカゲの瞳孔が揺れる。自らの耳に鮮明に劈いたその声は、とても温かくて慣れ親しんだものだった。ヒカゲは、弟と目を合わせることなく俯いた。
「……ちょっと、帰ってきただけだから」
「またどこかに行っちゃうの? お兄ちゃん、いつ帰ってくる?」
「……そのうち」
カズラの横をすり抜けようとすると、服の裾が引っ張られる。
「……この人、誰?」
まるで得体の知れないものを見たような目。カズラの表情は怯えきっていて、その小さな手は、たった一人の兄に縋り付くように強く握られている。
「お兄ちゃんっ! ……ママがね、ママの具合がね……最近良くないんだ」
「…………」
「は、早く帰ってきてね……そしたら、きっとママも――」
「ちょっと出てくるから………………カズラ、良い子にしてるんだよ」
ヒカゲは、自分と似た癖っ毛頭にポンと手を乗せて、くしゃくしゃに撫で回した。
そのときカズラが喜んでいたのか、悲しんでいたのか――ヒカゲにはわからなかった。
* * *
外套に全身をすっぽり包んだロズウェルは、『コスプレをしている外国人の子供』という立ち位置だった。通りがかる女子大生が決まって黄色い声を上げるので、注目はされたが、好奇の眼差しで見られるぶんには問題無かった。
見慣れた交差点。幾度となく訪れた本屋。人っ子一人やってこない寂れた公園。どれもこれも皆懐かしくて、凍結していた様々な想い出が瞬時に蘇っていく。
でも……こっちでは魔法が使えない。王様でもない。なんの力も持たない、ただの子供だ。
過酷な現実にいくら抗っても、自身の心が余計に傷ついていくだけで良いことなんて何一つなかった。そんな世界で生きて、一体なんの意味があるっていうんだ……?
あの日と同じような灰色が埋め尽くす空の下、細やかな白雪がゆっくりとヒカゲの手のひらに落ちた。ヒカゲはふと同級生の少年と少女を思い出す。
一人は自分の宮廷騎士になり、一人は独房に監禁している。
――何考えてんだ、お前。こんな豪勢な城建てて王様だって? ……バカなんじゃねーの。
アスカが放った言葉の数々が――ヒカゲの胸から消えてくれない。だんだん苛々してくる。
「……急ごう、ロズウェル」
――目的地に到着すると、ヒカゲは校門の入り口付近で身を潜めた。やがて目当ての男子生徒が現れる。とても懐かしい顔だった。
ヒカゲはすぐさま後を付ける。帰宅ルートはしっかり覚えていた。帰り際に良く鞄を取られて、彼らの家まで訊ねることがあったからだ。大抵は道ばたに捨ててあったり、川に投げ込まれていたが、何度もやられればこちらの捜索能力も上がってくる。ヒカゲは奪われたものを必ず見つけ出すことができた。遠い過去のように感じる悪しき思い出の顛末が、とんでもなく馬鹿らしく感じ、ヒカゲは思わず笑ってしまう。
なんでこんな奴らに良いようにされていたのだろう。王様であるこの自分が。
やがて彼らは人気の無い路地裏へと消えた。いつもの場所だ。そこで奴らは飲酒や喫煙を楽しむ。一切躊躇すること無く、ヒカゲはそこへ足を踏み入れた。
「あれ……お前ヒカゲじゃね?」
二人組のうちの一人が声をかけてくる。「ガキ大将」という言葉がこれほど似合う人間をヒカゲは他に知らない。内側に筋肉を詰め込んだ、小さな相撲取りのような肥満体型。脱色した髪に浅黒い肌。ぼつぼつとクレーターが残る顔面には、ギョロりとした瞳が二つ付いている。
「うわ~、久しぶりに見たわ~……相変わらずキモいな、こいつ。……根暗度増してね?」
火を付けたばかりのタバコを指に挟みながら糸のように目を細めたのは、狐を連想させる小柄な少年で、ガキ大将の金魚の糞である少年だった。
「……やあ、久しぶり」
こうして二人の顔を真正面から見たのは、初めてだった。正直、可哀想なくらい不細工な顔面だと思ってしまった。それに、彼らの今後を思うと……ヒカゲはつい吹き出してしまう。
「なんだよテメェ……、何笑ってやがる。随分偉そうになったもんだな、えぇ?」
半笑いのままのガキ大将が、タバコを咥えたままヒカゲの元へ接近してきた。
「臭いんだけど」
「はァ? だから何? つーかとりあえず財布の中身全部出せよ」
恐らく言葉が通じないのだろう。家畜程度の脳味噌しか持っていないのかもしれない。
本当に、醜い。見るにも耐えない。世界を牛耳る王様の視界に入ってはいけないものだ。
――今、ここで殺しちゃおうか。
思考の果てで、ヒカゲは簡単にその結論に辿り着いてしまった。
ヒカゲが指を鳴らす。
「僕の従者が、君たちと遊んであげるってさ」
「……あぁ? ジューシャ? ってうわ、なんだこいつ」
物陰から突然現れたロズウェルに、ガキ大将が瞳を丸める。
「おいおいガキがコスプレしてんぞ! 俺らはコスプレ趣味なんてねーっての!」
馬鹿笑いするガキ大将に、ヒカゲの小さな家来が迫る。瞬きをする間もないほどの俊足で、太い首筋に小さな手刀を叩き込む。すると、糸の切れた人形のように彼はその場に崩れ落ちた。
「……え? は? おい……おいってば!」
信じられないといった顔で金魚の糞が駆けよる。しかし、目の前にはロズウェル。小さなブーツを掲げ、幼き従者は嗤った。
ぐちゃ――っと何かが潰れる音。ぽろぽろと歯が何本か地面に散らばった。金魚の糞はそのまま後頭部を地面に打ちつけ、意識を失った。
「よし……じゃあ、帰ろっか。僕らの城へ」
しっかり仕事を果たしたロズウェルの頭を撫でながら、ヒカゲはくすりと微笑む。
かつてクラスメイトだった二人を外套で包んでいるときに、ヒカゲはいつしか読んだ小説を思い出していた。
それは確か、死体を隠す子供たちの物語だった。
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