第24話 純白の誓い


 リーナにとって、兄はとても優しい男だった。品行方正で容姿端麗。絵に描いたような好青年。勉強は学年トップクラスだったし、人気者で友人も多く、家に良く友達やガールフレンドを連れてきては紹介してくれたことを覚えている。

 兄にはこれといった欠点が見当たらなかった。自分の勉強を見てもらったり、些細な悩みを聞いてもらったことも多々あった。元より生真面目すぎるリーナはクラスの中でも浮くことが多く、そんなとき相談事を親身になって聞いてくれたのはいつも兄だった。

 兄のことは誰より尊敬していたし、父や母よりも信頼を置いていたと言っても良い。リーナにとって兄とは、覆ることのない絶対的な存在だったのだ。


 それなのに――何の変哲も無いとある日、信じられない出来事が起きた。

 学校から帰宅したリーナは、「おかえり」の返事が返ってこない母の様子を見に行った。忘れもしない。母はダイニングテーブルに肘をつけたまま顔を覆って、むせび泣いていたのだ。


「お母さん? どうしたの」


 困惑した表情で訊ねるリーナに母が告げたのは――、

 兄がイジメをしていたという内容だった。

 クラスに必ず一人は居るような気弱で容姿の醜い女子を狙って、数人の男女グループで被害者の少女にわざとぶつかったり、物を隠したり、ノートや机に悪戯書きなどの嫌がらせをしていたというのだ。それもどんどんエスカレートしていき、しまいには非人道的で行き過ぎた暴行にまで発展。そのグループのリーダーが兄だった。


 衝撃的だった。どう想像しても兄がそういった行為と結び付かなかった。だが――母の絶望した顔を見ていると、不思議と現実の物事のように思えた。

 そのときのリーナは頭の整理が付かないまでも、何やら兄がとんでもないことをしでかしたくらいに考えていた。…………だが、次の一言で、すべてが吹っ飛んだ。

 被害に遭っていた少女が、自殺したのだ。

 それからの目まぐるしい日々を、リーナは魂のない人形のように過ごした。母や父は毎日のように警察署に向かっていたし、自分も事情聴取のようなことをされた気がする。兄がどういった人間だったか。普段どんな会話をしていたのか。間接的ではあるが殺人を犯した兄をどう思っているか。優しい口調の刑事が延々と質問してくるのだ。


 しばらくは兄に会えなかった。自分の知らないところで大人たちは裁判を行っていたらしい。起こした罪に反して、兄の刑はとんでもなく軽かった。少年法が適用されたことで、兄の経歴に深い傷が付くことは無かったのだ。報道でも兄の名前は秘匿されたし、未だ歳行かぬ少年という部分を尊重されていた。

 やがて兄は少年院に収容された。リーナが中学二年生になったときだった。

 兄には、厳罰よりも更生を求められていた。しっかり更生して出所すれば、兄は殆ど普遍的な暮らしに戻れる。家族が多額の借金を背負い、社会の害悪となるだけで事は済んだのだ。

 裁判が終わっても、家に平穏は訪れなかった。毎日のようにマスコミは押し寄せ、近所の話題の種になった。全国で報道がなされ、自分たちに逃げ場など無かった。

 リーナは事件とは無関係だった。犯罪者の家族であるというその一点を除けば。そして、ただそれだけの理由で十分社会の敵となり得るということを思い知った。


 父や母は信じられないほどにやせ細っていた。金を借りるために親戚にどれだけ頭を下げて回ったのか。祖父や祖母にはなんと言ったのだろうか。母の買い物友達や、父の勤め先の同僚からはどう思われているのだろうか。

 それはリーナにも影響していた。街を歩けば大多数の大人から批難され、友達だと思っていた人たちは面白いくらいに離れていった。人が怖くなった。街を歩けば誰かが自分の陰口を言っているのでは無いかと被害妄想をしてしまう癖が付いていた。リーナは人間不信に陥った。人に囲まれると、背中にぶつぶつが出て、しばらくは消えなかった。


 しばらくして少年院の兄と面会できるようになった。面会室のパイプ椅子に腰掛ける兄は、父や母のようにやせ細っていて目がうつろだった。彼は訪れたリーナを充血した瞳で捕らえると、すぐさま身を乗り出した。


「リーナ、聞いてくれ! 俺は嵌められたんだ! 俺は全然悪くないんだ! あいつらは全部の責任を俺に擦りつけやがったんだよ!」


 久しぶりの兄から飛び出た言葉は、そんな汚いものだった。聞いたことのない罵声。目前のアクリル板に飛び散る唾液。


「なあリーナ、お前ならわかるだろ? 俺が一体どんな人間だったのか! イジメなんてみっともないことするような人間に見えるか? この俺が。なあ、リーナ」


「リーダーが命令した」「従わなければお前をイジメると言われた」「仕方なくやっていた」「だから全部彼が悪い」兄は最終的に裏切られたのだ。一緒になって悪行を行っていたグループの連中に。汚いと思った。兄も、それに関わったすべての人間も。皆……、皆。


「…………お兄ちゃん」


 リーナは、眼鏡の奥に溜まった水滴を零さないように必死だった。

 兄は悪くない。彼だって被害者だ。だからこそ責任者として一人で罪を被っているじゃないか。そんな風に思う気持ちが……いや、思いたいという願望が、彼女の中には未だあったのだ。


「違うんだよリーナ、聞いてくれ。ちょっと遊んでただけなんだって。そしたらあの野郎、何を思ったのか勝手に死にやがってさ……俺がこんなところに一人で――」


 その瞬間――リーナは堅く握った拳をデスクに叩きつけた。


「お兄ちゃんは…………」


 面会室に静寂が広がる。


「少し遊んでいただけなのかも知れない。でも……やられた側はそうじゃ無かったのよ!!」


 心の中の美しかった兄が崩壊した瞬間だった。熱を持った涙がぼろぼろと溢れ出る。


「まだ高校生の女の子だったんだよ……? 相手の親御さんがどれだけ悲しい思いをしているか、考えたことある? 家族の中に突然犯罪者が現れたわたしたち家族のこと、考えたことある? お兄ちゃん……わたしっ、わたし……やりきれないよっ」

「リ、リーナ……だから俺はイジメなんてしてないんだって!」

「もう嘘を付かないで!! これ以上わたしのお兄ちゃんを汚さないで!!」


 兄がイジメをしていたことなど、今となってはどうだって良かった。たった一人の妹の前でさえ、苦し紛れの嘘を垂れ流し続ける兄の姿にリーナは耐えることができなかったのだ。


「わたしは……お兄ちゃんとは違うから」


 泣きはらした瞳を袖で拭いながら、リーナは強い口調で言った。


「誠実に生きてみせる。……わたしが正しいと思う正義を、絶対に貫いてみせるわ」

「正義……? そんなガキみたいなこと言ってないで、早く俺をここから――」

「子供なのはお兄ちゃんでしょ。やっていいことと悪いこともわからないなんて。あまつさえ犯した罪を認めもせず嘘で塗り固められた言い訳ばかり。そっちのほうが全然子供だよ」


 リーナの脳内に、和やかな笑みで隣に座ってくれる兄が一瞬過ぎった。優しくて、誰よりも信頼していた大好きな兄。しかしその仮面の裏側は、人を平気で傷付ける悪魔だった。


 もう――何も信じられなかった。

 リーナは己が正しいと思う正義に従うことにした。誰がなんと言おうと関係無い。生真面目で規律や法律に準ずる自分の信念に反って物事を考え、行動することに決めたのだ。


「…………さようなら、お兄ちゃん」


 それが――リーナが兄へと向ける最後の言葉となった。

 それからの時間経過は早かったように感じる。購入したマンションは被害者遺族の慰謝料の足しにするため、売り払うことになった。噂は既に町中に広がっていたのだ。

 もう地元に暮らしてなど居られないと、父と母はどこかの山奥に引っ越す計画を練っていた。だが、リーナはこの地での一人暮らしを希望した。生まれて初めてのわがままだった。

 負けた気がしたのだ。悪行を行った兄のせいで、何故自分が住み慣れたこの地から遠退かなければいけないのか。人生を左右されなくてはいけないのか。


 結局、リーナはいつもと変わらぬ学校生活に立ち向かうことにした。当然学校からは転校を薦められた。しかしリーナはそれに抗ったのだ。

 世間から辛い仕打ちを受けることはわかっていた。だが、どんな理不尽が待っていようと耐えてみせる。自分が間違っているだなんて思わない。

 自分の行いは、正義の名の下に準ずる行為だと――リーナ自身が信じていたからだ。

 悪行を犯した兄のようになってたまるか。自分はそのような人間には絶対にならない。

 弱者たちを守護する――騎士のようになってみせる。

 こうしてリーナは純白な誓いを胸に、正義執行を志すようになったのである。


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