第3章 わたしが正義を振りかざしたとして
第23話 消えない傷跡
リーナは視力が悪かった。眼鏡をかけることに抵抗はなかったが、裸眼にはそれだけの魅力があることも知っていた。
一度だけ、コンタクトレンズを試してみようと眼科に赴いたことがあった。しかし、看護婦が自分の眼球にあの歪んだ異物を入れようとしたとき――瞼が拒絶したのだ。
一生眼鏡のクラス委員というレッテルを貼られて蔑まれるかも知れないと思うと、少しだけ気持ちが憂鬱になる。意気地無しと、リーナは自分を責めた。
だけど――グリモワールでは違った。
淡いブルーの瞳は、視力が尋常じゃないくらい向上した。おまけに元よりきめ細やかで白かった肌はより一層の綺麗さを増し、彼女は更なる美貌を手に入れた。少し派手とも思ったが、暖かみのある桃色の髪もリーナは大分気に入っていた。
異世界での理想の姿にときめきを隠せなかった。夢の幻想世界に心を奪われていたヒカゲと同じように、彼女もまたこの世界での自分が好きだったのだ。
アスカと離ればなれになって迷い込んだ城下町は、まるでヨーロッパのような古き良き町並みで、本当に映画の中に入ってしまったような感覚だった。徘徊する人々のすべてが聞き馴染んだ日本語を流暢に喋り、物騒な武器やら商売道具を担いでいる。
知らない場所で独りなのが、リーナには何よりも怖かった。そんな子供じみた弱音が彼女を覆いそうになったとき――雑踏の中から荒げた声が響き渡った。
「てめえこのガキが! 金もねえのに堂々と盗み働きやがって何考えてやがる!」
城下町の広場から少し離れた方向に、小さな市場が見えた。行商人と思われる肥満体型の男が、わざとらしく大声を上げて小さな子供の首を締め上げていた。
あまりに衝撃的な光景に、リーナは一瞬身体が固まってしまった。理由があったとはいえ、身体の大きな大人が子供に掴みかかって暴言を飛ばしているという事実がとても恐ろしかった。足が竦む。しかし――リーナは気が付くと駆け出していた。
「ちょっと……! まだ子供なのよ!? 大人が叱るにもやり方ってものがあるでしょう!」
「ああ? なんだお前は、このガキの仲間か?」
リーナから見ても対面の男は恐ろしかった。顔面の半分が膨らんだ髭で覆われていて、おまけに変な匂いもする。あまりの不衛生さに、リーナは思わず顔をしかめてしまう。
「そ、それは違うけど……でも、あなたは絶対に間違ってる! 今すぐその子を離してっ!」
「このガキが生きてようが死んでようが俺にはなんの関係もねえし、こんな汚ねぇなりじゃ商売道具にもなりゃしねえ。なんなら今ここで俺が殺してやるぜ」
男が不気味な笑みを浮かべながら腕に力を込めていく。抵抗していた子供も途端に身体の力が抜けて、手足がだらりとしてしまった。きっと意識を失ったのだろう。
「そんな、やめて! お願い、誰かっ……誰か助けて!」
しかし、誰も手を貸してはくれなかった。街を歩きながら好奇な目を向けてくる者。商売をしながらにたにたと笑みを浮かべる者。我関せずといった顔で過ぎ去っていく人々。
彼らの視線に、リーナはぞっとする。背筋にぶつぶつしたものが吹き出すような感覚を覚える。それ以上の言葉を紡げなくなる。勝手に涙が溜まり始める。
――ああ、わたしの力なんて、この程度なんだ。
偉そうに規律だ法律だと謳っても、結局なんの役にも立たない。圧倒的な力の前では、為す術も無くわたしの正義は崩れ去ってしまうのだ。
そもそも、わたしの正義って……? これもまた押し付けなのでは?
生きていくための商売道具を盗まれたら、誰だってこういう態度に出るのではないか。自己満足に浸りたいだけなのでは。それは本当に正義と呼べるのか……?
何が正しくて……何が間違いなのか、はっきりして欲しかった。白と黒を明確に別けて、黒い部分は抹消してこの世から撃滅しなくてはいけないのに。じゃないとわたしの正義は――。
「やめて……お願い、お願いだからっ」
その言葉は、必ずしも殺されかけている少女を救う為のものではなかった。善と悪の間で苛まれる彼女自身を救う為の言葉でもあったのだ。そんなときだった――、
「あれ、リーナ?」
「…………ヒカゲ、くん」
呑気な表情でこちらに歩いてきたのは、別れたときの姿――まるで子供の王様のような面白おかしい衣装を纏ったヒカゲだった。肥満男はヒカゲの姿を見ると、すぐさま瞳を丸くして腕の力を抜いた。音を立てて地面に崩れた子供をリーナはすぐさま抱きしめて、胸に耳を当てた。とくん、とくんと小さな鼓動が聞こえてくる。
「……良かった、大丈夫みたい」
ほっと一息ついて、子供の顔を覗く。黒ずんで汚れてはいたが、とても愛らしい少女だった。首に赤い首輪をしていて、真っ白で綺麗な猫っ毛の天辺には――ぴょんと跳ねた耳。
「なんだ、また来ちゃったんだね……ってことはアスカも一緒?」
「一緒じゃ……ないわ。あなたの部屋でグリモアを開いたら、わたしは一人だった」
「へえ……なんでだろう、現世からグリモワールへ来るのに何か制限ができたってことなのかな。特にグリモアに記述したわけでもないんだけど」
「そんなこと、どうでもいい」
「……何、怒ってるの?」
「とりあえず感謝はしてる。ありがとう、ヒカゲくん」
リーナは猫耳少女の頭を撫でながら、肥満男を睨み付ける。彼はこの騒動と自分は関係無いとでも言いたげに、そっと退散しようとしていた。
「ヒカゲくん、あの人犯罪者よ」
「へえ、そうなんだ」
ヒカゲは飄々とした顔で肥満男のそばまで近寄ると、ピシリと人差し指を男の鼻先に立てた。
「なんか良くわからないけど、とりあえず君は独房行き。永遠にね」
* * *
「もう盗みなんてしちゃダメよ」
「…………わかった」
猫耳少女はお腹が空いて仕方が無かったらしい。元は裕福な暮らしをしていたのかもしれない。お金を払って何かを得るという所作を彼女はまだ知らなかった。
「それでもお腹がすいたら……そうね、わたしに言うこと。良い?」
「おねーちゃんに言ったらくれるの?」
小さな頭で小首を傾げる。その動作が可愛くて、リーナは微笑んでしまった。
「あなたはまだ小さいし、仕方がないもの。大人は子供に色々教えなきゃならない立場なの」
「おねーちゃんは大人なの……?」
「そ、そうねっ……少なくともあなたよりは大人だわ!」
リーナは強気に胸を張った。もし自分に妹が居たならこんな感じなのだろうか。
猫耳少女はヒカゲの采配によってストーリエ城下町の孤児院に引き取られることになった。その立ち会いで迎賓室に来ていたリーナの元に一人の騎士が現れ、彼女はそのままヒカゲの玉座があるという謁見の間へ通されることになった。
「リーナさ、ここの宮廷騎士にならない?」
「……騎士? わたしが? ……ヒカゲくん、そんなことより一緒に現実へ帰りましょう」
「またそれ? 嫌だって言ってるじゃん。そんなに帰りたいなら一人で帰れば? 扉の場所なら教えてあげるからさ」
「…………そんなこと、できるわけっ」
ヒカゲの軽はずみな言動に、リーナは苛立ちを覚えた。自分たちがどれほどの覚悟でこの世界にやって来たと思っている。
「リーナは真面目だしさ、ピッタリだと思うんだよ。ほら、さっきみたいな犯罪者を捕まえたり、治安維持というか……要するに君の正義でこの町を守って欲しいんだ」
「……わたしの、正義」
リーナがそうぼやいたときだった。玉座の反対側で、仰々しい扉が開いた。
「失礼します王様! 例の男を捕らえました!」
若い騎士が敬礼をすると、縄で縛られた男が数人の兵に囲まれながら謁見の間へ入ってくる。
「この人……何したんだっけ?」
「はい、ストーリエ内でも悪名高い闇ギルドを経営しています。主に人身売買です」
どきんと、リーナの心臓が鳴った。
言葉の意味は知っていた。でも現世ではそんな言葉を使う機会など無かったし、違う世界の言葉くらいに考えていた。でも、ここではそういったことが横行しているのかもしれない。
リーナは恐る恐る縛られている男に目を向ける。とても温厚な表情で、若々しかった。優しげな笑みのまま下がり眉で困ったように苦笑いを浮かべている。
リーナは口をぽかんと開いたまま、大きな瞳を見開いた。
顔の造形や細かい部分は違うが、表情の作り方がそっくりだった。
かつてリーナを裏切って、今も彼女の胸に消えない傷跡を残した――あの人に。
――そう、似ていたのだ。自分の兄に。
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