第17話 彼の名はラロード


 精神も肉体も極限状態に陥ったアスカは、混濁した脳裏のただ中で立ち尽くしていた。

 目の前に敷かれた境界の向こう側には、絶対的な暗黒が待ち受けている。既に半分ほど踏み込んでしまっているアスカの脚には、“死”が巻き付いていた。

 藻掻く。振り切る。だが決して断ち切れない、呪詛のような絶望。


 ――もう、無理か。


 込めていた力を緩めると、全身の生命力がじわりと薄くなるのを感じた。

 見ず知らずの土地で、飲まず食わずで数日間も生き残った。ぬくぬく生きるだけだった現世では経験することのない怒濤の日々。何の変哲も無い少年が、生きるために躍起になったのだ。

 きっと精一杯頑張った。だから、もうこの悪夢のような現実を投げ捨てて楽になりたい。中途半端だけど、きっと自分にはそれが似合ってる。


 でも――それでいいのか。ヒカゲとも会えなくなる。二度と。あの日別れたっきり、ずっと。


 本当に大切なものを……失っていいのか。


 この男に従えば、まだ生きられるのか? ……だったら、もう少しだけ足掻いてみようか。あとちょっとだけ……。疲れたらいつもみたいに辞めてやる。性根の曲がった彼らしい言い訳だった。だが、生き抜くために。何かを成し遂げるために。少年は――選んだ。


 有象無双の世界の中で。



 * * *



 ラロードが、アスカの手のひらを凝視する。彼の指はぴくりとも動かなかった。

 隣のプリスがその場で崩れ落ちる。


「助け、られなかったっ……!!」

「…………まだ決めるのは早い」

「へ……?」


 アスカの手のひらが微動する。そして、無色の薄い膜が手をゆっくりと覆っていく。ラロードが先ほど創りだしたときのように、薄い膜が少しずつ形になっていく。やがてそれは球形となり、色が付き、そして――、一本の短剣になった。

 アスカの掌中に浮かぶのは、切っ先のねじ曲がった異様な短剣。その暗黒色の刃には、赤黒いヒビのようなものが血管みたいに張り巡らされている。

 死に物狂いの少年が想像し、創造した、運命を断ち切るための刃。

 このグリモワールで足掻くと決めた少年の――決意の表明。


 名を――大毒鷲の短剣(ベネノ・ナイフ)。


 新たに創造されたアスカの相棒に、瞳を丸くしたラロードが呟く。


「“直感型”で助かったな。こいつは相当運が良い」

「ラロードっ!!」

「ああ、わかってる。チイ、コイツを癒やしてやれ。悪いところ全部だ」


 ラロードが指示すると、彼の肩で小さな欠伸をしていた妖精が薄い羽根を振動させながらアスカの元へ向かった。

 チイは自身の数倍も大きなアスカの顔面を顰めっ面で睨んでから、ラロードを一瞥する。主人がこくりと頭を縦に振ったのを確認すると、アスカの鼻先を指でつんと突いた。

 途端に光り輝く碧色の絹糸が、少年を愛撫するように優しく包み込んでいく。チイの頭部にぴょこんと生えていた植物のような毛が、一本だけ萎びて枯れた。

 ラロードは妖精の奇跡を見届けると、コートを開きチイを帰還させる。横で安堵するプリスに横目を流し、


「切り傷も、刺し傷も、毒もすべて治癒した。悪いところは何一つ無い」

「そうですか……よかったですわ」

「安心しろ、気絶してるだけだ。じきに目を覚ます……お前も少し休め」

「はい、ラロード……ありがとうございました」

「礼を言われるようなことはしていない。俺は試した。コイツはそれに応えた。ただそれだけだ。団員が二人増えただけに過ぎない」


 いつの間にかミルフが数に含まれていることに気が付いたプリスは、くすりと微笑む。


「何がおかしい」

「いいえ、なんでもありませんわ」


 こんなにも顔面に表情が浮かばない人も珍しい。プリスは、ラロードのぶっきらぼうな言葉の隅に、彼なりの優しさを感じて心がふっと温かくなったのだった。



 * * *



 どこまでも広がる土色の泥沼。その中心で少年は立ち往生していた。


「ヒカゲ! リーナ! お前ら一体どこに行ったんだよ!」


 沼に足を取られながらもアスカは一歩一歩進んでいく。藻掻きながら叫び続ける。


「待ってくれ、待ってくれよ! 頼む、一人にしないでくれ!」


 自然と涙が目尻から零れる。この世界は――何もかもが怖かった。同じ人間なのに何かを奪い合うことでしか命を繋ぎ止めておけない、暴力の蔓延るこの世界が。

 早く平和な我が家に帰って、菓子を摘まみながら自室でゆっくりゲームをしたい。部屋に一人だって構わない。血を分けた家族が、同じ屋根の下に居てくれることが重要なのだ。それが少年にとっての日常であり、平和だった。走馬燈のように浮かび上がってきた家族との何気ない日々が、途端にアスカをホームシックにさせる。

 あまり家族に執着していた訳ではなかった。寧ろ、いつも邪険に思っていたはずなのに……。

 思えば、寡黙な父親とは最近ロクな会話をしてなかった。だけど、ときおり土産を買ってきてくれて、家族皆がテーブルに集まることがアスカは好きだった。生真面目な兄とは何から何まで食い違ったが、それでも幼い頃一緒にゲームをして遊んだことは今でもずっと心に残っている。お調子者な姉の支離滅裂な行動は、ときにアスカを笑いの渦へと巻き込んだ。

 崩壊してしまった家族ではあるが、もし現実に帰ることができれば、やり直すことだってできるかもしれない。母親とだって……再会することができるかもしれないのだ。


「父さん、兄ちゃん、姉ちゃん…………母さん。……会いたいよ。俺を……助けてよ」


 無駄だと言うことは彼自身が一番良くわかっている。しかし、そうやって助けを求め、待つ以外の方法が彼には思いつかなかった。


 突然、目の前の沼からヒカゲが現れる。


「ヒ、ヒカゲ、俺と一緒に帰ろう。リーナと三人でさ」


 言いながら彼の手を掴もうとしても、ヒカゲはぼろぼろに崩れて泥沼へと還元されていく。……反響する言葉だけを残して。


 ――――僕の邪魔をするくらいなら……この世界には要らない!


 異世界、グリモワールが変改を遂げた原因。ヒカゲの悲痛な叫び。


 ――ああ……もうなんか、めんどくせーな……全部。


 アスカは泥沼に勢いよく身体を倒した。少しずつ――沈んでいく。沼底に着く頃には、彼は屍となっているかもしれない。しかし少年は、混濁する闇の中で一筋の光に出会った。


 ――アスカくん、アスカくん。


「…………ん、うう」


 柔らかで滑らかな心地良さを頬に感じる。アスカはその極上の感触をもっと味わいたくて、頻りに頬ずりを繰り返す。すると、みずみずしい弾力が跳ね返ってきた。

 重たい瞼を擦ると、鮮明な視力が映像を捕らえた。視界の中で広がるのは美しい曲線を描いた腿であり、ぴったりと身体に張り付いた衣服でもあった。


「……お目覚めですか?」


 声が降りかかってくる。大きく膨らんだ双丘の向こう側に、プリスの顔を確認する。


「プリ……ス?」

「はい、そうですわ」


 にっこりと微笑んで、プリスは優しくアスカの髪に触れる。

 状況はよくわからないが、アスカの意識が少しずつ鮮明になっていく。

 そして、一つの結論に辿り着く。――これ、膝枕じゃない……?


「アスカくん……? 耳が真っ赤ですわ。もしかして風邪をこじらせたのではないですか?」

「ち、違うって……」


 アスカは名残惜しくもプリスの膝から身体を起こして、上気したまま髪を掻きむしる。


「大分うなされていました。なので、私の膝で…………弟が、好きだったもので。つい」


 プリスはいつになくしおらしく、憂いの表情だった。アスカは困ったように視線を反らす。


「それでここは? 俺、確か死にかけて……」

「ここは鬣猫盗賊団のアジトです。アスカくんはここの団員になったのですわ」

「………………は? いや待って。意味わかんねーって。俺が盗賊団? なんで」

「死にかけていたアスカくんを救うにはそれしかなくて……ああ、そちらに新しいお洋服を準備しましたので、後でお着替えなさってください」

「あ、ああ……ありがとう」


 自身の身体を見つめる。傷一つ無い。とても致命傷を負っていたようには思えない。記憶では、ズダボロだったはずだ。アスカは頭を抱えて記憶を巡らせる。


「そうだ……リーナは、あいつはどこに行った!?」

「お、落ち着いてくださいアスカくん。そのあたりを含め、一度お話しましょう」


 プリスから事の顛末を聞いたアスカは、ほっとしたような――凍り付くようなそんな感覚に陥る。一歩違えば間違いなく死んでいた。

 今でも抜けきらないおぞましい悪寒。――短剣を刺され、腹の中身を掻き回された。外傷が無くともずきずきと腹が痛む。魔法を使うことができた以上に恐怖のほうがずっと大きかった。

 そんなとき、部屋の隅で垂れ幕が揺れ、男が顔を出す。


「目を覚ましたか、着替えたら来い。話がある」


 それだけ言って、男は踵を返した。

 彼の名はラロード。この盗賊団の頭領で、アスカに外傷を負わせた張本人。

 そして――彼の命の恩人でもある。


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