第2章 俺がここで生きるために必要なもの

第14話 スラム街の現実


 今までは何を言わずとも母が料理を作ってくれた。家を出ればどこにでも飲食店はあった。生きるのに困ることはなかった。だが――ここは違った。

 喉に何も通さずに数日。胃袋の中に胃液以外何も存在しない現状は、アスカにとって心身共に死活問題だった。身体全体が汗でべた付き、髪は砂埃が混じってごわごわしている。


 ――風呂、入りてえなあ。


 ファンタジー世界の主人公たちは、洗髪やら入浴は一体どうしていたんだろう?

 そしてアスカの抱える絶望はそれだけじゃない。途轍もなく心細かった。寂しくて、辛くてしかたがない。そんな弱気な心が、アスカの精神と身体を余計に衰弱させてしまっていた。

 行方不明になったリーナを、泣きべそになりながら血眼で探した。だが結局見つからなかった。皆で異世界を創世をしていたときはバラバラになることなんて無かったのに。

 ヒカゲと言い合いになったこと事態が、この世界に何かしらの影響を与えているのかもしれない。突入時にリーナが言っていた、“戻って来られなくなるかもしれない”という危惧の念は当たっていたわけだ。きっと……罰が当たったんだ。アスカはそのまま瞼を閉じた。

 突然、アスカの懐がごそごそと蠢く。薄汚れた布を身体に巻き付けた幼い少女が、アスカのそばに居た。とても愛らしい目鼻立ちで、色鮮やかな朱色の瞳がこちらを捕らえている。

 肩までの薄汚れた白髪。頭部からぴょこりと生えた猫耳を震わせ、警戒している様子だった。


「…………何かっ、用かよ……」


 枯れ果てた声で、小さな相手に訊ねる。


「……ダメだって、わかってはいるんだよ。でも、おにーちゃん死んでると思ったから」

「悪りーな……一応、まだ生きてんだよ。……それに、俺はなんにも持ってねーぞ」

「うそだ、持ってる。こしぶくろに入ってる……かたいやつ」

「ケータイのことか…………やるよ。でも、その代わり……食い物と水が欲しい」

「……干し肉なら、あるよ」

「本当か……?」


 猫耳少女は布袋をアスカの前に掲げる。こんな年端もいかない貧しそうな娘に残酷な取引を申し出るとは、我ながら腐っている。だが自分の持ち物に希少価値があるというなら、利用するほか無い。何せこちらは死にかけているのだ。


「……干し肉とそれ、交換……してほしい」


 アスカは少しの罪悪感を覚えつつ、布袋を交換する。満足そうに頬を緩めた猫耳少女は、そのままどこかへと去って行った。彼女と少し話したお陰か、意識が少しだけ鮮明になった。アスカはなんとか身体を起こし、腐った木でできたボロボロの壁に背を預ける。

 手に入れた布袋の中身を確認してみると、何かの生き物の干し肉が入っていた。

 貪るように齧りつく。とても堅くて、凍らせたビーフジャーキーのような噛み心地だった。だが――美味い。唾液がどばどばと溢れ、噛めば噛むほど潜んでいた肉の旨味が溢れてくる。そんなとき――ふと彼の双眸に映ったのは、認めたくない現実だった。

 片足を欠損させた老人が道行く人に物乞いをし、娼婦たちが昼間からうろうろと客を探し、首輪を繋がれた幼い子供や、集団で盗みを働く少年たち。謎の宗教団体が巡回し、街中に飾られている銅像に祈りを捧げている。現世に居たときは考えもしなかった。生きていくためには他者から何かを奪わないといけない――そんな過酷な世界。


 憂鬱な気持ちのアスカの耳に、甲高い悲鳴が聞こえた。声の方へ目をやると、先ほどの猫耳少女が禿頭の巨漢に絡まれていた。

 心臓が早鐘を打つ。背筋が急激に冷たくなる。すぐに目を背けても、結局は視界の端で捕らえてしまうジレンマ。巨漢の太い腕が、逃げられないように小さな肩を抱いていた。

 アスカはゆっくりと立ち上がり、足音を立てずにその場を立ち去ろうとする。

 既視感。まるで、ヒカゲが目の前でイジメられているときのような。きっと猫耳少女は酷い目にあわされるのだろう。でも、このまま黙っていれば自分は無関係でいられる。


 ――あんな小さな子供を見捨てるのか? 一瞬だけでいい。あの巨漢からあの子を開放するんだ。そして彼女を抱きかかえて全速力で逃げればいい。跳躍力だって上がってる。そこまでイメージしても、アスカは一抹の不安を拭いきれなかった。

 アスカは瞼をぎゅっと瞑って拳を握りしめる。身体に動けと命じる。唇を噛みしめる。


「…………待ってくれッ」


 アスカが声をかけると、巨漢が振り向いた。猫耳少女と目が合う。


「そいつ、どうするんだ……?」

「こいつか? 珍しいだろ。『ネ族』だ。顔も大分良いし、高く売れるのは間違いねえ。メイン街に依頼してストーリエに出荷するんだよ。貴族の変態共に買わせるのさ」

「…………買わせる」


 人間に使う言葉では無かった。幼い少女は、物品のように運命を投げ出されようとしている。しかし、もしかするとそれは彼女にとって幸せなことかもしれない。今より贅沢な暮らしをさせてもらえるだろう。こんなところにいても、きっと野垂れ死ぬだけだ。自分がその可能性の芽を摘んでしまうのは、きっと良くないことだ。

 たくさんの言い訳を述べて、結局アスカは踏み出せなかった。

 そんなとき――、


 顔面に衝撃。


 アスカはそのまま身体ごと吹き飛ばされ、付近の民家に突っ込んだ。突然の出来事に訳もわからず身体を起こして、目を懲らす。

 長い足を伸ばして――白い肌を露わにする少女が仁王立ちしていた。


「今すぐその子を離してください。でないと……お仕置きしてしまいますわよ!」


 長い金髪を靡かせながら、きりりとした眉の少女が巨漢を指差し、自信満々にそう言った。

 流麗な金の髪は後頭部に向かって丁寧に編み込まれ、一纏めにされている。白い肌に、澄んだブルーの瞳。レザーの胸当てと、足を高くまであげられそうな、丈の短いタイトスカート。世の男性すべての瞳を奪ってしまう程の美少女が、なんとも素朴な格好でそこには居た。


「おめえは……タテガミの!」巨漢が唾を撒き散らしながら叫んだ。

「おっしゃるとおり、タテガミですわ! 早くそちらのお嬢さんを開放してください。さもなくば、次、瞬きをした瞬間にはあの方のようになってしまいますよ」


 金髪美少女がアスカの方をチラリと確認してから、上品に手を向けた。


「ちっ、クソ……! ツイてねえ!」


 尻餅を付いた禿頭の巨漢が、背を向け逃げ去って行く。

 金髪美少女は猫耳少女の元へやって来て膝を折ると、彼女の汚れた髪を優しく撫でる。


「……大丈夫ですか? どこかお怪我はありませんか」

「……へーき。おねーちゃん、ありがとう」

「いえ。どうってことありませんわ。私(わたくし)、強いですからっ」


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