第12話 豹変


 二人はヒカゲの部屋を訪れていた。目の前には、現世と異世界を繋ぐ存在、グリモア。


「なんだよリーナ、その顔は。景気悪りーぞ」

「……だ、だって」


 意気消沈したリーナが、きょろきょろと目の拠り所を探す。

 目の前で先ほど涙を零したクラスメイトに、リーナは少なからず動揺していた。彼女は、ヒカゲの家の事情を何も知らない。ほんの少しだけ関わり合うようになった自分と、長年連れ添ってきたアスカが、友人というカテゴリの中でも決定的に違う存在だということには気が付いていた。アスカとヒカゲの間には――きっと自分の知らない領域がある。

 それを思うと、こうして三人で集まる前にアスカに浴びせてきた言葉の数々が――果たして正しかったのか、リーナにはわからなくなっていた。

 ヒカゲが学校でイジメられているのに平然と見捨てるアスカと、異世界へ行ったまま戻らない友人の為に涙を流す二人のアスカが、リーナの頭の中で浮かび上がる。


 何故――彼は学校でヒカゲを助けようとしないのか。それなのに、どうして学校外では何事も無かったかのように仲良くすることができるのか。

 おそらくヒカゲの家は厳しい家庭環境にある。父親も居らず、母親も病気を患った上に盲目だった。たった一人の弟も身体が弱いと聞く。

 耳に障害を負っているヒカゲもそうだが、世間的に弱い立場にあるのは明確だった。しかし、ヒカゲ当人からそういった苦労話は一度として聞いたことがない。


 ――ヒカゲはとても強い。

“あの日”のことを思い出して、毎夜啜り泣いてしまう自分などよりずっと。

 ヒカゲを一番理解しているのは、恐らくアスカだ。ならば、彼ら二人の関係やそれに付随する様々な事象を鑑みてから善悪の判断を付けるべきなのではないのか?

 ――もしかすると、自分の正義は彼らの邪魔になっているのではないか?

 恩着せがましく偉そうに泥のかからない安全地帯から文句を付けるだけで、当人たちの事情など知ったことではないと、心のどこかでそう思っているのではないか。


 ――わたしは……人の為に正しくいたいわけじゃない。……でも、じゃあなんのためなの?


 自分自身の為に振りかざす強引な善行は――果たして正義と呼べるの?

 リーナは、自らの物差しで推し量った曖昧で自己本位な正義に疑問を感じ始めていた。


「リーナ、開くぞ」


 アスカがグリモアのカバーに手をかけた。

 少年と少女は、それぞれの想いを胸に――再びグリモワールへと飛び立つ。



 * * *



 豹変した世界で、アスカはただ立ち尽くしていた。視力が向上したアスカの碧色の瞳が、目の前の現実に圧倒される。


「…………マジ、か……これ」


 何度か訪れたはずの丘の上に立っているはずだった。しかし、そこに広がっていたのは――彼らの知る更地ばかりの大地ではなかったのだ。

 地平線の彼方には大きな街がいくつも見える。草木や石で作り上げた原始的な集落では無く、ファンタジー小説やアニメ、ゲームなどで出てくるような色鮮やかな煉瓦造りの家々が。中央には巨大な城。テーマパークなど比にならないほど豪華で、見たことも無い異国の風景。

 東へと視線をやると、奇妙な植物が巻き付いた古風な塔が聳え立っていた。他にも大きな岩壁にぽっかり空いた洞窟、目を奪われてしまうほど美しい渓谷に、妙な啼き声が聞こえる山々。

 アスカがロールプレイングゲームで体験してきたような世界が――そこには広がっていた。


「これ……アイツが全部一人でやったっていうのかよ」

「そんな……いくらなんでもやりすぎだわ」


 リーナの言葉通り異世界は進化し過ぎていた。彼らがこの世界に訪れなくなってから、一ヶ月足らずである。その期間にこれほど文明を進めることが可能なのだろうか? グリモアは記載してから世界が変化するまでに二十四の時間を要する。休みなく書き続けていたとしても、時間が少なすぎる。


「……な、なんか、来るわっ」


 リーナが黄色とピンクのパステルカラーの空を指差す。アスカもその先を追って瞳を懲らす。

 ――上空から、何かが近づいて来ている。アスカにはその正体がすぐにわかった。

 だが――未だに信じられない。これだけ非現実的な光景を目の当たりにしてきた上で、「嘘だろ」と独りでに呟いた。

 状況を整理しきれないアスカたちに――ぶわり、と圧倒的な力を持った風が薙ぐ。

 思わず腕で顔面を覆ったが、彼らの身体は簡単に吹っ飛んだ。怖じ気づいてしまいそうな大きな巨躯に、深緑の鱗。とても長い首。二つの大きな翼に、鋭く尖った白い牙。異形の黒眼。立ち上がった長い尾は天に向かって伸び、手持ち無沙汰に揺れている。

 オーソドックスでこそ最強で、最高。かつてヒカゲと一緒にそう笑い合ったこともあった。


 ――ドラゴン。アスカの認識下にある空想上の生き物と、目の前の存在は見事に合致した。


「ああ、ごめんごめん。びっくりさせちゃったかな」


 硬そうな緑の鱗から、ひょいっと身体を浮かせて少年が大地に着地した。


「やあ、二人とも」

「ヒ、ヒカゲ……お前」


 大きな襟に小綺麗なスカーフ。袖部分にかけて細くなっていく膨らんだ黄色と紫の派手な服と、黒のマント。先のとんがった靴。まるで子供の王様のような出で立ちのヒカゲが、腋にグリモアを挟んだまま陽気にアスカたちの元へ歩み寄って来た。


「一体いつぶりだろう。凄く……久しぶりな気がするよ」

「お前……何言ってるんだ?」


 ヒカゲの表情を見て、アスカは表情を引きつらせた。

 目の前のヒカゲの“顔”が、以前見たときの彼と微妙に違っていた。顔の造形が特別変形したわけではない。しかし、一瞬ヒカゲの皮を被った別の人物だと思えるほどに、彼の表情からは“ヒカゲらしさ”が消えていたのだ。


「そうだなあ、一年以上は……経ってるよね?」


 ヒカゲが薄気味悪く――嗤った。


「…………え?」


 リーナの瞬きが増える。アスカと同じく、彼の言っていることが理解出来なかったようだ。


「お前……まさかずっとこの世界で暮らしてたのか?」


 焦る思いのまま、アスカが言う。


「うん。……あ、そうか、忘れてた。ママが急病ってことにしてるんだった。ゴメンね騙して。それより聞いてよアスカ、この時差トリックで裏技を発見したんだよ! こっちでグリモアに記述してから現実に戻って一時間してからここに訪れると、もう内容が反映されてるんだ!」


 アスカの質問など気にもせず、ヒカゲは楽しそうに語り出した。


「……アスカくんっ」


 リーナが、怯えた表情でアスカを見つめる。アスカは彼女の想いを受け取って、前へ出る。


「……ヒカゲ、そろそろやめよう」

「…………何が?」


 言葉に棘は無い。ヒカゲはいつものにこにこ顔を傾ける。だが、恐らく彼はなんのことかわかった上でこういう返しをしてきている。


「……もう、十分遊んだだろ。帰ろう、現実世界に」

「…………」

「ヒカゲ、これ以上この世界を広げてみろ。絶対に取り返しの付かないことになるぞ」

「…………連れ戻しに……来たってわけ?」

「……そうだ」

「バカみたい、そんな真剣な顔してさ……たまたま家に戻ってないだけじゃん、いつか帰るよ。それに今だってたまには帰って――」

「嘘つけ。お前が学校に来なくなってどれくらい経ったか、知ってるか? ……一ヶ月だ」

「なんだよ、たったそれだけじゃん。そんなに怒ること無いだろ」

「それだけじゃない! お前がさっき言ったことが本当なら、お前はなっ――――」

「……七二〇日間。ちょうど……二年くらいね」とリーナが口添えする。

「こんなの、もうほとんど中毒症だ。時間の感覚おかしくなってるだろ、お前」

「……関係無いよ、そんなの」

「おいっ」


 踵を返すヒカゲの肩を掴む。しかし、ヒカゲは振り向きざまにそれを払う。


「やめろよ。一体何が悪いのさ。別にあっちの世界とはなんの関係も無いんだから、何をしたっていいだろ! 別に迷惑を起こしたわけでもないじゃん!」


 尖ったヒカゲの瞳が――アスカにはさっきのドラゴンのような、偉業の物に見えた。背筋が凍って、足が竦む。アスカはヒカゲの怒りの表情を初めて目にした。


「そ、それは……そうだけどな…………でもっ」


 この世界にいれば、きっとヒカゲは幸せなんだろう。学校でイジメられることも無ければ、ストレス一つ無い。自分の楽しいことにだけ目を向けていられる。

 でも――本当にそれで、いいのか? ヒカゲ。

 親友にかける言葉を失ってしまったアスカの前に、リーナが立つ。


「ヒカゲくん……カズラくんが心配してるわ。それに……おばさまも」


 リーナの言葉に耳を傾けたヒカゲは、口を半分ほど開けて――再びその唇を硬く閉ざした。待機しているドラゴンの鱗に触れ、立ち尽くしているアスカにもう一度視線を向ける。


「…………ヒカゲ、帰ろうぜ」

「…………嫌だ」


 ヒカゲの短い言葉には強い拒絶が含まれていた。アスカは、まるで自分が丸ごと否定されたような気分になった。途端に涙が込み上げてきそうになる。

 ――でも、向き合うって決めたんだ。

 アスカは、ヒカゲの瞳を見つめる。


「…………ヒカゲ、お前の耳さ、もしかしてグリモアの力で治せるんじゃないのか?」


 アスカは、初めてヒカゲの持つ障害について触れた。


「…………何、……それ?」

「……お前の耳が普通だったら、きっとイジメられたりなんてしないんだ。いや……、もしそうなったとしても……次からは俺が……その――」


 アスカの言葉を遮って、ヒカゲが苦々しく笑う。


「え、何それ。ちょっと待ってよ…………もしかして、アスカは……僕のことをずっと可哀想な奴だと思ってたってこと?」

「…………それは、……だな……」

「そうか…………そうだったんだね」


 どこか遠くを見るような瞳で、ヒカゲの表情から生気が消えていく。


「じゃあ君は……今まで僕のことを耳の聞こえない障害者で、イジメられっ子のどうしようもないゴミクズ野郎だと思ってたってわけだ。いつも一緒にいてくれたのはその哀れみから!? ねえっ、……答えろよ!」


 悪鬼のような形相で、ヒカゲがずかずかとアスカに歩み寄る。突然飛んでくる罵声に慌てふためくアスカは、なんとか口を開いて反論する。


「ち、違う、俺はそんな――」

「違くないだろ!! 今まで上手くやってきてたのになんだよ、君はっ……君だけは違うと思ってたのにっ! 結局アイツらと一緒なのかよ!!」


 怒鳴り声を撒き散らしながら、ヒカゲがアスカの胸元に掴みかかった。グリモアの恩恵で身体能力が向上しているせいか、ひ弱なヒカゲでも片手で軽々とアスカの身体を持ち上げる。


「二人とも、やめてっ! お願いだから」


 慌てたリーナが二人の仲介に入る。だが、アスカとヒカゲの耳には一切届かない。

「ふざけんなっ!! ふざけんなよクソ! なんだよ、今更そんなこと言って! たった一人の友達だとっ……思ってたのに!」

「ヒカゲ落ち着け! 俺はいつだって――」


 そこまで言って、アスカは口をつぐむ。


 ――――お前の友達だ。

 たったそれだけの一言が、喉に詰まって出てきてくれない。胸を張って言うことは、やっぱりできなかった。何故なら自分は、友達の仮面を被った悪魔だから……。

 右頬にめり込む拳。されるがまま、アスカは近隣の茂みへと吹っ飛んでいく。


「アスカくんっ!」


 リーナが悲鳴をあげて、アスカの元へと走る。

 腫れた頬を撫でながら、アスカは腹を決める。


 ――どうせダメだって言うんなら。


「…………意地でも、連れて帰ってやるよ」


 アスカが茂みの中からゆっくりと身体を起こした。口からは真っ赤な鮮血が滴り落ちる。

 こんなに強い意思を持ったことは、今までで一度もなかったかも知れない。

 カズラの無邪気な顔が――ヒカゲの母親の悲しそうな顔が浮かぶ。さらにイジメられているヒカゲと、グリモアを前に楽しそうなヒカゲが重なる。


「ぶっ飛ばしてでも、テメーを連れて帰る!!」


 ヒカゲに向かって駆け込み、腹にタックル。そのまま押し倒して馬乗りになると、アスカは優勢のまま拳を振り上げる。

 ――しかし、振り下ろされた鉄拳は、ヒカゲの左耳寸前で止まった。

 デザインは変わっているが、あのとき自分が窓から投げた補聴器。熱くなっていた頭が一瞬にして冷え、握力が失われる。


「…………何、殴らないわけ?」


 地面に寝そべったままのヒカゲが、渋面を浮かべながら唇を噛みしめた。


「ほんと……がっかりだ」


 その一言に、すべてが含まれている気がした。共に過ごしてきた想い出全部。自分たちは対等などではなかった。イジメられっ子であるヒカゲをアスカは無意識に見下していて、可哀想だと同情していたのだから。ヒカゲはそれに落胆した。ただそれだけのことだった。

 アスカの険しく尖った瞳の中から一粒の涙が落ちて、ヒカゲの綺麗な衣服に染みこんだ。乱暴に胸元を掴んだまま、アスカは瞬き一つすることができなかった。


「離してくれよ、服が汚れる」


 無表情でヒカゲが告げる。アスカが身体を退かすと、彼は汚れを払った。


「…………こんなものが、あるからいけないんだ」


 前髪で表情を隠したまま、アスカがぼやいた。


「……なんのこと?」怪訝な顔でヒカゲが反応する。


 そしてヒカゲが気が付いたときには、アスカにとある物が渡ってしまっていた。

 グリモワールを統べる――異世界創世のグリモア。


「やめろっ!!」


 慌てたヒカゲがアスカにしがみ付く。二人はそのまま揉み合いになり、やがて羊皮紙が劈く。千切れた紙切れがアスカの手元に残り、本体は――宙を飛び、ヒカゲの元へ。


「…………よくも、よくもやってくれたな」


 ヒカゲの手のひらから、紫煙のようなものが溢れ出る。まるで燃えたぎる灯火のように、風に揺れる紫の蒸気が指先まで移動していく。


「お、お前っ……なんだよ、それ……」

「お前らなんて……どっかに行けばいいんだ。僕の邪魔をするくらいなら……この世界には要らない! もう、僕を放っておいてくれ!!」


 ヒカゲの絶叫が、世界を震わせる。色鮮やかな空が途端に漆黒に染まり、大地が振動する。


「な、何これ……ちょっと、どうなってるのよ!?」

「ヒカゲ、やめっ――」アスカがヒカゲに手を伸ばしたとき――、


 彼らの視界は真っ黒になった。


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