第11話 踏み出すその一歩
グリモワールに行かなくなってから、一ヶ月が経った。テスト前の勉強に取り組むため、アスカは真面目に勤勉生活を送っていたのだ。そして、それが――ようやく終了。
「ふう……終わったぁ」
アスカは机に突っ伏したまま、肩の力が抜けるような声でだらける。
「ちゃんと勉強したのかしら。えらくお疲れのようだけど」
机に近寄ってきたリーナが、腕を組んだままむすっとした顔で彼を見下ろす。
「前も言ったけどな、一応こういう将来に関わることはやっとく主義なんだよ。数年後、どうなってるかなんてわかんねーしな……まあ、結局部屋のマンガとか読んじゃうんだけどさ」
「……志望校は?」
「…………それは」
くすりと笑みを浮かべるリーナ。
「口だけね。ほんと」
最近一緒にいることが多いせいか、リーナの笑った顔を見る機会も増えていた。能面で堅物なクラス委員の笑顔など、少し前は想像することも出来なかったというのに。
「ヒカゲくんのお母さん、大丈夫かしら」
「……ああ、心配だな」
母親の容態が悪くなったらしく、ヒカゲは本格的に学校に来なくなった。それに伴って、アスカとリーナもヒカゲの家に行くことは自重していた。ヒカゲとはもう一ヶ月も会っていない。
窓の外では、寒々しい雪が灰色の空から舞い降りていた。
「…………あのね、あのときの……ことなんだけど」
リーナの口調はとても弱々しかった。アスカはすぐに“あの件”だと思った。
「俺も気になってる、異世界でのイジメのことだろ」
「……どうしてわかったの?」
雪景色から視線を移し、きょとんとした顔でリーナが言う。
「お前わかりやすいからな。世渡り上手の処世術、教えてやろうか?」
「……やっぱり、ショックだったんじゃないかと思って。あんな……自分の創った理想の世界で、現実と同じ光景を目の当たりにするなんて……」
「……まあ、そうだよな」
あの日の「帰ろう」という言葉。ヒカゲは、帰宅を示唆するような発言は一度も言わなかった。アスカにしてみれば、新作ゲームの発売日は夜通しテレビ画面に張り付いていたい。でもプレイ中にストレスを感じることがあれば、電源をオフにすることだってあるだろう。あの日のヒカゲはまさにそんな感じで、まるで抜け殻のようだった。
「……よし。今日ヒカゲの家に行こう」
「本当!?」
「邪魔しちゃ悪いと思ってたけど……やっぱ心配だしな」
「あなたにも優しいところってあったのね」
「うるせーよ、つか窓閉めてくれ。寒くて死ぬ」
肌を突き刺すような冷風が、アスカの髪を掻き乱す。乱れた猫のような柔らかい髪を手ぐしで整えてながら、アスカは思った。グリモワールでの自分は、髪質も違えば顔だって違う。
あの世界は――理想郷(ユートピア)だと。自分たちの望む物を幾らでも創れるし、嫌なものは何一つ存在しない。それどころか、気に入らなければ破壊することだってできる。
だがそれは――あの異世界が現実世界とは違うと割り切ることのできるアスカの見解だった。彼は良くも悪くも現実的であり、グリモワールでの体験をゲームのように思っているのだ。
――それは……ヒカゲも一緒なのか……?
アスカは自問自答する。彼の背筋に気味の悪い悪寒が走る。
「リーナ。急ごう、ヒカゲの家に」
* * *
ヒカゲ宅の扉から迎えてくれたのは、苦笑いを浮かべたカズラだった。
「お母さんの具合はどうだ?」
「ママですか……? 特に普段通りですけど」
カズラの反応に、アスカの悪い予感は的中した。
「……ヒカゲは、ウチにいるか?」
「……お兄ちゃんは……しばらく不在です」
隠し物をする仔犬みたいに、カズラはアスカから視線を反らす。
「……どこに何しに行ってんだ、あいつ」
「わかりません。ただ、取材とか言ってました。……たまに、部屋には居るんですけど」
「お母さんは、そのこと知ってるのか?」
その一言で――カズラは瞳に大粒の涙を浮かべた。それを零さないよう必死に扉にしがみついて、そのまま動かなくなる。
「……僕、ママに嘘ついちゃいました。ママはお兄ちゃんがいつも通り家に居ると思ってます。でも……正直もう辛いです。そろそろ、バレちゃいそうです」
「……カズラ、俺たちならヒカゲを探しに行ける。だから……家に入れてくれないか」
泣きべそのカズラを連れて、彼らはヒカゲ宅へ上がった。ヒカゲの部屋に向かうと――ページが開いた状態で床に転がっているグリモアがあった。
「……ヒカゲくん、嘘をついていたのね」
「ああ、あのバカを連れ戻すぞ。……でも、その前にやらなくちゃいけねーことがある」
アスカは部屋の確認を終えると、渋るカズラを説得してリビングへと向かう。
「こんちわ」
「あら……その声はアスカ? 久しぶりね」
リビングの片隅には病室のようなベッドと、寝たきりの女性。ヒカゲの母親だった。
「急に邪魔しちゃった、元気?」
「ううん。また会えて嬉しいわ。最近は私も寝ている時間の方が長くて……こほっ、こほっ」
咳の重さが、彼女の病の重さを物語っている。アスカは拳を握りしめてから、優しく解いた。
「……そっか。実は今日もヒカゲと遊びに来たんだよ、俺と……リーナってクラスメイトと」
「あらそうなの、リーナさんもいらっしゃい。……最近あの子ってば顔も見せてくれなくてねえ……どうも小説を書いているのが楽しいみたいで。これが反抗期ってやつなのかしら」
ヒカゲの母が力無く笑った。彼女の視界にはおそらく誰も映っていない。暗闇があるだけだ。
「……はは、ヒカゲなんてずっとマシだよ。俺と比べたら」
「そんなことないわ。アスカは良い子だもの。ヒカゲよりも大人で、気配りのできる子よ」
ヒカゲの母の慈愛に満ちた笑みに、アスカの胸がぎゅっと締め付けられる。
――違うんだ。ヒカゲのお母さん……俺は、ヒカゲを見捨てるような奴だ。友達である資格すら無い、残酷で最低な奴なんだ。そして、それを打ち明けられない弱虫だ。だからヒカゲから離れたほうがいいのかもしれない。そのほうが、きっとお互い幸せなれる。でも…………、
アスカの頬には一筋の水滴が流れていた。
「……ごめん。ヒカゲのお母さん」
「…………アスカ? もしかして…………泣いているの? どうして」
「実は、さっきアイツと喧嘩しちゃって……だから、これから仲直りしに行くよ」
「……そうなの、偉いのね。アスカは昔っからヒカゲのお手本になってくれる子だったもの。ちょっとわがままなところもあるけど、優しい子よ。これからも、ヒカゲをよろしくね」
いつの話だ、それは。そう思いつつ、アスカはヒカゲの母の言葉を胸にそっとしまう。
「待っててよ。ヒカゲと一緒にまたこの部屋で叱られるくらい大笑いしてみせるからさ」
――思えば、いつの間にかヒカゲと一緒に心から笑えなくなっていた。
それは、俺にずっと後ろめたい気持ちがあるからだ。イジメられているヒカゲを見て見ぬ振りをした挙げ句に加勢して。そのくせに学外では仲良くするだなんて、虫のいい話だ。
ヒカゲは確かにイジメの話を嫌った。でも……そこで俺が引いちゃいけなかったんだ。
その代償だったんだ。俺が、ヒカゲのことを哀れみの視線で見るようになってしまったのは。
友達に資格なんて要らない。俺はあいつと一緒に居たい。俺とヒカゲは、友達なんだから。
アスカは眦を拭って、踵を返した。
「アスカさん……」カズラが不安そうな表情で、アスカを見上げる。
「カズラ、お前も良い子で待ってろよ。すぐに連れてくるから。ヒカゲのバカを」
アスカはにかっと笑って、カズラの小さな頭を撫で回した。
少年は――ようやく一つ踏み出した。自らの友と向き合うという、小さなその一歩を。
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