第8話 グリモアール、空の旅
――空を切る。強い風圧が、アスカの髪を乱暴に掻き乱した。
「う、おぉぉぉぉっ……おおっ! ……こ、怖ぇぇぇぇ!!」
水色に広がる大空を背景にアスカは涙を浮かべる。震えながらぎゅっと手綱を握った。地表から見上げたら、きっと豆粒くらいの大きさだろう。
「あら、随分と情けない声を上げるのね。男子のくせに」
風に靡くコーラルピンクの髪を耳にかけながら、リーナがふふんと勝ち誇ったように言う。
アスカたちはペンペンという空飛ぶ生き物に乗っていた。その名の通り見かけやカラーリングはペンギンに似ているが、図体がボールのようで、その巨躯の殆どが羽毛だ。見かけに反してとても軽く、スピードは出ないが風に乗ってふわふわと空を飛ぶことができる。まるで大きなバランスボールに跨がっているような感覚だった。
「アスカー! 見てみて! ほら、僕こーんなこともできちゃった!」
アスカやリーナよりもずっと上空を浮かぶヒカゲの声が聞こえる。見上げると、ヒカゲが手綱を上手に操作してペンペンを空中で旋回させていた。
こういうゲーム感覚のものは、自分が一番向いていると思っていた。しかし、メンバーの中で一番腰が引けているのはアスカであった。……悔しいと思うことはある。だが、それだけだ。アスカはすぐに諦める。見切る判断が早すぎるとも言えるのかも知れない。
「…………おい、リーナ。そんなにはしゃいでると今に落ちるぞ」
愛しの生き物に乗れたことが余程嬉しいのか、リーナは周囲の空域よりも騎乗しているペンペンに気を取られていた。ペンペンの羽毛を撫でたり、顔を近づけて匂いを嗅いだりしている。
「……は、はしゃいでなんていないわっ!」
リーナがぷいと顔を背ける。だが――身体を傾ける角度が大き過ぎた。
「……ぇ、やっ……」手綱を握ったまま、リーナはくるんと一回転。
ペンペンにぶら下がる形で、宙吊りになってしまった。
「リーナ!」
微妙な角度でペンペンの体が傾いてしまう。おまけに手綱が絡まっているせいで、ペンペンは苦しそうに「グァー! グァー!」と鳴き声を上げている。
一定を保っていた高度が、徐々に下がっていく。
「う、嘘……落ちるっ……落ちるぅ」
リーナが瞳を涙で濡らす。このまま落ちれば、間違いなく命は無いだろう。
「お、落ち着け……今、行く」
アスカの額を一筋の汗が流れた。じんわりと背中が蒸れる。
自分が助けないと――リーナが落ちる。アスカは汗ばんだ手で手綱を握りながら、慎重に彼女に近づく。空いた片方の手をリーナへと差し伸べる。
「……掴まれ」
「…………ダメ、怖いわ……落ちちゃうっ」
「何言ってんだ! 死ぬぞっ!」
「で、でもっ……」
「ほら、さっさと手出せ! 引っ張ってやるから」
リーナは、びくつく手をなんとかアスカへと伸ばす。指先が触れあって――――宙を滑る。
「もう無理っ……!」
リーナが大粒の涙を零しながら、手を引こうとしたとき――、
「……くっ!!」
アスカは引っ込むリーナの手をがっしりと掴んで、思い切り引っ張った。
リーナの身体がアスカの騎乗するペンペンへと飛び移ったことで、ふわりふわりと丸っこい巨躯が揺れる。
「絶対動くなよ」
「うんっ」
アスカはリーナの身体をぎゅっと抱きしめて、静止する。
しばらくは揺れの余波が続き――アスカとリーナは目を硬く瞑った。
「アスカッ! リーナッ!」
ヒカゲの叫び声で、二人は同時に瞼を開く。
「た、助かったのか……」
「…………あの、アスカくん」
鮮やかな桃色の細い髪が、アスカの鼻をくすぐった。鼻腔の奥に入り込んでくる花のような優しい香りは、グリモワールの空気とは違う。堅物で融通の利かないクラス委員のものだった。
「あ、悪い」
アスカは抱き寄せてしまっていたリーナから、そっと離れる。
手綱を両手で握り直して、何事も無かったかのように額に張り付いた前髪を払う。
リーナは胸に押し当てた手をぎゅっと握って、先ほどまで乗っていたペンペンの方をじっと見つめる。あちら側も体勢を立て直したのか、通常飛行に戻っていた。リーナは、少し紅潮した頬のままアスカにちらりと視線を送る。
「…………ありがとう」
「……え? 何?」
照れくさくて、アスカは聞こえないふりをした。
そんな下手くそな小芝居を見せられたリーナがくすくすと笑う。
「……ううん、なんでも無いわ」
「そしたら、もうちょっとそっちに詰めてもらえると嬉しいね。狭いもんで」
アスカとリーナの距離は、殆ど肩を密着させるような形だった。
「何よ……身体の体積的にあなたのほうがずっと場所を取ってるわ」
「なーにが体積だよ、さっきまでわんわん泣いてたくせに」
「な、泣いてなんていないわ! あなたは一体何を言ってるのかしらねっ!」
リーナが、真っ赤な頬で濡れた眦を必死に拭う。
そんなアスカとリーナのやりとりを見つめていたヒカゲが、安堵したように言う。
「でも本当によかった! あんな突発的な事故に対処するなんて、アスカ凄いじゃない!」
「たまたま運が良かっただけだろ」
「またまたそんなこと言ってー、格好良かったよアスカ。やるときはやるもんね、アスカは」
ヒカゲがニコニコした表情で、ひっきりなしに褒めてくる。
――そんなわけ、あるかよ。
アスカの本心だった。自分が人を助けるような優れた人間で無いことは良く知っている。いつだって、世間で起きる事象に流されているだけなのだから。
「ともかく一回下に降りようか。休憩にしよう」
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