第2話 アスカとリーナ


 再び本を開いたアスカたちは、もう一度『無』の世界にやって来ていた。『扉』と『本』意外には何も無い、羊皮紙色の世界に。様子は先ほど訪れたときと何も変わっていない。

 アスカはほっとした気持ちを胸に抱きながら、隣ではしゃぐヒカゲに目をやる。


「もう満足したろ。帰ろうぜ、さっさと」

「ちょっと待ってよ! まだ色々試したいことがあるんだから」

「やめろ。絶対に良くないことが起きるに決まってる。何事も平穏が一番だ」

「平気だって。いいじゃない、やるだけならタダなんだからさ」


 そう言って、ヒカゲは懐から羽根ペンを取り出した。小学生時代にアスカが誕生日プレゼントにあげた物だった。


 ――まだ持ち歩いてるのか。

 趣味で小説を書くヒカゲに渡したらきっと喜ぶだろうと思い、無理をして結構良い値のするやつを買った。ヒカゲはこれに大喜びして、その日以降片時も離したことが無かった。


「何か……書くのか」

「うん。僕の推察通りなら……」


 ヒカゲは本を開いて、『ぐりもあのでぐち』が書かれた次のページに筆を走らせる。

『広大な大地』そこには、そう書かれた。

 書き終えて数秒後、変化が生じる。なんとヒカゲの文字が金色に瞬いたのだ。


「わっ、光った」


 しかし、それ以外には何も起こらなかった。


「……え? 終わり」


 拍子抜けしたように表情を曇らせるヒカゲ。とんでもないことが起きるのではないかと気がかりだったアスカは、ヒカゲとは反対に晴れた表情である。


「ほら、もう十分だろ。これはきっとそういう玩具なんだよ。いやすげー良く出来てるとは思うけどさ。仮想空間ってやつなんだろ、きっと」

「えー、そんなわけないよ。絶対にこれは異世界へ行くための手段なんだもん」

「なんだもんじゃねーよ! お前さっき勝手に決めつけるなって俺に言ったばっかりだぞ!」


 結局アスカたちは再び扉を通って、古書店へと戻った。現世に戻ったヒカゲがアスカに最初に言った言葉は、「この本を譲って欲しい」だった。元よりこんな得体の知れない奇妙な本を購入しようなどと思ってはいなかったが、ヒカゲが手にすることにも否定的だった。しかし、喜んでいるヒカゲの顔を見ていると、無下にすることもできなかったのだ。


 だが――そう遠くない未来で、アスカはこの甘さを悔やむことになる。



 * * *



 古書店の店長に本の購入を申し出たヒカゲだったが、「こんな妙な本はうちでは取り扱っていない。売り物にすることはできないから、諦めてくれ」と言われてしまった。

 それでもヒカゲは必死にしがみつき店長を説得した。その結果、なんと無料で譲ってもらえることになったのだった。


「……へへ、やった。あそこの店長、いい人だったね」

「お前が必死過ぎるんだろうが……」


 そんな風に好きなことに熱中できるヒカゲのことを、アスカは羨ましく思うことがある。

 重い病気を患った母親を支えるために、ヒカゲは中学生にして新聞配達のアルバイトをしている。幾度となく壊され、なくされた補聴器だって、彼が稼いだ金から支払われているのだ。

 それに比べ自分はどうだろう。今まで何かをやり遂げたことが、彼にはなかった。幼い頃、親に無理矢理やらされていたピアノも、空手も、塾だって、アスカは途中で逃げ出した。唯一の趣味は小学生時代得意だったヨーヨーと、テレビゲームくらいだ。

 面倒くさがりで受け身気質。平和な暮らしを望み、変化を望まない。それがアスカだった。

 ――しかし、そんなアスカの平和な日常も、ここ最近でぐらつきが生じていた。

 ヒカゲと別れ、アスカは帰宅した。

 リビングからは、昼間っから酒を飲んだくれる父親を咎める兄の声。

 どこにでもいるような一般的な家庭に生まれたはずだった。穏やかで優しい母親と、ぶっきらぼうだが真面目な父親。勉強熱心でしっかり者の兄と、自由人だが愛嬌のある姉。

 何年も、何十年も変わらないものだと、勝手に思い込んでいた。だが、そういったものほど、途端に崩れ落ちていくものだと少年は知った。

 不貞を働いた父に母が向けた表情は、悪鬼のように恐ろしかった。そして、流れるように二人の離婚が決まったのだ。

 家では兄と父の口喧嘩が毎日のように行われ、学校では幼なじみのヒカゲが虐げられる。それどころか自分もそのイジメに加わっているという事実。アスカに直接的な被害は一切無い。しかし、どこへ行ってもアスカのストレスは日々募っていくばかりだった。

 部屋で制服を着替えながら、昼間に投げてしまったヒカゲの補聴器のことを考える。


 ――探しに、行かないと。

 ヒカゲの大変さは自分が一番知っている。大舞台に立つヒーローにはなれなくても、ヒカゲを影から支えてあげられるのは自分だけのはずだ、とアスカは思う。

 瞬間――クラス委員長のリーナが、ヒカゲを庇ったことを思い出した。


 ――俺が影からアイツを支える? ……冗談だろ。あれだけのことをしておいて、未だに友達を語ろうとする俺って一体なんなんだ? それに、何も俺だけが悪いわけじゃない。そもそもヒカゲが何も言わないのが悪い。だからイジメられるんだ。

 アスカは苛立ちながら、鞄をベッドに投げつける。


「…………クソッ」


 きっと明日、補聴器が無いことでヒカゲは新たにイジメられるだろう。


 ――本当に殺したくなるね。惨めで屑な自分自身を。



 * * *



 今日のヒカゲイジメも、相当に悲惨なものだった。

 補聴器を失ったヒカゲの左耳に突然大声を叫んだり、男子トイレに連行して和式便所の中に顔を付けさせたのだ。あくまで加害者側は口頭で『提案』するだけであり、実行したのはヒカゲ本人の意思によるものだった。

 今日もアスカは、汚水に顔をつけるヒカゲを見ていることしかできなかった。

 放課後、アスカは投げてしまった補聴器を探しに校舎裏へと来ていた。結局昨日の夜は後悔して眠れなかった。昨夜の自分に苛立ちながら、拳をぎゅっと握り込む。

 目的地に到着すると、誰かの学生鞄が放ってあるのを発見する。アスカは反射的に校舎の柱に隠れた。そっと顔を出して、鞄の持ち主を確かめる。四つん這いで茂みに顔を突っ込みながらこちらに尻を向けていたのは、綺麗な黒髪の見知った女生徒だった。


「……リーナ、どうしてお前が」


 背後から声をかける。それに驚いたリーナは、びくっと振り返ってから、そそくさと身なりを正した。眼鏡の奥の瞳が、いつもより少しだけ大きく丸っこかった。


「あ、あなたこそ……どうしてここに」

「……多分、お前と一緒だな」


 アスカがそう言うと、リーナは表情を曇らせた。


「……あなた、自分が一体何をしたのかわかってるの?」

「…………わかってる、つもりだよ」

「……友達、なのよね。あなたとヒカゲくんって」

「…………ああ」

「それ、本気で言ってるの? 笑えない冗談?」

「……どう、なんだろうな」


 彼女の平手が――アスカの頬をはたいた。


「だったら……なんでっ」


 じんじんする頬を押さえながら、感極まって瞳に涙を溜める少女を見つめる。リーナは叩いた方の手を自分の胸に押しつけて、ぎゅっと握っていた。


「なんでただ黙って見てるのよ!! それどころかイジメに加わるなんて信じられない!! みんなの言いなり! 悔しいとか、おかしいとか、そういう気持ちは無いの!?」


 アスカは何も言えなかった。ぽろぽろと眦から涙を零す少女を労ることさえ忘れて、ただ呆然としているだけだった。


「…………もういいっ」


 リーナは首を振って元の作業場に戻った。


「俺も探すよ」

「…………勝手に、したらいいじゃない」


 アスカは腰を浮かせて、リーナの隣で茂みをかき分ける。


「聞いてもいいか。なんでお前はヒカゲの補聴器を探してくれるんだ?」

「それを聞いてどうなると言うの」

「……ヒカゲのこと好きなのか?」

「あなたっておめでたいわ、そう思っていたらいいんじゃないかしら。本当に、幸せ者ね」


 リーナが皮肉たっぷりの笑みを浮かべて、アスカに軽蔑の視線を送る。


「悪かったよ。ただ気になってただけなんだ。友達でもないのに、なんであそこまでヒカゲの味方になってくれるんだろう、ってな」

「……別にヒカゲくんの味方になったつもりは無いわ。絶対におかしいと思っているから、そう主張しているだけよ。……何事も誠実に生きていかなくちゃ、人間ダメになるもの」

「……お前は、強いんだな」

「全然強くなんかないわ。あなたたちも許せないけれど、それ以上にわたしは自分が許せないの。悪とわかっていながら、規律や秩序だけでは彼を助けてあげられない現実に負けそうになってるわたし自身に。きっと、もっと強い人ならこんな現状を覆せるんでしょうけど」

「……お前以外にそんな奴がこの学校にはいるとは思えねーけどな」

「だから!! なんであなた他人事なのよ、友達があんな風にされてるっていうのに!」

「まあまあ、ちょっと落ち着いてくれって。話が巻き戻ってるから」

「まあまあじゃないわよ!!」


 再び激高したリーナが、アスカの胸ぐらを掴んだとき、


「「――あっ!」」


 ヒカゲの補聴器が見つかった。


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