異世界創世のグリモア物語 ―夢想無双クロニクル―

織星伊吹

第1章 すべてはクソみたいなこの現実から

第1話 すべてはクソみたいなこの現実から


 少年が思い、本に書き記すことで、この異世界は命を与えられる。

 少年の名はヒカゲ。この世界の小さな王であり、神に等しき存在である。


 ――今、その物語のページをめくろう。


 * * *



 ヒカゲは学校全土からイジメられている。

 現実は、いつも悲惨で陰湿で、惨い。それがヒカゲに突き付けられた現実だった。


「アスカ、次お前の番だぞ」


 悪魔の打順。来ないでくれと祈ったところで、運命はそう変わらない。

 中肉中背の少年、アスカは窓際の机で突っ伏す少年へと向かって行く。

 ヒカゲは、何かから身を守るように背を丸めていた。やせ形で小柄なうえに、幼い子供のようなくりんとした癖毛。目の周りには特徴的なそばかす。その地味な外見は見るからに気弱そうで、余計にイジメられっ子っぽく映った。

 アスカの手には輪ゴムと、技術の授業で切ったときの線くずが握られていた。

 期待の眼差しを注いでくるクラスメイト。アスカは痛む胸をぎゅっと押さえ、生唾を飲む。


「…………わかってる」


 ヒカゲには聞こえない声量で、アスカはそうぼやいた。


「あー!? 聞こえねえんだけど!? 今なんつった」


 わざとらしく大声を上げて、クラス全体に聞こえるように主犯の男子が叫ぶ。


「あぁ~そうか! お前はヒカゲのお友達で親友だもんなぁ! できるわけないよなぁ」


 男子はにやりと嗤い、寄りかかっていた机から身を離すと、アスカの肩をぐっと掴んだ。


「っていうことは……何? お前は、“ヒカゲくん側”ってこと?」


 アスカは目の前の男子をぎろりと睨み付け、心底憎む。この男子はヒカゲの前で、自分の口から言わせたいのだろう。……とある言葉を。

 男子は組んだままの腕で、そのままアスカの首をぐっと強く絞める。


「……や、やめろ…………と、友達なんかじゃ……ねーよっ」


 ――口にするたびに、何かが剥がれ落ちていくような気がする。だが連中は満足した言葉が聞けたらしく笑顔だった。絞まっていた腕が離れる。


「だろ? お前はこっち側だもんな。だったら――」


 親指をくいっとヒカゲの背中へ向ける。


「肌出てるところ狙おうぜ。首筋とか。あー……左耳にすっか。どうせなら」


 男子の嫌らしい嗤い声を背後に、アスカは輪ゴムの中央を引き――小さな弾丸を構える。


「手加減したら何度でもやらせんぞ。ガチで行け、ガチで」


 ――ヒカゲ、ごめん。

 アスカの手元から放たれた線くずが、ヒカゲの左耳たぶにバチンと命中する。


「……っ!!」


 ヒカゲは瞬時に耳たぶを抑え、身体を竦める。


「おーっ、やるじゃんアスカくん! ついでにもう一個、お前にしかできない指令があるわ」

「ふざけんな、もうこれでいいだろ」

「あいつの“アレ”をめっちゃ遠くに投げろ。いいか、二度と見つからないくらいにだぞ」

「なっ――」

「おら、早くいけコラ」


 薄汚い上履きで背中を蹴り飛ばされる。されるがままに床を滑って、アスカはヒカゲのそばで倒れた。顔を上げて、椅子に座ったまま微動だにしないヒカゲを見上げる。彼が、こちらを振り返ることはなかった。

 ――なんで、こうなってしまったんだろう。

 立ち上がって、歯茎から血が滲み出そうなくらい口を噛みしめる。

 そしてヒカゲの左耳に手を伸ばし――彼の補聴器を――寒々しい灰色の空へと放り投げた。


「ちょっと!! 何してるのよ!!」


 教室の入り口から悲鳴が響き渡った。声の主が蒼白した表情で、綺麗な黒髪を揺らしながらこちらに迫ってくる。


「信じられないっ……! ただじゃ済まないわよ、こんなこと!」


 クラス委員長リーナの言葉に、アスカは何も言い返せなかった。彼女の言うことが正しいと、心の底から思ったからだろう。


「ヒカゲくん、大丈夫? 先生を呼んでくるわ。少し待っていて」

「うるせーなぁ……委員長サマは黙ってろよ」


 グループのリーダーが冷ややかな声を挟む。


「あなたたちが罰せられて当然のことを平気で毎日やっているからじゃない!」

「何か証拠はあるんですかー?」


 ギャラリーだった女子の一人が、リーナに向けて言った。


「……そ、そんなの、この教室にいるみんなが見ていたんでしょう! 全員が証人よ!」

「わたし見てなーい」「俺もー」


 次々と声があがる。周囲を見渡すリーナに目を合わせる者は、誰一人としていなかった。


「――だってよ。大人しく黙ってろや。犯罪者の妹ちゃん」


 リーナが唇を噛む。小さな顔に良く似合う眼鏡の奥が、少しだけ揺れる。ぎゅっと握った拳をそのままに、立ちつくす。


「よーし、アスカ隊長のご命令だぞー! 全兵矢を放てー!」


 主犯格の男の叫び声に、教室中の連中がアスカと同じ矢を構える。即席で、安価で、人の心をへし折るには十分過ぎる――悪意に満ちた幼い子供の武器。醜い、悪魔の一撃。

 悪魔に囲まれたヒカゲに、全方位から一斉に矢が放たれた。痛々しい音で彼の身体に当たっては弾け、幾つもの残骸が床に散らばった。


「や、やめなさい!! あなたたちどうかしてるんじゃないの!? なんで誰も止めないのよ!」


 正義感の塊のような言葉が、教室に反響する。しかしその声は悪魔の囁きで一蹴される。


「うっせーよ、偽善者」


 心にもない言葉が、リーナの耳に劈く。両手に持ってしっかり抱きかかえていたはずの彼女の信念が、いとも簡単に砕かれてしまう。教室中に黒い嗤いが蔓延る。まるで常闇の中に溺れてしまったような、そんな気味の悪さがリーナを襲った。


「ヒカゲくん! こんなのイジメですらない! 人の尊厳を踏みにじる、れっきとした犯罪よ! だから、わたしと一緒に先生のところに行きましょう? 出るところに出て、学校がちゃんと認めて、正式に公表すれば!」


 涙目のリーナが、止んだ矢の中から強引にヒカゲの腕を掴み、席を立たせるが――。


「その通りだよ、リーナ」

「……えっ?」

「君が今言ったじゃない。イジメですらないって。何か勘違いしているみたいだけど、僕はイジメられてなんかいないよ。なんとも思ってない。だから……この手を離してくれないかな」


 ヒカゲは平然とした表情で、迷惑そうにリーナの手を振りほどいて、再び席に座り直した。


「そんな……どうして? どうしてなの……?」


 リーナがその場に崩れそうになったとき、絶望的な昼休みがようやく終了した。ヒカゲの発言に連中は声を上げて笑っていた。何が面白いのか、アスカにはさっぱりわからなかった。

 だが――と、アスカは思う。自分だってこの連中となんら変わらない。

 いや、それ以上の存在かも知れない。イジメられる幼なじみを助けもせず、見て見ぬ振りをするどころか、自分可愛さでこの悪行に荷担しているのだから。

 それはまるで――友達の仮面を被った悪魔だった。



 * * *



「そういえば、この間の小説が凄く面白かったんだよ。異世界転移物のファンタジー!」

「お前ってほんとそればっかだよな」


 にっこり笑うヒカゲに、アスカが呆れた笑みを見せる。学校では決して見せることのないヒカゲの素顔だった。そんな彼の顔を見ていると、内に蔓延る罪悪感が膨らんでいく。

 もやもやした思いを抱えながら、立ち止まる。


「…………どうしたの? アスカ」


 まるでさっきまでの痛々しい出来事がなかったことのように、ヒカゲが振り返る。

 ――さっきはごめんな。悪気はなかったんだ。補聴器は夜に学校へ行って俺が探すから。だから……それで、許してくれるか?

 アスカはすぐに我に返った。……こんなのじゃないだろ。俺が本当にしたいことは。

 ――どうしてなんだ、ヒカゲ。何故虐げられる側なんだ、お前は。

 叶うなら、他の誰かが標的にされてほしかった。アスカは自らの心に真っ黒い感情が潜んでいることを知っていた。だが、それでアスカとヒカゲは救われるのだ。

 誰でも良いから、叶えてくれないだろうか……。あくまで他人事。アスカは流されるままに生きてきた。思えば、努力というのを一度とてしたことがなかった。


「…………本屋でも寄ってくか。そのお勧めの本、教えてくれよ」

「え、読みたいなら貸すのに」

「いいんだよ、めんどくせー。行くって言ったら行くんだよ」

「そっちのほうが面倒くさくない? なんなのアスカ」


 ヒカゲは、イジメに関してとやかく言われることを嫌った。彼らが二人でいるときは、イジメのことやアスカのしてきた非行は無かったことになる。

 しかし――それはアスカにとって最も辛いことでもあったのだ。



 * * *



 黴びた本の匂いが充満する古書店に入ったアスカたちは、色とりどりに並ぶ本棚を物色する。


「たまに来るんだ、ここ。けっこう品揃えがいいんだよ」

「本なんか普段読まねーし、読みやすいやつがいいわ」

「そうだなぁ……ちょっと待っててね。絶対に面白いのを紹介したいから……うーんとねえ」


 ヒカゲが瞳をきらきらさせて、自分の世界に入ってしまう。本を読む気などさらさらなかったのだが、自分のためにそこまでしてくれるなら読んでみてもいいか、と思ったときだった。

 ふと、アスカは視界に入った本を何の気なしに掴んだ。茶色の分厚い革製のカバーには、所々金や銀の装飾が飾られている。外国などにありそうな、お洒落な装丁の書物だった。

 とても不思議な印象の古書だった。まるで、この世界に置いてあるのが間違いのような……。

 そこまで考えて、アスカは馬鹿らしくなって止めた。流石に現実味がなさ過ぎる。現実にいくら絶望してたって、彼はそこまで夢見がちな性格はしていなかった。

 隣で顎に指をやりながら黙考するヒカゲの肩を叩く。


「おいヒカゲ、これ見てみろよ」

「ん? 何、その本……格好いいね、魔導書みたい」

「中身見てみるか」


 アスカがそう言って、革のカバー表紙をめくる。

 黄色みを帯びた羊皮紙がぱらぱらと心地良い音を鳴らし――本が金色の輝きに包まれた。


「……な、なんだっ!?」

「アスカ、本がっ……本が光ってるよ!」


 二人が叫び声を上げた途端に周囲の空気が急変し、体感したことのない違和感が自分たちの身体を覆う。直後、身体が不思議なエネルギーに引き込まれていく。

 ――目を開けたら、そこはもうアスカたちの知る世界ではなかった。


「…………一体、どうなってんだ」


 何も無い。空も無ければ大地も無い。羊皮紙色の空間の中で、彼らはぷかぷかと浮いていた。


「アスカ……あれ」


 自分と同じように隣を浮遊するヒカゲが上方を指差した。

 虚無だけが広がるこの世界で、派手な装飾を飾った大きな扉だけがそこにはあった。


「なんか、見覚えあるような……あ、わかった! あの扉、この本と同じ形をしてるんだ!」


 ヒカゲが歓喜の声を上げる。視線はアスカの持つ本に注がれていた。


「そんなの今はどうだっていいだろ。俺たちが同じ夢を見てる――そっちのほうが重要だ」

「夢……なのかな」

「どう考えたってこれは夢だろ。目が覚めればさっきの古書店に戻ってるはずだ」

「…………この本の中に引きずり込まれたっていうのは?」

「……は?」アスカが、ぽかんと口を開けた。

「なあヒカゲ、もう少し現実的にだな……」

「なんで決めつけるのさ。アスカは本の中に入ったことがあるっていうの?」

「……ねーよ、お前はあるのかよ」

「無いよ。でも、想像することはできるじゃん。アスカがさっき本を開いたとき、辺りが金色に輝いたのを僕は覚えてる。僕たち以外にもいるかもしれないじゃない、こういう現象に巻き込まれたって人たちが。アスカはもっと自由な発想を持ったほうが面白いと思うよ」

「おいおい、冗談じゃねえぞ……」


 顔面蒼白になったアスカは、外に出るための手がかりを探す。しかし、自分たちと同じように宙に浮かんでいる怪しい扉以外には何も無かった。


「とりあえず、その本見せてよ」

「お前……偉く落ち着いてるよな。もっとこう……焦りとかないのかよ」

「そう? 僕はどっちかというとワクワクしてるんだけど」


 アスカから魔導書のような本を受け取ったヒカゲが、口角を上げて革のカバーをめくる。しかし、先ほどのような眩い光は発生しなかった。


「なんだよ……拍子抜けだな」

「待って、アスカ。ここ……何か書いてある」


 ヒカゲの指を追いかけて、羊皮紙の一ページ目に視線を落とす。そこには黒のインクでこう書かれていた。


『ぐりもあのでぐち』


「ぐりもあの……出口?」


 ヒカゲが読誦してから、ただならぬ存在感の扉を指差す。


「……あの扉を開けたら、古書店に戻れるって?」

「いや、わからないけどさ……やってみるしかないじゃん」


 アスカとヒカゲはぷかぷかと浮かんだまま、扉の前までやって来た。宙を泳ぐこの不思議な感覚は、宇宙空間とは異なる別次元のような気がしてならなかった。言うなれば完全なる『無』の中に、『異物』が迷い込んでしまったような。


「じゃあ……開けるぞ」


 アスカのかけ声で、大きな扉をゆっくりと開く。

 金色の輝きが――再びアスカの視界を襲った。突然のことに驚き、思わず瞼を閉じる。

 気が付くと、そこはなんの変哲も無い現世であり、先ほどまで彼らが立っていた場所だった。

 アスカは隣のヒカゲと目を合わせる。


「……覚えてるか?」

「やっぱりこの本……あの世界と繋がってるんだよ!!」


 ヒカゲが、ぱあっと明るい顔で頻りにうんうんと頷く。こんなことはあり得ない。そう否定したかったアスカだったが、実際に体験してしまったからには彼も言い返せなかった。


「ちょっと待って、もう一回開いてもいい?」

「おい勘弁しろよ! もうこりごりだぞ、さっきみたいのは」

「平気だってば。またあの扉を開ければこっちに帰って来られるんだから」

「次行ったときに扉が無かったら、どうするんだ」

「……そのときは、そのとき」

 楽しそうに笑みを浮かべたヒカゲと、学校での無表情なヒカゲが、アスカの頭の中で重なる。

「……クソッ、めんどくせーな」


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