時計
直き夜になる。腰を据えたわけでもないに、長居の遠慮が勝ってきた。息を潜めぬ針の、極に撓めた螺子を一ト思いにうんと伸す一刻がひどく間遠い。急に心細くなって、早々に出でなんとする。
「暮れ時にお邪魔しました−−このストールを、いただけますか」
アレと思う間に口が吐いた。此方の戸惑いを気遣うでもなく老主人は只白髪を少し肯いて、隠しを解いた枯枝の両手で襟巻を摘み、わたしに差し出した。
「これは良いものです。お代は結構。又来ていただければ」
流石に慌てた。この人里離れた山家のような佇いに、相応の料で以て平にせねば据わりの悪い。等価を当然とする時勢柄、何より後腐れが恐れられた。
「え……そんな、きちんと買います」
「いえ、要り用とてないのですから」
洋燈の色彩は今や天井に動いた。不思議な言い条も木彫りに刻み込んだ翁面は漆に固めて頑と変わらず、わたしも根負けして有難く拝受することにした。
「ありがとうございます……では、お言葉に甘えて」
面は礼を受けてふたたび照りへと戻された。黒猫は闇へ溶けた。案外堅い力で手渡しながら、老主人は今一度愛おしそうに襟巻を撫でた。指先の風に絹は元のあるじを慕って揺れた。
「また入らっしゃい」
入る一歩は重く、出る一投足は軽い。外界は長針の五を六へ落ちる程も進まずそこに待っていた。
店主 三雲屋緞子 @mikumoyamikumo
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