ラストメッセージ

紫 繭

ラストメッセージ

 少女が一人、佇んでいる。

 ポツンと生えた一本の樹。しっかりとした、とは言いがたいが、決して弱々しくもない、枝の少ない樹だ。

 あたり一帯は砂に覆い尽くされている。生命の気配はどこにもない。その樹の周りにのみ、微かな命たちの拠り所が残されているようだった。

 少女が本を開く。

 それはこの世界の歴史を綴る本であった。

 誰に聞かせるわけでもなく、彼女は呟いた。

「大昔、オオカミが生息していたというその時代から、人類の滅亡を辿る運命は始まった」

 言葉を発すると、喉の奥が焼けるような熱さに蝕まれる。それでも少女は呟く。

 ゆっくりと座り込む。きめの細かい砂粒が、少女の足を包み込む。樹の根元に腰を下ろした少女は再び本に目を落とす。

「当時、人々の殺戮によって、オオカミは絶滅に追いやられた。オオカミたちは家畜を襲う厄獣として、人々に忌避され、駆逐の対象となっていた」

 太陽は煌々と大地を照らし、砂地を鮮やかな赤い色に薄く輝かせている。

一匹のカゲロウが少女の周りを軽やかに羽ばたく。少女は手近にあった木の枝を地面に突き刺した。程なくして、カゲロウがその枝の先端に止まった。

 みんな、日陰を欲している。

 少女はよく、この木の木陰を利用していたからよくわかる。何も遮蔽物のないこの砂漠にある一本の樹。

 まるでオアシスかのように、この樹は振る舞っている。この孤高の一本の樹は、どの生き物にも平等に安らぎを与えている。

「やがて、大陸中からオオカミは一匹残らずいなくなった。それから世界は均衡を崩し始める。オオカミという種は家畜のみを襲い生きながらえていたわけではない。森林に多く生息していた他の野生動物たち、野ウサギやシカ、キツネなどの動物たちも喰っていた。それらの天敵が殲滅された当時、草食動物は爆発的に繁殖した」

 風が吹いた。少女の肩で切り揃えられた特徴的な茶髪がたなびく。カゲロウが慌てたように枝の近くを舞った。

 ちらりとそちらを一瞥してから、少女は再び視線を本に落とす。

「オオカミが絶滅したその当時は、恐るべき速度でありとあらゆる植物を喰らい尽くした。木の実はもちろんのこと、樹皮や木の根。果ては人間の育てた野菜なども次第に野生動物たちの食料として襲われるようになった」

 カゲロウが再び枝に止まった。

 いつまでここにいるのだろう。

 あるいは、どこにも行くところがないのかもしれない。

「人類も抵抗しなかった訳ではない。人類は強力な武器である銃や罠を駆使し、新たに害獣としたそれらの草食動物たちを殺していくのであった」

 日が傾き始めていた。西日が少女の銀色の瞳を差す。より一層深まる朱色の砂。

空が燈色に染まり始めている。雲ひとつない青空との境界線が曖昧にぼやける。

 もう少しで夜が始まる。

「世界には修正作用が存在する。万物があるべきようにあるために、あるべき姿でなくなった時にあるべき姿に戻す力のことだ。それはあらゆるものに働く。それは、自然界にも存在する。それは、食物連鎖のピラミッドとして教えられる。ピラミッドの例えは自分より下層の生物を喰らいつくすと、生存が不可能になることを示唆している。それは、結果的にピラミッド上層の生物も減少し、元の均衡を保つようになるというものである」

 少女は本に栞を挟み込む。一度本を傍らに置き、地平線に沈みゆく太陽を見つめた。

 砂でできた小高い丘は影を生み出している。まるで、暑いだけでは無いのだというようだ。

 ゆっくりと、時間をかけて、夕日が大地に姿をうずめていく。それに伴って、紫がかった空は群青色に変わってゆく。

 やがて一片の光の筋が丘と丘の間から零れて、消えていく。空は黒に染まりきった。

 少女は静かに、それでもしたたかな声で口ずさむ。

「修正作用には限界が存在した。昔の技術で形状記憶合金という産物がある。それは、原子の配列を変えないまま変形させることで、熱を再度加えることにより、原子の配列に従って、元の形の戻るという代物である。一見、壊れないようにも思われる形状記憶合金だが、限界が存在する。度を越えた衝撃や小さな衝撃の蓄積によって、形状記憶合金ですら原子配列が切れ、壊れるに至ることがある。このように、いかなるものにも働く修正作用には限界があった。自然界の修正作用の限界。それは絶滅であった。オオカミの絶滅を皮切りに、世界では均衡が崩れ始めた」

 やがて、星空が綺麗に見えるようになる。黒いキャンバスに白の絵の具をまき散らしたように、無意味にも思える大小さまざまな星々。わずかに異なる色や輝きを見つめながら、少女は再び本に目を落とした。

 月明かりと星明かりが手元の文字を照らす。年季を感じさせる黄ばんだ紙に、掠れた文字。

 不思議とそれは綺麗な文字のように、少女の目に映った。

「一度崩れた均衡は留まらない。やがて草食動物は大きく数を増やすかに思えたが、人間が草食動物を駆逐していった。言うまでもなく、人類の食料である農作物の被害を抑えるためである。すると、今度はピラミッド内の更に下に位置する第一次生産者、虫たちが増加の一途を辿った。人間は理由を探ることなく、害虫とし駆逐の対象とした。このような行為を繰り返すことで、生命体の母数は大きく数を減らしていった。一方で、人類は数を減らすことなく、子孫を繁栄させていくこととなる」

 少女は立ち上がった。脚についた砂を軽く手で払う。少女は近くの家屋の中に入っていった。それでも尚、本を読むことを止めない。

 カゲロウは未だ枝の先で休んでいる。身じろぎ一つせず佇んでいる。

 星がわずかに揺らいだ。

「生きていく上でも、食料の減少が目下のところの課題だった。数を減らした動物を食べることは難しく、植物食が中心となっていった。たんぱく源を失った人類は大きく数を減らす。人類同士の食料の供給源を略奪する戦争にも発展した。それに伴って、人類も衰退の一途を辿っていった。集落同士の溝は深まり、少数の村落が点在する形になっていった」

 しばらくして、家屋の中から少女は顔を出した。本を持つ手とは反対の手にはランプが握られていて、その腕には柔らかそうな毛布を抱えている。

 やがて少女は元居た位置に再び腰かけた。今度は毛布を膝のあたりに掛けている。

 ランプに火を灯した。少女の瞳に映る炎はゆらゆらと揺れて、暖かく周囲を照らしている。

「追い打ちをかけるように、起きた未曽有の干ばつ。それが人類にとって致命傷となる。人々は飢え死に、息絶え、数を減らしていく。植生は大きく変化し陸上の七割を超える面積が、長い時間をかけて砂漠化していった」

 少女は一呼吸置く。

「この地も例に違わず、砂漠化した土地の一つだ。かつては植物が生育していた。しかし、長期的な干ばつはみるみるうちに、生命の息吹を殺していった。海の水は干上がり、海に浸かっていた岩場が露わになり、生命の気配は息をひそめていく。おそらく、どの生き物もこの逃れようのない現実に悲観し、諦観している」

 少女はそこまで読み上げて、ランプの灯火を緩める。それに伴って明かりの明度は落ちていく。

 澄んだ空の中で。暗い夜の中で星々が不規則であるのが美しいとでも言うように輝いている。

 大きな三日月と、小高い丘と、一面の砂と。

 そして少女と一本の樹。

 これだけが世界だった。

 少女はゆっくりと目を閉じる。

 風が吹きつける。髪が揺れて視界に映る。

 少女は思わず髪を抑えた。

「地球という大きな生命の集合体は、間もなく終焉を迎える。私の属するこの民族は恐らく、発展することを望んでいない。綿毛の様に風に身を任せている。そうであることを望んでいる。そうして私たちの民族は滅びていく。けれど、それでもいい。私がもしも、最後の一人になったのなら、どのような最後を夢想するだろうか」

 少女は背中を樹に預けた。

 次第にまどろんでいく。

 最早、少女は呟かない。少女の脳裏を文字が駆け巡る。

 風が吹くと同時に本のページがはためいた。

 それを目で追う者はいない。

 やがて、ページの捲りが止まる。それは白紙だった。

 枝の先のカゲロウは、抜け殻になってしまったようだった。




 そして。















 そして、世界は沈黙する――。













 少女が目を醒ました。

既に日は昇り、昨日と変わらず砂漠を照らしている。

 一本の樹にもたれかかっていた少女は、柔らかく灯っているランプに手を伸ばし、火を消した。

 少女の足下を蟻の行列が道筋を作っている。それは少女の手元、昨日刺した枝のところまで伸びている。

 カゲロウは無残な姿になっていた。

 その小さな体躯は所々ちぎれ、透明の薄羽は蟻が運んでいるところだった。こんな世界でも生命は営まれている。

 少女はここで初めて、嗤った。

 自嘲とも、侮蔑ともとれる歪んだ笑みだ。純真無垢かに見えたその横顔は陰を帯びていた。

 手元にある本に手を伸ばした。白紙のページが陽光に照らされている。

 ペンを手に取り、文章をしたためる。手が紙に当たり、ページの温もりを感じた。そう長くはない文章を書き終えて、少女は見つめた。

 そろそろインクは乾いただろうか。

 そう思い、本を閉じた。

 カゲロウの姿は形骸化していた。群がっている蟻たちの数も減っている。

 少女は立ち上がり、家屋の中へと姿を消した。

 ランプと本は置き去りにされていた。



 幾度となく風が吹く。

 その度にページが捲れ、この世界の歴史が浮かび上がる。



 風に吹かれて砂が舞い上がる。

 ランプの表面には砂が当たり、次第に傷つき曇っていく。



 樹がわずかに枝葉を伸ばす。

 影法師が形を変え、生命の安らぎとなり続ける。



 繰り返す。

 気の遠くなるような歳月をかけて、同じことを繰り返す。



 やがて、一本の樹が枯れた。

 影は小さくなり、根は機能を失い、砂に埋もれていく。



 砂山のてっぺんから、一冊の本が覗いている。日に当たり続け、紙がぼろぼろになり、インクで綴られた文字は掠れ、無残な姿に成り果てている。



 どこにも生命の気配は居なくなった。

 それでも、歴史は綴られていく。

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