対象→薄河冥奈の場合【裏】(1)

 のちに知ったことだが、あたしの父親はそこまで不真面目な人間では無かったらしい。



 ただし、怒ったならばちょっぴり乱暴になるというだけで。



 とはいっても酒に酔った勢いでお母さんに暴力を二度も振るったのは事実だったし、何よりそれを娘であるあたしに見せようとせず――ひた隠しにしてきた事がかんさわったのも、また事実だ。



「あの人はね、少し癇癪かんしゃく持ちなだけなの。だからメイちゃんが心配することなんて、なんにもないのよ」



 青あざをさすりつつお母さんはそう言って、しばしばあたしを安心させようとしていた。



 あと三年もすれば40歳に差し掛かる年齢にもかかわらず、どこをどうとっても20代後半にしかみえない美貌びぼうを、その陰のかかった笑顔が余計に引き立てていたのが皮肉だったと記憶している。



 薄幸はっこうながらも温かく優しい、あたしの大切なお母さん。




(これ以上、無理をさせちゃあ駄目だ)




 あたしは決意した。愛情や好意を寄せてこない相手をどうにかするのは、いささか気が進まなかったとはいえ、行動を起こすことにした。



 暫くしてから、あたしの父親は不慮の交通事故に遭って亡くなった。



 もう暴力を振るう相手がいなくなったというのに、お母さんはとても悲しんでいた。これはあたしにとって意外だった。



「ハルヒコさん……うぅ……なんで……どうしてよ……」



 しとどに涙を流し、夜な夜な嗚咽おえつを漏らすお母さんを眺めながら、あたしは幸と不幸が入り混じったような感覚に辟易へきえきしていた。



(どうしてよ、って。こっちのセリフなんだけど。折角お母さんを虐める奴が居なくなっただけなのに、なんで喜ばないのよ)



 そんな生活が1年ほど続いた後に、あたしは小学校から中学校に進学していた。



 故人となった父親の保険金が入ったものの、我が家は裕福からは程遠かったといえる。



 なぜならば二人目の夫の死から立ち直ったお母さんは、彼が暴君へと変質する引き金トリガーであったむべき酒におぼれるようになってしまっていたからだ。



 当初はパートで働いていたがいつの間にか辞めてしまい、酒の飲める相手を目当てに、お母さんは夜の街へと繰り出す頻度がどんどん増えていった。



 あたしは一人で過ごすようになり、やがては冷めた夕食すら出てこない日常の真っ只中に放り出されてしまっていた。



 当初の予定から大きく乖離かいりしている現状に、あたしは歯みする。




 違う、そうじゃあない。




 あたしが望んでいたのは“これ”じゃあない。




 そんな中、明け方近くにお母さんが帰宅してきたある日のことである。



 珍しくその日は、ゆきずりの男も連れてきていなかった。



 それらが交わる雑音を耳にしたくなかったので、いつもならば外へ散歩に行くのだが、この日に限っては、その必要はなかった。




「アンタにはねぇ、お兄ちゃんがいるんだよ」




 そう、唐突とうとつに。



 アルコールの匂いを口から漏らしながら、お母さんはあたしに向かって喋り出した。




「アレは本当に出来損ないだったわ。アンタと違って頭も悪いし、いつも家の中に引きもってマンガやらアニメやらをジーーッと観ているの。折角お腹を痛めて産んであげたのに……ったく、メイちゃんが出来なかったら、勢いあまって殺しちゃってたかもしれないねぇ」




 頬杖ほおづえをつきながら憎々しげに吐き出すお母さん。



 ……ていうかお兄ちゃんって言ったの?



 お母さんが最初に離婚したのはあたしが小学校4年生の頃だったし、思い出す限り兄の姿が自宅にあった記憶は無いのだけれども。



 あたしの戸惑いをよそに、お母さんの語りは一向に止まらない。



「それはそれは不細工な子でねぇ。前の前のダーリンがそこまで格好良くはなかった所為せいかもね。まぁ見えるに堪えない位に醜すぎたから、二階の角部屋にずーっと軟禁なんきんしていたの。メイちゃんが知らなかったのも当然かしら」



 いや、待ってよお母さん。人間一人を十年以上もずっと部屋の中に閉じ込めるなんて、それ正気の沙汰?



 ご飯は? それにお風呂は? 何よりもトイレとかはどうしていたの?



「きっちりしつけたからさ。どうしていたか聞きたい?」



 無言によって訪れる、しばしの静寂せいじゃく



 沈黙は肯定の意だと受け取ったのか、お母さんは頼んでもいないのに勝手に説明を始めていた。




「~~~……~~~…………~~~~………………」




 理解するにおぞましい内容だった。



 あたしは途中から思考するという行為を放棄して、得意げなお母さんの顔だけをじっと見ていた。



―|―|―|―|―|―|―|―|―|―|―|―|―|―|―|―|―|―|―


 自分には腹違いの兄がいることを知った時からちょうど3年の月日が経った今日、あたしはお母さんが入院している病室へと訪れていた。



 仕切られていたブラインドを勢いよく開け放ち、左手で頭をぽんぽんと叩いてから、あたしはお母さんへと声を掛ける。



「ただいまーお母さんー……って、まーたお見舞いの果物に手をつけていないの。も~! 早く良くなる為にもちゃんと食べなきゃ駄目じゃない」



 お母さんはうっすらと笑みを浮かべたまま半目を開けてじっとたたずんでいる。



「しょうがないなぁ、あたしがいてあげるよ。あ、このなしったら腐りかけじゃん。んー……でもその辺が一番美味しくなるって言うし、勿体無いから食べちゃおっか」



 れ過ぎて実がぐずぐずになったライムグリーン色の梨を、果物ナイフで丁寧ていねいに皮をいていく。



「そーいえばねぇ、これは報告なんだけどさ。最近あたしってば超エキサイティングな事件っていうかゲームに巻き込まれ気味? なの。それこそマンガやアニメみたいでねぇ、負けたら爆死しちゃうんだよー。怖いよねー」



 お母さんはうっすらと笑みを浮かべたまま半目を開けてじっと佇んでいる。



「それとねー。ゲームがはじまる前にだけど、あたしのおにいちゃんに会ってきたんだ。お母さんが散々格好悪いっていうから超キョドりながら向かったんだけど、全然違ったから焦ったよ~。ていうかめっちゃタイプだったし、血縁じゃなけりゃあ100%お嫁さんになってたってば」



 汁でべちゃべちゃになった果肉を、無造作にお母さんの口元へと運んでいく。



「おにいちゃんもあたしの事すっごい気に入ってくれてー。んで、趣味がアイドルグループの応援みたいだったから、もっと喜ばせようと思ってあたしもそこに入団したんだよ。知ってる?“∀κ♭4,800”ってアイドルグループ。序列的にはまだ上から4番目の“名探偵クラキ”なんだけどさぁ、もうちょっと頑張ればすぐにでもセンターに上がれる気がするんだよね。お母さんに似てあたしってば、美人の部類に入るんだし」



 お母さんはうっすらと笑みを浮かべたまま半目を開けてじっと佇んでいる。



「でももう頑張る必要も無いのかも。だってんだし。それを知って一瞬ね、あたしってば自殺しようかなぁって思っちゃった。けど、駄目だよね。折角お母さんが授けてくれた命なんだもん。無為にするのは良くないよね」



 押し付けた腐りかけの梨は彼女の唇にさえぎられて、垂れた汁が純白のシーツにこぼれ落ちて、にじみながらいびつに広がっていく。



「だからね、あたしはおにいちゃんの仇を取ることにしたっ! お兄ちゃんを負かしたあの大きいお姉さんを、今度は逆にあたしが負かすの! ついでに仲良くしている南波みなみ君も片付けるかどうかは悩み中~。それを邪魔してくる奴らは問答無用で排除するけどねっ」



 お母さんはうっすらと笑みを浮かべたまま半目を開けてじっと佇んでいる。



「このゲームは負ける=死んじゃうだからさ、もうまどろっこしい方法をとらなくてもいいんだよ。だからすっごい気が楽なのあたし! 何回か経験してもホラ、やっぱり躊躇ためらっちゃうし」



 やや形を崩しながらも切り分け終わった果物は、全てお母さんに食べさせてあげる事が出来なかった。



 糸を引いている黄緑色のよだれが、西日を受けてキラキラと輝く。



「さて。じゃあそろそろ帰るね。あたしが次に来る時には、しっかりフルーツ食べとくんだよ? 残しちゃってたら嫌だよ?」



 お母さんはうっすらと笑みを浮かべたまま半目を開けてじっと佇んでいる。




 たなに置いた学生鞄カバンを持ち、あたしはお母さんの病室から退出した。




 それと同時に、後方からきぬを引き裂いたような絶叫が聴こえて来た。




 廊下の突き当たり角から、担当医らしき中年男性が、聴診器ちょうしんきやら注射器やらがった銀の台座を押しながら駆けてくる。



「あぁ、娘さんかね。どうやらまた発作が始まったようで。おかしいな、最近はかなり落ち着いていたのにどうして突然・・・・・・」



「さぁ。何か嫌な事でもあったんじゃないですかね。ともかく、母をよろしく頼みますよ」



 自然ににやけてしまう口元を手で押さえながら、あたしはその場からそそくさと立ち去ることにする。




(この固有能力ってば結構便利なのね)




 ほんの少し釣り上がった口角が見られていないがちょっとだけ不安だったけど、白衣の姿は病室内へと姿を消していた。



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