第17話 フレイディア死す
目的の泉は、地上であれば観光資源になりそうなぐらいには綺麗であった。
青く澄んだ水面には、門からの魔力光が揺れながら照り返し。
畔にはこの層にしては珍しい、緑溢れる木々、色とりどり花々。
先程の虐殺の光景がなければ、ヨハンも素直に感嘆を漏らしていただろう。
「ああ、生き返るってもんだな! 一働きした後にこの冷たい水は格別ってな!」
「…………」
「お、なんだ? あれっぽっち歩いたくらいで疲れちまったか? お前のツレは平気な顔して作業してんのに、鍛え方が足りないんじゃないのか? ほれ、水でも飲めよ。それとも腹減ったか? 闇蜥蜴の薫製肉なら分けてもいいぜ」
この場所に辿り着いてから三十分、目当ての薬草を見つけ作業に取りかかったフレイディアの邪魔をしないよう男二人は離れた場所で休憩をしていた。
(ははん? この坊ちゃんには刺激が強かったか?)
喉の乾き以外は平常通りの平九郎と違って、ヨハンは合流した時より黙りだ。
見立てでは、皆殺しにした事に葛藤しているようだが。
己の手を汚した事で無し、そんな事で悩んでいるようでは地上に戻った所でこの先危ういという所である。
(しっかし、まだ回復しねぇのな。――おい、七番。ナマクラよう、何か言ったらどうだい? …………まだ駄目か)
こんな時、何時もなら合いの手を入れてくれる妻の声が無いというは、実に実に寂しいものである。
仕方なしにフレイディアの様子を伺うが、もう少し時間がかかりそうだ。
故に平九郎は七番を大事そうに抱え、その場で寝ころび瞼を伏せた。
俗に言う昼寝である。
(果報は寝て待てってな。――嗚呼、血が足りねぇ。やっぱ魔法使いとか神官じゃねぇと、効率悪いよなぁ。………………斬る、か? いやでもなぁ、那凪がなぁ、殺した方が後腐れ無いと思うんだがなぁ)
彼らを見逃すという妻の情けは汲みたい。
妻の命を繋ぐには、この分だと街に戻ってもう一人ぐらいは殺す必要がありそうだが、過去の経験からして数日は猶予があるだろう。
(まぁ止しておくか、調子の戻ったコイツなら面白そうだが、今のままじゃあ只の雑魚に過ぎん)
とはいえ、死なないくらいに血を頂戴するのはアリだろうか。等と考え始めた時だった。
ぽつりと、独り言のようにヨハンが言の葉を紡ぎ始める。
「知っては居たんです、父の仕事の事を」
返答を求められているのだろうか、だが暇つぶしにはなるだろうと瞼を薄く開け合いの手を入れる。
「嫌いかい、親父さんの事が」
「ええ、父は最低の人物でした。重い税で民を虐げ、その金で美術品を買いあさり、女を侍らせ、弱いくせに己を鍛える事なく、得体の知れないゴロツキに武器を持たせて――」
「ははっ、また随分と不満タラタラじゃねぇか」
「当たり前だっ! 貴族は民を守る事こそ使命! 贅沢をする事じゃないっ! 武器を与えるのはいいっ! だが何故それを兵に与えないっ!」
若き騎士の言っている事は道理ではある。
だがそんなもの、夢物語でしかない。
――大陸全土を巻き込む戦争があった、それは平九郎が生まれる前、祖父の時代の事だ。
異世界から飛来した邪神との戦争は熾烈を極め、終わった頃には全てが疲弊していた。
村では畑を耕す男は大勢失われ、土地は枯れた。
町では物資が何もかも不足し、貴族さえ飢えに苦しんだ。
王が助ける筈もない、何故ならば彼らも同じ状況だったからだ。
神が助ける筈もない、かの至高の存在も戦争で数多く倒れた。
そんな中、世界に復興の芽をもたらしたのが迷宮でる。
そんな中、唯一裕福に暮らしていた存在が居る。
邪神戦争の折り、人にも邪神にも組みさず両方を相手取って殴り倒した奴ら。
それが悪党、戦争前からレイドリアに陣取り暗躍していた奴らだ。
「――綺麗に生きるには、時代が悪かったのさ。ま、戦争後に生まれた俺達が言う事じゃないがね」
「それでもっ! それでも理想を追い求めるものですっ!」
「お前の言う民が飢えて苦しんでもか?」
「それは…………、卑怯ですよ平九郎さん」
ヨハンの父は、そうした流れの中でゴルデス商会の傘下に入った貴族の一人だ。
彼らの領地は、治安の悪化があったものの今ではその国有数の裕福な大領地である。
聖騎士は暫く黙り込んだ後、悔しそうに拳を震わせた。
「……王子が、王子が無事でさえいれば」
「だがその王子は病気に犯されて死にかけてる、――もうすぐ死ぬ人間に何が出来る?」
「王子は死なないっ! 絶対に、僕が。フレイディアが助けてみせる」
(はぁん……?)
ヨハンの輝く瞳には、希望の他に悲しみと怒りが混じっている様な気がした。
もしかすると、このお坊ちゃんは彼女のした事を知っているのだろうか。
(となると、評価を一つ改めなきゃあいけねぇな)
ならば聞かなければなるまい、彼女への想いを。
「なぁおい、お前さんは知ってるのか? あの女の事を」
「…………それも、知っていますよ平九郎さん」
「本当にか? アイツはお前さんの大嫌いな――」
「――父と同じ、組織の人間」
ほう、と平九郎は口元を歪めた。
中々大して見所のありそうな若者である。
「それでも、それでも僕は彼女を愛してしまったんです。だからこそフレイディアも全てを話してくれた」
「全てを?」
「ええ、彼女の組織の事、表向きじゃない普段の仕事の事、……彼女が、王子にした事」
「間違いを犯した彼女を、お前さんは処罰しないのかい? 聖騎士さんよ」
人斬りの言葉に、若者はきっぱりと答えた。
「彼女の罪は僕の罪、全てが終わった後で王子が裁いてくださるだろう。――平九郎さん、貴男も気づいているだろうが僕もまた王子と同じ病に犯されている。けれどそれは、僕自身が望んで彼女にして貰ったものなんだ」
「ははっ、お前も親父と同じく悪人じゃねぇか。フレイディアを組織から裏切らせる為、自らを犠牲にしたか。……くぅ~~、泣かせる話だねぇ、麗しい愛ってやつだ」
「そうですね、彼女の愛を天秤にかけた。僕の最大の罪はそれだ。いつか、その報いを受ける時がくるのでしょう」
さっぱりとしたヨハンの言葉に、平九郎の心はささくれ立った。
まったくもって気にくわない、今すぐぶち殺したい気分だ。
(それはなぁ、悪手だよヨハン。フレイディアと幸せになりたいなら、愛しているなら問答無用で連れ去ってどこか遠くに行くべきだったのさ……)
彼らはきっと、平九郎と那凪が選んだかもしれない道の一つ。
宿命と責任を、愛を貫こうとする過酷な道。
――逃げ出した二人には、選べなかった愛と誇りに殉じる死への道。
(喉が、やけに乾きやがる――――…………)
これ以上、この若者の言葉を聞きたくない。
己の過ちを突きつけられている様な気がする。
勿論、ヨハンと平九郎は何もかもが違う、フレイディアと那凪もまた。
だが、だが、だが。
(血が欲しい)
本当に、彼らはこのレイドリアに来るべきじゃなかったのだ。
ここは悪党の街、正義や上の法律など何の役にも立たない掃き溜め。
彼らの様な、愛を希望を秘めた者など利用されて、更なる悪徳へと利用されるのがオチだ。
――現に、そうなっている。
(殺すべきか、殺さずに済ますか、ああ、それが問題だ)
それは、平九郎の人の部分が訴える情け。
薬を作って最中の今なら、現在の悪人が蔓延る世界にとっては少しばかりマシな結果になるだろう。
天秤が傾こうとしたその瞬間だった。
「出来たわっ! 薬が出来たっ!」
「何っ!? 本当かフレイディア!! 行きましょう平九郎さんっ!」
「…………あいよ」
どうやら決断が少し遅かったようだ。
人斬りはむくりと起きあがると、無精髭を撫でながら歩き出す。
(……俺はまた、遅かったか)
こうなれば、那凪が意識を取り戻さない以上成り行きに任せるまでだ。
怠そうに歩き、彼女の所に着くや否や希望に満ちた声が響いた。
「見て、これがかの万能の霊薬に匹敵する薬。道を極めた薬師が一生に一度しか作れない、薬神ドロゥガーの恵み…………」
それは小さな小瓶に入った、月のように輝く黄金色の液体だった。
もしこれが万能の霊薬に匹敵すると言うなら、是が非でも手に入れたい者は幾らでもいるだろう。
(資料によるとだ、本来は月明かりの下で十年育った薬草が必要、そして太陽の光入らぬ場所の清らかな湧き水…………、成る程、うってつけの条件って事か。なら無理してでも来るわなぁ)
資料を作った者の私見では、眉唾な伝説だと片づけられていたが。
恐らくそれ故に、この薬の確保が絶対では無かったのだろうが。
(これを知りゃあ、薬師の価値は高まるってものか)
ゴルデス商会の次期当主サラにとっては、フレイディアの腕前を失う事とこの事実が差し引きゼロどころか。
大きな利益を産む金の卵という所なのだろう。
「これで、王子は助かる――」
「いいえ、それだけじゃないわっ! 王子の病なんてこの一滴で治るっ、なら勿論貴男の分だってあるって事よっ! 治るのよヨハンっ! 貴男も、生きられるのよ…………」
「ありがとう、ありがとうフレイディア」
感極まって泣き出した彼女を、ヨハンは優しく抱きしめる。
その姿に、――酷く、酷く喉が乾いた。
それだけではない、どこか思考がグラついて、視界が回っているような気分だ。
己の不調を顔に出さず平然と佇む平九郎に、愛に満ちた二人は願い出る。
それは、愛する恋人達なら当然行き着く願いであり。
「平九郎さん、少し頼みたい事があるんです。見届けて、認めると言ってくださるだけでいい」
「私達は決めていたのです、この薬が完成したら結ばれようって……」
「ああ? 俺に真実の愛を誓う神官の役をやれってか? また古風な事を知っているなぁ」
真実の愛とは、現在の結婚式で誓う愛の前身の様なものだ。
夫婦神である、婚姻の神ヒエロゥと真実の神ガミーと誓う聖なる約束。
文字通り、死を二人が分かつまで。
どの様な状況でも不貞、心変わり、離婚は認められず。
その代わり、強大な祝福を与えられる。
自由な恋愛や結婚の風潮が一世を風靡している今では、殆どの者に忘れ去られた黴臭い儀式。
平九郎がそれを知っていたのは、何のことはない、彼もまたそれを行った者の一人だからだ。
…………那凪が騙し討ちで行った上に、妨害が入り成立しなかったという経緯はあるが。
(ったくよぅ、暢気な奴らだぜ。あー、喉が乾いた。水飲んでも収まらねぇんだもなぁ……)
渋面だがしっかりと頷いた人斬りに、彼らは深々と頭を下げて。
そして儀式が始まる。
「僕、ヨハン・ハインデルは婚姻の神ヒエロゥに誓う――」
「薬神ドロゥガーの忠実なる信徒であるフレイディアが、真実の神ガミーに誓う――」
「この俺、平九郎が二人の愛の誓いを見届けよう」
二人は永久の愛を誓い、短剣で親指を切ってお互いの傷口を合わせて祈り。
空のない迷宮の天から、穏やかで優しい一条の白き光が彼らを照らして。
――――瞬間、平九郎の視界が真っ赤に染まった。
(血が、血が欲しいの平九郎。嗚呼、嗚呼、苦しい、苦しいわ平九郎、血が、血が――――…………)
ドクンと心臓が跳ねる、本能が血への渇望で浸食される。
立っていられない程に目眩がする、上と下の感覚が曖昧だ。
咄嗟に握りしめた手は右なのか左なのか。
この手の妖刀の柄の感触は夢か幻か。
(―――る、……斬る、斬る、斬る、――殺す)
その現象に、平九郎は歓喜した。
ああそうだ、天秤は他ならぬ最愛の妻の手で傾けられ地に着いた。
命を紡げと、平九郎が人斬りに困らぬこの街に来た理由を思い出させた。
だから。
「――――ぇ、ぁ……――?」
「…………フレイディア?」
「言っただろう、俺は悪党だって」
ヨハンの見たものは、フレイディアの心臓を突き破る刀の切っ先であった。
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