第15話 ハイエルフの娼婦クレア
――酷い渇きで、目が覚めた。
「…………ぅ……ぁ……」
灯が入らぬよう閉めきられた室内に、掠れた声が微かに響く。
平九郎は焦る気持ちを押さえて、音を立てずにそっとベッドから抜け出した。
少し離れた机の上の水差しをから、直接口を付けて喉を潤すが、まだ強い衝動が襲う。
(水じゃねぇ……何か違う…………血?)
はあはあ、と息を荒げる平九郎はそこで、やっと気づいた。
(――違う)
那凪。
水差しを元に戻し、ベッドに戻る。
平九郎と彼女は、繋がっているのだ。
それは、夫と妻という言葉では無く、もっと業の深い、罪とも禁忌とも呼ぶべき忌むモノ。
――死者の蘇生。
嘗て、平九郎によって殺された那凪は。
平九郎の願いと、妖刀“七番”の力で復活を果たした。
本来、魔法や神の力であっても、死体を操れても、その魂までは引き戻す事は出来ない。
それは絶対の法則であった。あったのだ。
真か偽りか、蘇りを果たした那凪は、その生命の維持に他者の生き血を必要としている。
そして今、その餓えが乾きとなって平九郎を襲っていた。
「……ん」
平九郎の視線を感じてか、那凪が一瞬瞼を開く。
その漆黒の瞳は、見紛うことなき深紅に染まっていた。
だが次の瞬間、元の夜色に戻って眠りに戻る。
(近いな……)
こうなっては、遅くとも一週間以内には限界が来る。
もし限界を越えてしまったら、それは――。
(こいつぁ、もう二度と死なせねぇ……)
平九郎は、拳を握りしめて静かに部屋を出た。
部屋を間借りしている娼館の、赤い絨毯の敷かれた窓のない通路を進む。
少し、外の空気が吸いたい。
時刻は朝に少し早く、客も娼婦もその大半が眠っているらしく、嬌声一つ聞こえてこない。
平九郎は奥にある階段を降りると、酒場の表口からではなく裏口から外へ。
「あら、平ちゃん。今日は早いですね」
「クレアこそ、早えじゃねえの」
そこには、クレアが外壁に寄りかかって、紙巻煙草を吹かしていた。
余談だが、煙草はエルフから伝わったとされている。
故に、といっては何だが。数年前までは平九郎も、クレアの影響で煙草を吸っていたものだ。
「お客さんがコトが終わったら直ぐ帰るって、やっぱり探索者ってタフですよね」
「……お前がそれを言うのか」
腰をトントン、と叩くクレアに、平九郎は呆れ顔をした。
見た目はか弱い、清楚な少女という形をした彼女であるが、修羅場は平九郎の少なく見積もって倍以上経験しており。
下層級探索者を軽くあしらえる実力は、今なお衰えていない豪傑だ。
「いいんです。荒事からは引退したんだし。――それより平ちゃんも吸う?」
「いんや、那凪が嫌がるからな。ヤニは止めたんだ」
「ふふっ、平ちゃんならそう言うと思ってました」
「あんだよそれ……。もし吸うっつーてたらどうしたんだ?」
「勿論、お説教じゃないですか。お嫁さんを大事にしない人はお説教ですよ」
クレアは、からからと笑いながら差し出した紙巻煙草をしまう。
少し名残惜しそうに見ながら、平九郎は苦笑した。
「……けど、だいぶ久しぶりですね。こうして二人っきりで居るの」
はぁ、と紫煙を吐き出しながら、クレアは懐かしそうにする。
確かに昔は、那凪よりクレアと一緒にいた時間のほうが長かった程だが、ここに来てからではそうではない。
「憶えてる限りなら、上以来だな」
「……あの頃は、平ちゃんも可愛かったですのに」
「へいへい、今の俺はムサいおっさんですよ」
「人間は、年をとるのが早すぎるんです」
「エルフは、年とらなさ過ぎなんだよ」
むー、と唸るクレアは、手に持っていた灰皿で煙草をもみ消すと、何気ない口調で問うた。
「――それで。何を迷っているの? 平ちゃん」
平九郎は、言葉に詰まった。
何を言おうか暫く迷った挙げ句、陳腐な言葉を返す。
「……何も、迷う事なんてねぇよ」
「嘘です。何度もアナタのおしめを変えてきたワタシには、通じませんよ」
真っ直ぐに、その緑の瞳で此方に笑いかけるクレアに、平九郎は顔を反らした。
つい忘れていたが、そういえばこういうヒトだった。
その悩みが無自覚であろうが無かろうが、鋭く察知して正面から聞いてくる。
「……やっぱり、迷ってんのかな」
「ええ、そう見えます。……話してください。ワタシはアナタ達の力になりたいんです」
無償の愛。
祖父のとの間に何があったかは知らないが、今も昔も、彼女は平九郎の一族に惜しみない愛を注いでいる。
だからだろうか、那凪以上に素直に心を吐露できた。
「斬る仕事を受けた」
「……」
彼女は、静かな瞳で頷く。
「恩人からの依頼だ。でもな、那凪は見逃せと言った。……俺は見逃そうと思う。だが……」
「その判断に、自信が持てないのですね」
「ああ。別に、人を斬るのを嫌がってるわけじゃない。見逃すんでも罰則はあってないようなものだし。気にする事じゃねぇ。でも、何か引っかかる」
クレアは、平九郎を見つめた。
彼自身、自覚していないだろうが、そこには微かな羨望と苛立ちが見え隠れしていた。
恐らく、その“斬る”対象に思う所があるのだろう。
であるならば、と彼女は平九郎に言葉を投げかけた。
「平ちゃんは、――何の為に“力”を振るうの?」
何の為に。
それは平九郎にとって考えるまでも無かった。
あの時から、それだけの為に生きているのだ。
「――俺の為に。そして、那凪の為に」
クレアは、平九郎の瞳を覗き込む。
そこには、嘘偽りのない“本当”があった。
これならば、例え間違ったとしても、何とかなるだろう。
彼女の育てた子は、それだけの強さがある。
「安心しました。そう言えるのなら、多少迷ってても生きて帰ってこれるでしょう」
「相変わらず辛口だなぁ」
「ふふっ。努々、その言葉の意味を間違えない様にね」
「あいよ」
説教くさい姉もどきの言葉に苦笑しながら、平九郎は出発までもう一眠りしようかと欠伸した。
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