第10話 泥濘の一角獣亭
狸の太助と分かれてから数分、通りに並ぶ娼館の中でも一際綺麗な。
しかし中でも一番小さい娼館、――の隣に併設された薄汚い酒場に入った。
「おいババア、飯くれ飯!」
「おや、甲斐性無しじゃないのさ。今日は嫁ほっといて、余所で遊ばないのかい?」
酒場にしては狭い室内に入ると、客のいないカウンターに座る。
「うっせ、そういう気分じゃねぇのさ」
「まぁ、あんな純真な坊ちゃんと遠足してたんだ。お前さんは、ちぃと気疲れたしたろうね」
この酒場“泥濘の一角獣亭”は平九郎の下宿先であり――、この街一番の暗部であるとも言える、俗に言う“裏ギルド”の本拠地である。
裏ギルドとは、表向きはギルドの犯罪者更正機関だが、その実体は。
多数の犯罪結社と権力者が結びついて結成された、国際的犯罪相互扶助組織だ。
――そんなモノの本拠地であるからして、当然、平九郎の今日の行動など筒抜けだ。
何せこの酒場を取り仕切るゲルダというしわくしゃ老婆は、裏ギルドの長でもあるのだ。
「んだよ、坊主の情報でも売ろうと思ったが、必要ねえのかよ」
「必要ないがね。――まあ、駄賃ぐらいはやらあな」
「……どういう風の吹き回しだ?」
ゲルダの言葉に、平九郎は片眉を上げた。
この老婆は、無駄な金は出さない主義だ。
裏があるに違いない。
そんな勘ぐりもなんのその、ゲルダは平九郎にパンとラム酒の瓶を出し、闇蜥蜴のステーキを焼き始める。
「ソイツはウチで片ァつける案件だからね、口止め料さ」
「……俺に話していいのかよ」
「まあ、後で解るさね。のんびり飯でも食って待ってな」
「何だかわからんが、そうさせてもらうぜ」
ゲルダがそういうなら、そうなのだろう。
今は腹が減りすぎて、考えたくない。
平九郎は肉の焼けるいい匂いに、腹を一層減らしながらラム酒に手を伸ばす。
その時、腰から刀の重みが消え去った。
次いで、酒瓶を掴んでいた手に女の、体温の低い柔らかな手が重なる。
その肌は白磁の様にシミ一つ無く、目が覚める様に白かった。
「――お注ぎしますわ」
「おう、頼まぁ」
女は慣れた態度で、木のコップにラム酒を注ぐ。
目の前で動く、たおやかな手首。それだけの事が、何とも艶めいていた。
平九郎は中身を一気に飲み干すと、ぼんやりと女を見る。
腰まで伸びた、濡れ羽色の黒髪。
紅と紫の鮮やかな着物を、肩の辺りではだけさせ。 豊かな胸がもたらす深い谷間を見せつけている。
顔はと言えば、綺麗な卵形の輪郭、長い睫に切れ長の目。
黒曜石の様に深みのある黒瞳、すっとした鼻筋に、桜色の唇。
その化け物めいた完璧さを誇る美貌は、まさに傾国の美女と言っても過言ではない。
但しそれは、――傷痕が無い場合だ。
それは、首の回りを一周するように付いていた。
それは、左胸、心臓の辺りに付いていた。
そしてそれは、嘗て平九郎が付けた傷痕だった。
女は。
その銘を七番と名付けられ、人の名を那凪という――平九郎の“妻”であった。
「はいよっ、お待たせ――って、なぁーに自分の女房見つめてんだい。盛るなら部屋に戻ってからにしな」
「あら、ごめんなさいゲルダ。旦那様は私の顔が一番好きだから」
「あんた程の面なら、嫌いな男なんていないだろうさ。……どうだい、こんな甲斐性無しなんて捨てて、ウチで働かんかね。きっとこの街一番、いいや貴族王族大商人誰もが求める傾世の娼婦になれるさ」
「ありがとう。お誘いはありがたいけれど、私、旦那様がいないと生きていけないから」
「…………もぐもぐ」
ゲルダには、もう一つの顔がある。
この街の悪魔の様な権力者達から、引っ張り凧である最高級娼館の経営者だ。
因みに、この横の建物がそうだ。
あくまで噂だが、例の装置を使って全世界に彼女達を出張させているとかいないとか。
平九郎は女達の会話を尻目に、黙々と肉を頬張る。
酒だけの時はともかく、食事は集中して堪能する主義である。
ああ、蜥蜴の肉とは思えない、芳醇な肉汁がたまらない。
「あら?、旦那様。パンの滓が頬に……はい、取れましたよ」
「かーっ! いつまでも新婚気分で羨ましいねぇ」
「うふふっ、今日はちょっと。幸せなことを再確認したので」
「へぇ、何があったんだい?」
なんて茶番。
平九郎はしなだれかかる那凪と、恐らくは把握しているだろうに、態とらしく聞き返すゲルダにジトっとした視線を送る。
どうにも、嫌な予感しかしない。
「ゲルダは私が貴族だった事、知っているかしら」
「いんや、初耳だねぇ」
(嘘こけ! 絶対知ってんだろババア!)
「旦那様ったらね。何もかも捨てて一緒にこいって、強引に私を家から奪って逃げてくれたの」
「へぇ、アンタら駆け落ちだったのかい。この甲斐性無しにそんな情熱的な所があったなんてねぇ」
生温かい目で笑うゲルダと、艶めかしい手つきで平九郎の胸板にのの字を書き始めた那凪。
(なんだこの状況! しかし飯は旨い……)
なまじ、間違っていないので止められず。
ただただ無心で、でスープを口に運ぶ。
……ベーコンとジャガイモの組み合わせは、最高である。
「この首と胸の傷も、旦那様の愛の証なの……」
「ハァ! これアンタがやったんかい! この唐変木!」
「ちげぇよ!? 間違ってねぇけど! お前の考えてるような変な趣味でやったんじゃねぇよ!?」
「ふふっ。何だか酔ったみたい。――ねぇ旦那様、私にもっと消えない傷痕をつけていただいても、……いいのよ?」
「嘘こけ! 那凪! 手前ぇ飲んでねぇだろうが! 後ゲルダ、引いてるんじゃねぇよ! そんなタマじゃねぇだろお前!」
「もう、旦那様ったら照れて。大丈夫よ、私は、私だけは旦那様の本当を解っていますわ」
「やっぱりアンタ、そうなのかい……」
「だからッ! ちげぇっつってんだろ!」
畜生を見る目をしているゲルダと、今晩は沢山ご奉仕しますね、と。囁く那凪。
よく見ると二人とも、口元が笑っている。
残念だが、ここには平九郎の味方はいない。
(み、味方は! 見方はいないのか!)
戦いにおいては一人で戦うほうが好きだが、今はともかく、誰か――。
「――もう。二人とも、平九郎ちゃんをイジメては駄目よ」
「おお! クレアいいところに!」
助けは来た。
素肌が透けて見える程の薄衣を纏って、来た。
隣の娼館に繋がる扉から、薄い緑色の綺麗な髪を持ったエロフ、もとい娼婦のエルフが平九郎を助けに現れた。
――尤も、平九郎の主観での話だが。
「あらクレア、虐めてなんていないわ、私はこのヒトの愛を語っていただけ」
「アタシゃ、この別嬪の惚気を聞いていただけさね」
「もう、ゲルダさんまで」
仕方のない子達、と。柔らかく微笑んだクレア。
それを見て平九郎は、あ、こいつ止めるねぇな、と直感した。
長寿種である彼女とはこの中で一番長い付き合いで、おしめを変えて貰った程親密な付き合いだ。
それだけ長ければ、普段は微笑みしか見せない彼女の意図も読めるようになる。
「じゃあ、ワタシからも平ちゃんの秘密を一つ……いいかしら?」
「……別に、許可とらねぇで勝手に話しゃあいいだろ」
つっけんどんに言うが、どこか安心した瞳を浮かべた平九郎に、ゲルダが鋭く切り込む。
「前から思ってたんだけどねぇ。なあ、オメェさん……いや剣術馬鹿」
「言い直すんじゃねぇよ、ヤリ手ババァ」
「そりゃあホメ言葉だね。――で、だ。馬鹿よう、テメェとクレアが馴染みだってのは知ってるが、何でまた女房より対応が甘いんだい?」
「あ、それ妾も聞きたい」
「……そうね、ちゃんと聞いた事はなかったわね、それで?」
クレアに先を促す那凪。
後ろでもう一人、一人称が妾の厄介そうなのがいた様な気がするが。
挨拶してない以上、奴はいないのだ。
「ワタシが平ちゃんのお爺さまに仕えてたのは、話しましたっけ?」
「この馬鹿の爺ってぇたら、例のアノ人かい? またご大層なモンに仕えてたんだねぇ」
「それは兎も角、妾は続きを所望よ!」
「はいはい、解りました。その縁で平ちゃんのお父様にもお仕えしたのですが――」
殊更に微笑んだクレアは、思わせぶりに言葉を切る。
平九郎の祖父は世界に名を轟かす悪党であったが、それはそれ、この話はアカンやつだ。
確信して即座に逃げようとするが、いつの間にか那凪が膝の上に乗っている。
(ヤバイ、逃げられない……)
「もったいぶってねぇで、さっさと続きをお話よクレア」
「ふふっ。ちゃんとお話しますって。……で、ですね。身の回りのお世話の他に――――、筆下ろしもして上げたんです」
「へぇ、貴方ってそんな事もしてたの――!?」
「クレア、真逆それは――」
平九郎の膝の上で幸せそうな那凪が、表情を険しくする。
ゲルダも何かをさっしたのか、そうかい、そうかい、と言わんばかりの視線を送ってくる。
がってむ。
「平ちゃんの初めては、ワタシです」
――爆弾が落ちた。(但しごく一部に)
「何よ! 狡いわクレア! 妾だって平九郎の初めて欲しかった!」
「まぁ。そんな所だとは、思っていたけれど……」
「この甲斐性無しにも、初めての女を気にする様な純情が残ってたんだねぇ」
三者三様の反応。
平九郎としては、那凪はもっと怒り狂うと思っていただけに意外だ。
故に、怖々聞いてみる。
「……那凪よう。怒ってねぇのかい?」
「そうね……、正直少し妬いたわ。けど昔の事ですもの。昔の……」
那凪は昔を懐かしむ目をした、彼女には過去の自分達はどう写っていたのだろうか?
そんな胸中を知ってか知らずか、那凪は続ける。
「もし、――もし、よ。私が素直でいられていたら、その事実は変わっていたかしら?」
その問いに即答するのを、平九郎は一瞬躊躇った。
彼女が問いかけたのは、もっと別のどうしようもない、何かだ。
「……知るかよ馬鹿。でもな、お互い様だ」
そう言い放ち、那凪の手を優しく、けれどしっかりと握る。
彼女は返答する代わりに、平九郎の胸板に顔を埋めて――。
「――妾の前で平九郎とイチャつくとは、いい度胸ね。離れなさい婢女」
ゴゴゴゴと地鳴りを起こさんばかりに、怒気をはらんだ気配の女に邪魔をされた。
水を差された那凪は、平九郎が無視していた女をキッと睨みつける。
「は! 穢らわしく強欲な死霊使い! 貴方こそ帰って、ご自慢の死豚のナニでもしゃぶってなさいなさいな」
「あぁん! もういっぺん言って見ろ屑鉄婆」
怒り心頭である青髪の彼女、――サラ・ゴルデスに挑発を続け様とする那凪の口に、平九郎は己の指を突っ込んで黙らせ、渋々ながら向き合って聞く。
「で、何の用だサラ? めんでぇのは御免だぜ」
「何寝ぼけた事を言ってるの平九郎? こんな時間に前触れ無し来るって事は、……決まっているでしょう?」
「……俺ぁもう、店仕舞いなんだがなぁ」
ボヤく平九郎に、サラは肩上まで延びた青髪を優雅に掻き上げ、獰猛な笑みを向ける。
「――“仕事”の時間よ。妾の剣」
その瞬間、室内の空気が変わった。
殺気立ったサラに呼応する様に、ゲルダが愉しそうな笑みを浮かべ。
クレアがそっと下がり、那凪は膝から降りて後ろに立つ。
そして、ほろ酔い加減の平九郎から、一気に酒気が無くなって素面に戻った。
恐らく、これがゲルダの言っていたヤツだろう。
「――ざけんなよ、誰が妾の剣だ。俺は俺んだ。……だが、そうだな。先ずは話を聞こうじゃねぇか、“仕事”を受けるかはそれからだ」
返答を聞いて、サラはニィと口元を歪ませる。
彼女は未だ少女という歳であったが、それは誰よりもこの街に似合う笑顔であると確信しながら。
平九郎は、ラム酒の残りを飲み干した。
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