ぽかぽか

ムラサキハルカ

 ぽかぽか

 紙は神に通じるのかもしれない。頭の中でどこから湧いたのかもわからない言の葉の連なり。槙原和泉はそれを不思議に思いながら、古文の老教師が口にするたっぷりゆったりとした声音に耳をそばだて、ノートの上で鉛筆を動かしていく。聞こえてくる声の早さに合わせてのものか、あるいは生来の気質ゆえのものか、和泉の手の動きはとても緩慢で、なかなか黒板に記されている文字を写し終えることができない。

 文法の解説の間に挟まれた二種の和歌の桜に対する価値観の違い。聞き慣れない古い言の葉。その両方が心地良いだけに、自らの手の遅さを少しだけ歯痒く思わなくもない。その思考に絶えず入りこんでくるアブラゼミの鳴き声。窓越しに二の腕に降りかかる焼けるような光。

 咲き誇る山桜の幹にぴたりと止まった蝉。響く鳴き声のうるささ。頭の中に浮かんだ妄想はどことなくおかしく、なんとなく吹き出しそうになった。とはいえ、顔の肉は微動だにせず、そうこうしているうちに教師の体が板書途中だった箇所を遮ってしまう。しまったと思ってももう遅い。老教師は太ましい体をこちらに向けて、教鞭で何度も黒板を指しはじめていて、しばらく動く気配はなかった。

 仕方ない、と和泉は老教師のゆったりとした言葉に集中しようとする。考え方次第では幸せなのかもしれない。解説に意識を十全に向けられるんだし。ちょっとだけ蝉の声がうるさかったり、つい先程頭にあった妄想が浮かびあがりそうだったものの、これはこれで面白く思う。

 かつんと言う音が耳の中に入ってくる。直後に、和泉の髪に何かが近付く気配を感じる。ちょうど教師がこちらに背を向けるのを確認してからちらりと窺うと、後ろの席に座る少女がぽかんとした顔をしているのが目に入った。少女の掌はなぜだか和泉の方へと伸びかけていて、このままいけば首筋にまで触れそうに見えた。

 なんだろう。そんな気持ちで胸をいっぱいにしながら少女の態度を窺う。少女は一瞬、その大きく丸い目をバツが悪そうに泳がせたあと、すぐにへらっとした笑顔になってひらひらと手を振った。和泉はその態度に依然として混乱しつつも、後ろから聞こえてくる声の気持ち良さに水を差されたのを少し残念に思った。


「さっきのあれ、なに」

 その日の昼休み。和泉は後ろの席の少女こと村上に手を伸ばした理由について尋ねたあと、ミートボールを一口齧った。甘みを感じさせるたれのかかった肉の団子が気持ちを和らげる。既にほとんど食事を終えた村上は、自らの短い髪の端を指先に巻きつけようとしながら、うーん、なんていい加減そうに唸ってみせてから楽しげな顔をして、

「暇だったから見てただけだよ」

 なんて答えながら、和泉を楽しげに見つめ返した。

「そう」

 なんで笑ってるの。あの手は何のために伸ばしたの。そんな疑問を頭の中でぐるぐるさせたままミートボールをもう一口。ちょっとだけ幸せになる。ゆっくりと顎を動かしながら、ちらりと村上のことを見た。相変わらずへらへらとした笑顔がそこにある。

 黙っているなんて珍しい。村上に対して和泉はそんなことを思う。普段、食事中に男性アイドルの話やお笑い番組などのよくわからない話題をばんばん振ってきては、どう答えていいかわからない和泉を放っておいて一人でおかしそうに腹を抱える。時には和泉が休み時間に読んでいる本について尋ねてきたりもしたが、上手く本の内容を言葉にする力がなく、答えられずにいるうち会話を途切れてしまう。だから、二人の会話の大半は、村上がただただ一人で口を動かし続けているのに和泉が相槌を打つか、ごく稀に和泉が何かをぼそぼそと尋ねるだけという発展性のないものになりがちだった。

 そもそもからして比較的クラスで話す相手が多い村上に対して、和泉は一人で本を読んでいるかぼーっとしていることがほとんど。こうして一緒に弁当を食べるようになったのも前後の席になったあと、村上が誘ってきたのに乗ったからに過ぎない。和泉からしてもとりたてて断わる理由もなかったため、なんだかんだでこうして机を突き合わせている。そして、昨日も今日もたぶん明日も、噛み合わない会話のようなそうでないようなものも繰り返すのだろう。じっとこっちを見ている大きな目を見ながらそんなことを思った。

「なに」

 卵焼きを箸で持ち上げながら尋ねる。何で見ているのか。そんな言葉を補おうとしたところで、村上が、なんでもないよ、と微笑んだ。伝わっているのか伝わっていないのかよくわからなかったものの、答えが返ってきた以上、追求もしにくく、そもそも和泉自身が長く喋り続けるのが苦手なのもあって、そう、と短く答えてから卵焼きを口に放りこんだ。また、幸せな気分になる。村上はなぜか保護者みたいな目をしていた。


 ある放課後、和泉は自分の席に座って窓の外を眺めている。この時間の和泉はだいたい図書館か教室にいることが多かった。家に帰っても良かったものの、この時間帯の学校の少し寂しげな雰囲気が好みだったのもあり、大抵は時間いっぱいまで残っている。例のごとく本をぱらぱらしていても良かったが、今日は橙色に染まった校庭が綺麗だったのもあって、そちらに目を奪われた。グラウンドを駆け回る体操着姿の生徒たち、声を張り上げるジャージを着た男性教師、校門に向かって楽しげに喋る女子生徒たちの集団。そんなものの一つ一つを目に映しながら、ぼんやりとしていた。

「おおい」

 聞き覚えのある声に振り向くと、村上が教室前方の扉からこちらに近付いてくる。珍しいこともあるな、と和泉が思っているうちに、村上はあっという間にすぐ傍までやってきて、なんで残ってるの、と尋ねてきた。

「別に」

 言ってから少々素っ気なさ過ぎたかもしれないと反省する。とはいえ、別に、以上の理由を口にするとなると、少々恥ずかしさがともなう。そうこうしているうちに村上は後ろの席に腰かけて、まあまあ、そう言わずに、と微笑んだ。これはやっぱりなにか言わないといけないかもしれない。そう思い、ああでもないこうでもない、と考えている最中、あたしはさぁ、と村上が話しだす。どうやら、今の時点での答えは求められていないらしいと判断し、とりあえず聞きにまわった。村上は気持ち良さそうな声で、遊ぶ予定だったクラスメートが彼氏とのデートに駈りだされたこと、他の遊び相手もまた予定があって今日はフリーなのだと語っていく。どうやら、とにかく暇だからと付き合わされているらしい。そう理解する。

 今日は加奈子(今日遊ぶ予定だったクラスメートらしい)とオープンしたばかりのアイス屋に行きたかったんだよね。けど、一人で行くのもなんか負けた気がして。あっ、槙原はアイス好きだったりする。

 そんなとり止めのない話に、和泉は窓の外を見ながら、そう、だとか、へぇ、だとか、うん、だとかいう短い相槌を打った。頭の中に溢れる語彙は唇から滑り出てくることはなく、結果として簡単な答えばかりになってしまう。それでも村上は嫌な顔一つせず、昨日のお笑い番組で腹を抱えたところや、恋愛ドラマの引きでどきどきしたところ、加奈子の彼氏の顔について品評なんかを話していった。その多くは興味がなかったり、どう答えていいかわからない事柄だったものの、昼休みに耳にする話と同じように新鮮で、なにより横目に映る村上の笑顔は気持ちのいいものだった。

 長いような短いような時間が過ぎ、教室内が次第に暗く染まっていく。校庭にいる生徒は次第に減り、校舎内から響く雑音も小さくなりつつあった。ただただ、村上の話が同じような存在感を保ちながら続いている。

 ふと、グラウンド内に一匹のカラスが跳ねているのが目に入った。どこから迷いこんだのだろうか。そんな疑問を持っている最中、

「なにを見てるの」

 と聞かれる。その直後にカラスは飛びあがりあっという間に姿を消した。ああ、なんて心の中で嘆きながら、和泉の口から、校庭、という言葉が滑りだす。

「それはわかってるってば」

 おかしそうに腹を押さえる村上。たしかにその通りだ、と和泉は思う。とはいえ今更、カラス、と答える気にもなれない。もういないし。そんなことを思っている和泉の方を村上がじーっと眺めているのが見えた。

「そっちこそ、なにを見てるの」

 途端に村上は瞬きをする。そう言えば、村上はこっちを見ていることが多い気がした。本人は聞くたびに、暇だったから、とか、見てたかな、なんてごまかしていたものの、時折感じる気配や視線からして、はっきりと意識して眺められているような気がする。そして、そこに和泉は落ち着きのなさを覚えていた。もっと、厳密に言えば引っかかりと言ったところだろうか。

 村上は考えるような素振りをみせていたが、程なくして口の端を弛めた。

「槙原の髪って綺麗だなって」

 茶化したような、それでいてどこか真に迫った声。和泉は呆然としたあと、窓の方へと顔を逸らした。

「別に、普通だよ」

 さっきよりも人が減ったな。カラスはどこに行ったんだろう。どうでもいい言の葉で頭を埋めながら、ところどころから気恥ずかしさのようなものが漏れ出していた。

「いやいや。自信持っていいよ。あたしが保証するから」

 やたらと確信に満ちた言葉のすぐあと、髪の毛に何かが触れる。一瞬間を置いて少し固めなそれが、村上の掌であると察した。

「暑いんだけど」

 髪越しに感じる熱。妙にぽかぽかする。 

「いいじゃん。別に減るもんでもないし」

 楽しげな声音と同時に髪を持ちあげられる。あらわになったうなじに教室内の温い風が当たるのがわかった。そこに重なるようにして視線を浴びせられている気がした。とはいえ、和泉は空が暗くなっているのをずっと見守っているからわからない。


 一学期が終わり、夏休みがカタツムリみたいに過ぎ、二学期になる。宿題と読みたい本を消化するくらいしかやることがなかった和泉にとって、長い夏休みの後の教室という世界は、代わり映えしないようでいて、どことなくすべてが変わってしまったように思えた。

 なによりも一番の違いは、すぐ前の席にいた少女が席替えでどこかへと行ってしまったこと。元々、席が近かったからこその縁だったから、それきり食事をとることはなくなった。新しい席も和泉が窓際の後ろの方なのに対して、村上は真ん中の前の方と、随分離れてしまった。

 休み時間や昼休み、和泉が本を読んでいたりぼーっとしている間、村上は多くのクラスメートに囲まれてわーわーぎゃーぎゃーと楽しそうにお喋りに興じている。なんのことはない。たぶん、元に戻っただけなのだろう。

 古文の時間。老教師が源氏物語の話から発展して、紫式部と清少納言についてゆったりと話している。それはそれで和泉としては興味深かったものの、本筋である源氏物語本編について進めてほしいと思いつつ、黒板を見ようとして教師の恰幅のいい体に遮られた。とろいな、わたし。少しだけ自虐しながら、耳を澄まそうとしたところで、村上の後頭部が目に入る。そう言えば、一番前の席になっていたんだったな。思い出しながら、ふと村上が黒板に向けて手を伸ばしているのに気付く。少女はしばらくの間、腕を伸ばしっぱなしにしていたものの、教師の体がずれたところで手を引っこめた。その一部始終を見送ってから、ああ、あれは癖なのか、と和泉は自分の中に残っていた疑問を雪解けさせる。なんらかの理由があると思っていただけに、少々、拍子抜けした。とはいえ、どんな答えを求めていたのかは和泉自身もよくわからず、窓の方へと顔を逸らす。

 グラウンドをひたすら走らされている男子生徒とそれを見守り声を張りあげる体育教師の間で視線をさまよわせながら、なんとなくカラスはいないかな、と探したものの、どこにもいなかった。

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ぽかぽか ムラサキハルカ @harukamurasaki

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