第96話 ニャンちゅう

 シェイクされた脳味噌が頭蓋うつわから溢れそうな感覚。

 震源地ほっぺたは当然として首へのダメージもまた甚大だった。ヒットポイントがあと少しでも下にズレていたら普通に刈り取られていたと思う。

 ―――膝は折れ、近付く地面がスローモーションに見える。

 油断していたのもある。意識外からの強襲は訓練された人間でさえ耐えられないとも聞く。

 だが今の一撃は不意打ちという点を除いたとて見事と言う他ない。振り向く動作さえ一連に取り込み、下半身から生まれたエネルギーを余すことなく指先まで伝えたそれはビンタどころの話ではなく、鞭打ベンダと称しても過言ではない代物だった。

 この時俺の頭部に掛かった負荷は、おそらくバタ子さんの投擲による入れ替えに匹敵するだろう。

 恐ろしく速いビンタ……俺じゃなきゃ見逃しちゃうね。

 ……よし、まだカスみたいなことを考える余裕はある。

 だから自分を強く持て。今意識を手放したらこの前のニノマエいや二の舞だぞ。

 強がれよ俺、男の子だろうが……ッ!


「へへっ……ナイスビンタ、北嶋先輩……っ!」


 ぐっと臍の下に力を入れ、間一髪。俺は忠誠を誓う騎士のような姿勢で踏み止まる。

 自分を打ち負かした相手への惜しみない称賛、それこそが今の俺に出来る精一杯の強がりだった。


「は、え? 倉井くんか!?」

「北嶋先輩……もしかしてバレーとかやってましたか……っ」


 狼狽える北嶋先輩を無視して俺は喋る。正直なにか言って気を紛らわせていないと辛いんだよ、痛すぎて普通に泣きそう。


「た、確かに中等部ではバレー部にも入っていたが」


 マジかよ適当に言ったのに当たりやがったぜ、すげえな俺。


「い、いや、今はそんなことを言っている場合じゃないだろう、とにかく止血しなければ―――」


 止血……?

 ああ、変な模様だと思ったらこれ模様じゃなくて血か。

 指摘されて初めて、カーペットの黒い斑点が模様ではなく自分の鼻血であることに気が付いた。

 んで意識したらしたで、さっきまではそうでもなかったのに鼻の痛みも五割増しくらいに感じちゃう。


「ティッシュは……ここからだと脱衣所に置いてあるのが一番近いですね、すぐに取って―――」


 一緒に居るのは中村先輩だけ……か? さっきは三人分の声が聴こえていた気がするんだけど……どっちかの腹話術的スキルの可能性もゼロじゃないが、そんな男子中高生みたいな奇行に及ぶ人達だとは到底思えない。

 なら組み合わせ的に、多分最後の一人は中野先輩だと思うんだが……。


「ティッシュ持って来たよーっ!」


 と思っていたら、その中野先輩が風呂場から駆けて来るのが見えた。

 やっぱりなと納得している俺に向かいすり棒のような形に丸めたティッシュを両手に迫る姿はまるでバッファローゲームを彷彿とさせる。しかし今狙われているのは乳首ではなく鼻腔、顔面。

 まあマジで突っ込んでくることはあるめえよ、上にズレたらおめめに直撃だぜ?


「おうっ!」


 そんだけ急いでくれてんだろ―――なんて思っていたら、足をもつれさせた中野先輩がオットセイみたいな声を出して宙を舞った。


「は?」



 おわかり頂けるだろうか?

 ティッシュを摘んでいた指、ということはラブコメによく見られる頬っぺたをツンツンするための甘酸っぱい構えではなく当然二本指。

 即ち、

 ―――加えて。

 中野先輩は華奢である。電波や南雲ほどではないが十分小柄な部類に入るだろう。

 しかし彼女はインパクトの寸前、飛んでいた。

 つまり、軽いとは言えその指先には人一人分のエネルギーが込められていたのである。

 結果としては、まあ地獄だった。

 衝突の直後、中野先輩は牙突した指を掴みながらとても女の子が出していいものじゃない声を上げて地面を転がり、俺はさっきと逆方向から食らった一撃がトドメとなって首の筋を完全に違えた。

 その後俺達が落ち着くまでに要した時間は約五分、内八割は二人でローリングしていた時間である。

 寮内は上履きに履き替えるとは言え下が汚れやすいことに変わりはないので、俺は当然として中野先輩も着替えた方がいいだろう。なんならもっかい風呂に入った方がいいと思う、それくらい豪快な動きだったから。


「う……すまない。だからそんなに見つめないでくれ……」


 つまりは北嶋先輩が言うそれも糾弾する意図はなく、彼女が座る斜め前方に首の角度が固定されているからに過ぎない。

 心理的な問題ではなく、ただ単に物理的な問題なのである。


「……いいっすよ。話聴こえてましたし、幽霊だと思ったんですよね」


 そもそも幽霊なら物理攻撃は通じないと思うが、パニックになっていたのなら仕方あるまい。

 俺は心が広いので、わざとじゃないなら許そう。

 すっげえ痛かったけど、いや過去形じゃなくてナウで泣きたいくらい痛えけど。


「私もごめんね……」


 と続いて謝る中野先輩は左手の指先を氷水を張った器に突っ込んでいる。

 俺も同じくほっぺたを冷やしているが、氷水とこの保冷剤みたいなのは中村先輩が用意してくれた。

 あとは首に貼るための湿布を七生が探しに行ってくれているので、今はそれ待ちである。


「穴が増えるかと思いましたけど、まあいいいですよ。それより中野先輩の方こそマジで指大丈夫なんすか?」


 殴った方だって痛いんだぞ! というのは暴力を振るった側の詭弁暴論である。

 あるが、多分今回は中野先輩のダメージも相当デカいと思う。

 逆に曲がった指と手首で二重の極みみたいになってたし、事実さっきの痛がり様は尋常じゃなかった。

 ギャッと短い悲鳴を上げるなんてのは足の小指をぶつけたりで日常生活でもたまにあるけど、のたうち回るなんてのは相当だ。

 悲鳴と言ったが、それも咆哮とか慟哭と言った方がよさそうなレベルの声だったし、こうして会話をする余裕はあるみたいだから折れてはいないと思うが、脱臼とか突き指とかはしている可能性がある。

 俺もあんな風になったのは半年前体育の授業でキンタマにパスを受けて以来だが、まあ無事と言っていいだろう。

 少なくとも口裂け女みたいにはなっていない。すっげえ痛えけど。


「う、うん、私もとりあえず大丈夫。ほんとごめんね」


 中野先輩の瞳はまだ赤く、頬にかけては涙の跡が残っているので、それが強がりなのは丸分かりだった。

 今は冷やしているおかげで感覚が麻痺してるみたいだけど……ありゃ今晩地獄だな。

 まあ、俺だって人の心配なんざしてる余裕ないけどさ。

 お互い今夜が山田ですわ……。


「ところで……二人はあんなところでなにをしていたんだ?」

「……」


 脱いでる時に先輩達が来たから隠れたんですよ。なぜ? 雨で濡れたんで。二人とも? いや俺だけっすけど。じゃあ二人で隠れる必要はないじゃないか。そうっすね。女子寮で淫行に及ぶとは君には失望したよ。

 脳内で会話をシュミレート。

 バイアス掛かりまくってるけど、まあ最悪を想定していて悪いことはあるめえ。


「答えられないということは……ナニか?」


 クソッ! 言っても言わなくても同じじゃねえか!!

 ならここは―――


「ぁー……頬っぺ痛ってえなー……」

「……」


 北嶋先輩がなんとも言えない顔をしていた。

 ふふふ……俺は一応被害者様だからな、こう言ってしまえばこれ以上の追及は出来まい。

 卑怯? なんとでも言うがよい。勝てばよかろうなのだ。


「……ふっ」


 そんな俺の意を汲み取ったのか、北嶋先輩がくつくつと笑う。

 こちらがビンタを不問にする代わりにあちらは俺達があの部屋に居た理由を追及しない―――ここに無言の交渉は成立した。


「お。お帰り、わざわざ悪いな」


 そこに二人の片割れ、七生が湿布捜索の旅から帰還する。

 旅と言っても二階の自室までだが、今の俺には階段を昇るという行為が拷問に等しいので大助かりだ。なんなら平地を普通に歩くだけでも響きやがるからね。


「別にいいけど、なにこの雰囲気……なに?」

「……ふっ」


 おまえじゃわからないか、この領域レベルの話は。


「……なんかすっごいムカつくから湿布張ったげるわね」

「お、なにからなにまで悪いな」


 前後の繋がりが意味不だけどありがたパッシ―――ン


「おおおおおおおおおおおん!!!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る