第4話
時間の流れというのは
時に身勝手でかなり主観的で
勝手に伸びたり縮んだりして
その中で溺れそうな自分にはなかなか見えてこないこともあって
普段は別に注意してよく見ようともしないけど
他人に経過した時間を見て
自分にもそれだけの時間が経ったということ
そのことに
はっとする事がある
久しぶりにあった友達の大人びた顔
父を亡くした母から新しいパートナーを紹介された時
その時の母の知らない顔
小さい頃は会う大人みんなに
「大きくなったね」
「どおりでわたしも老けるわけだ」
とばかり言われるから
それは挨拶みたいなもので、美容師の
「かゆいところはございませんか」
とか、ガソリンスタンドの店員の
「窓、汚れなど気になるところはございませんか」
みたいな
大人の使う紋切り型の定型文なんだとばかり思っていたけど
いまなら少しわかる
変化のめまぐるしい子供を見ることで
自分の時間という輪郭のはっきりしない概念がわかりやすく見えるように思えるのかもしれない
そんな時の流れを私は、
自分の実感とかけ離れた
「女を象徴する部分の成長」を感じることによって
それをあたかも当然というように扱う周りの人間によって
いつも半ば強制的に分からせられてきた
幼稚園では礼服のスカートを着たくないと言って入園式の日に泣いた
男友達が作った秘密基地には女だからという理由で入れなかった
意味がわからなかった
「元気なのもそりゃとっても良いことですけど。翔子さんはおしとやかに女の子らしくすることも学ばないとねぇ」と祖母にはじめさせられた習い事
日本舞踊は衣装が嫌ですぐにやめたが、箏の琴には面白さを感じてのめり込んだ
小学生の休み時間にドッジボールの球が胸に当たって痛くて一瞬動けなかった
その頃から胸がふくらみ始めた
シャツを着ると目立つ胸は邪魔で、母にバレるまで下着の代わりにスクール水着を着てやり過ごしていた
母が嬉々として買ってきたブラカップ付きの下着とお揃いのショーツの真ん中に付いたピンクのリボンが無性に憎らしくてハサミで切り落として母に叱られた
「そんな下着いらない、 どうしても買うなら1番シンプルなやつでいい、なんていうからこれを買ってきたのに。母さんはもっとかわいい大人っぽいやつの方がいいと思ったのよ。小学校4年生にもなって全く子供で困るわ。」
ピンクも、フリルも、レースもごめんだった。
親友だと思っていた祐樹が急に素っ気なくなった
「お似合い」とからかわれて顔を赤くする祐樹。訳がわからなかった。不思議な嫌悪感すら感じていた
「翔子ちゃんの好きな人って誰なの?やっぱり祐樹くん?」靴紐を結びながら聞くの絵里ちゃんの白いうなじに光る汗とポニーテール、濡れてくるりとした襟足にドキドキしていた。そこから目が離せなかった
「オカマ」とからかわれている同級生がいた
自分のことのように痛かった
少しずつ少しずつ
周りと自分が、自分と自分の体が
離れたものになっていく
月経が始まった
自分には起こらないことだと
心のどこかで思っていた
女という焼印を否応無しに押された
トイレで泣いた
ひとしきり泣いた後
自分に降りかかってくる大きな圧力のようなものに抗おうと決めた
はずだった
その直後、父を交通事故で亡くした
葬式で妙に気丈に振る舞う母とそれを褒め称える親戚、立ち上る煙をただ見ていた
帰ったら、父の好きな番組が録画されていた
もう見る人はいないのに消せなかった
夜、眠れなくて水を飲もうとそっと一階に降りると居間に座る母とビールの缶が目に入った
父の晩酌用に必ず一本は冷蔵庫に入っていたビール
普段一滴も飲まない母の後ろ姿に声をかけることができなかった
震える背中は、少しでも力がかかったら簡単に折れてしまいそうで
葬式での姿は、やらねばならない膨大な仕事に突き動かされることでなんとかその形を保っていたのだと知った
主人のいなくなった髭剃り、歯ブラシ、ゴルフバッグ、無意識に用意してしまう茶碗。
小さい頃、居間の障子を破いた私を叱らずに一緒になって直してくれた事があった
「大人にはならなくてもいい、だがこれから自分で責任を取ろうとすることは必要だぞ」
祖母や母から古いしきたりにのっとった行動を強いられそうになると父の元に避難した
「翔子は翔子らしく。それでいい」
いつもあぐらを組んだ膝に迎えてくれた
叱られたこともあった
筝の爪を乱雑に扱うことを咎められた
「だって大切にしたってすぐボロボロになるんだよ。ショーモーヒンって先生も言ってたよ」
「父さんが言いたいのはそういうことじゃない、身の回りのものに礼を尽くすその心、それ自身に神様が宿るんだ。そういう心意気を大切にしなさいと言いたいんだ」
「そういうのってなんか月並みだよ、使い古されてるって感じ」
「なんで使い古されるのかよく考えてみなさい。みんな世間の荒波にもまれてそこに戻ってくる、そういう贅肉のそぎ落とされた真理がそこに宿っているとは思わないか?ありきたりなセリフを前とは違う目で見る自分がいる。そういうことを成熟と呼ぶのかもな」
「どうすればセージュクできるの?」
「そんなことは、知らん。一介のサラリーマンにそんな難しいことを聞かないでくれ」
じきにわかるようになるさと笑っていた
翔子じゃなく翔と呼んでほしいと父だけにおそるおそる打ち明けた朝も、なにも聞かずにいてくれた
「そうだ、翔、もし子どもが生まれて、大きくなったらキャッチボールするのが夢だったんだ、なんて言ったらまた月並みだって笑うか?父さんの夢叶えてくれよ。」
この家には思い出がありすぎる
週末にキャッチボールをする約束をした水曜の朝、行ってきますと出勤した父が戻ってくることはなかった
あれから5年が経って
当たり前のようにつけるようになったブラジャーにもいつのまにか大人のようになった胸のふくらみにも安定的な周期をえがくようになった月経にも、心に沈殿する澱のように自分を穢すものとしか感じられない
でも
小さい頃のように「大きくなったね」なんていう即物的な言い方はされないけど
着実に
「女になったね」と言われるようになっていく
旧い家でそれは大切なことで
祖母からも周囲からも
そして、誰よりも母から
女としての振る舞いを求められている
女であることを望まれている
それが強まっていくことによって、要求に機械的に応えることによって時間の経過を知った
「翔子は色も白いし和馬さんに似て腰も細いからきっとよく似合うわ、私の時よりずっと。」
濃紺の振袖を広げながら目を細め、父の遺影に語りかける母
浮かぶ涙
「楽しみね。あのお転婆翔子ちゃんがもう16歳だなんて。あと4年なんてきっとすぐねぇ」
曖昧に微笑み肯定する以外の選択肢がほかにあったのだろうか
体は年を重ねてますます丸みを帯びる
「翔子は翔子らしく」
父さんはもういない
新しい父さんの匂いは当たり前に他人のそれだった
筝曲部があるという理由で決めた高校の女子制服に袖を通した時、幼稚園の時のように泣くことはなかった。これからも余計なことは考えないと決めた
決めたはずだったのに
5限目の音楽で爪が折れた
自分のでなく筝の爪が
父に言われてから爪輪を変え、磨き、手入れをしながら大切にしてきた爪
誰かの慟哭が聞こえる
そう思った
なぜか頬をなまあたたかいものが伝う
箏の爪が手のひらにぎちぎちと食い込んで痛い
コンナセカイデイキテイキタクナイ!
いきなり叫び出しそうになって驚く
泣いているのは誰?
ああ、私か
ねぇ父さん
みてるんでしょう父さん
もう疲れちゃったよ
体が「女」になって
「女」としての振る舞いを学んで
でも
気持ちはあの頃と全然変わってないんだ
みんなが望むような「成熟」が訪れてないんだ
爪や髪がいつのまにか伸びているように
心も自然に熟していくみんなが
うらやましいよ
不自然な自分が悔しいよ
父さんが死んだあの日の母さん
振袖を着る私の未来を楽しみにする母さん
その涙が
自分らしく振る舞う勇気を押し流す
大切にしてきた爪だって
あの言葉を理解したんじゃなくて
本当は父さんの残り香を消さないようにって
もういないあなたを心の支えにしてたんだ
全部自分のためにしてきたことなんだ
こんな自分になんて
気がつきたくなかった
気がつきたくなかったよ
いらない
こんな自分いらないよ
「礼を尽くす心には神様が宿る」
それなら
それなら私の心に宿っていたのは?
私の心に宿ったものはみんなを困惑させる
…こんなの間違ってるよ
涙のせいでぼんやり伸びた間抜けな視界と雑踏に、突然男子が入り込む
「先生、彼女を保健室に連れて行きます」
その人の名前は
「佐倉くん?」
半ば引きずられるようにして教室を出て
抗議の声をあげようと思ううち走り出す
走って
走って
走って
屋上についた頃にはもう二人とも息が上がって喋れないほどだった
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