第14話

 目の前に黒色の珈琲がある。

 目の前にオレンジ色の蜜柑ジュースがある。

 諏訪さんはこの二種類を混ぜる。


「私の珈琲はこれから始まったちゃ」


 その珈琲は上から見たら泥水のような、不気味な色をしていた。

 所々、浮かぶ蜜柑の粒がより一層不気味さを演じさせる。


「これはうちではオランジーナと呼んでいる」


 そっと私の方へ差し出す。

 これを飲めということなのだろうか。

 私は、蚊の羽音のような消え入りそうな声でいただきますと言ってそれを口につける。


 先に来たのは珈琲の苦味。そのあとに来たのはオレンジジュースの苦味。それが上手く交わる。


「この珈琲は元々、うちが小学生の頃にファミレスのドリンクバーで発見したものちゃ。他にもコーラに粉チーズを混ぜたり、ホットコーヒーにタバスコを混ぜたり色々して親に怒られたものちゃ。よくちんとしられと言われた。ちんちんもかいたことあった」


 ちんちんをかく。つまり土下座をよくしたということである。


「それでもうちはそれを辞めることができんかった。それはなんでかっというと新しい飲み物を開発したときのあの嬉しさを忘れることが出来なかったから。だけどその時はまさか喫茶店を開こうとか思わなかった。今思えばそれが幸せだったのかもしれない」


 どうして? 私はそんな顔をする。


「最初から夢を持ってやると辛いものがある。本来なら小さいことからコツコツ毎日やって夢を目指すものなのに、今すぐその夢を叶えたいと思いあせる。自分に無理なノルマを課す。そうすれば夢が叶うという無駄な幻想を抱く。分からなくなる。どうしてこの夢を追おうとしたのか。見失う。夢までの道のりを。だからまずはうちみたいに小さい喜びから触れた方がよかったんちゃ」


 そして彼女も珈琲を飲む。


「好きなものを仕事にするのはどれほど辛いのかあの子はわかっていない。若さ故に。勘違いをしている。芸人も小説家も音楽家も見な楽をして、好きなことだからストレスとかそんなの無しで働いていると。そんなわけない。まず彼らは個人事業主だ。普通のサラリーマンと違って守ってくれる存在がいない。福利厚生など0。その中で好きなことをやるとか、どれほどのプレッシャーなんだろうか。それはあの子の若さは教えてくれない。プロをゴールと勘違いしている。あの子はプロになるだけの為の努力をしている」


「……諏訪さんって何歳なんですか」


「……うるさいな」


 どうやら年齢は秘密らしい。


「とにかく、こういう夢を目指すなら意外に税金の話とかも覚えておいた方がいいちゃ。すべて会社の経理がやっていたことを自分達ですることになるから。そしてそれがかなり面倒くさかったりするから。租税公課とか所得税の計算とか。青色申告とか白色申告とか。青色をするのなら簿記の知識が必要になるし、どこまでのものを経費として考えることができるのかを考えないといけないし」


 つまりは、自分のやりたい仕事をしているはずなのにそれ以外の勉強もさせられている。と。


「だからさ、どうせプロになったら色々と悩むことがあるんだからさ。アマチュアのうちにそんな悩む必要なんてないと思う。むしろアマチュアからそれほど苦しんでいるんなら危ない。好きで好きで堪らなくプロになった人がそこで苦しんでいるんだから」


 それは私の姉をみればわかる。

 あれほど服が好きで好きで溜まらずにアパレル業界を選んだ人が、布団に顔を沈めるほど、枕を濡らすほど苦しんでいるのだから。


「働くってなんですか?」


 私は疑問に思う。

 どうしてみんな、こんなに命を削って働くのだろうか。何のために働くのだろうか。

 わからない。


 社会を幸福にするために、どうして自ら不幸になろうとするのか。どこかで妥協をすればそれなりの幸せというものがあるのではないか。


「さぁね」


 諏訪さんの回答は曖昧模糊なものであった。

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