第2話 日常の表と裏
白昼夢というのだろうか。
ムラサキの中で最も古い映像が突如視界に差し込まれた。
立ち眩みを起こしたような感覚だが、あの日以来感情の起伏が乏しくなってしまっている彼は、僅か眉間にシワを寄せただけで顔に出ることはなかった。
「先輩? どうかしました?」
そんな彼の僅かな機微にも気付く者は居るわけだが。
制服姿のムラサキを先輩と呼ぶ少女は、まるで夢の中であの女がそうしたように、小首を傾げてムラサキを覗き込む。
肩より少し下くらいまで伸ばした黒髪がふわり揺れ、白すぎないながらも綺麗な肌が陽光を受けて輝いて見える。
彼女の名前は夢路華火(ゆめじ はなび)。
ムラサキの学年より一つ下、所謂後輩に当たる。
彼よりより頭一つほど身長が低く、表情豊かな子だ。
「あ、まーたあの人の事考えてましたね?」
「毎度毎度よく分かるね。正解だよ」
「可愛い後輩が隣に居るのに、拗ねちゃいますよ」
わざとらしく歩幅を広く、一歩一歩を大きく歩く華火に、さて、まともならば苦笑の一つも浮かべたのだろう。
感情を上手く表に出せない。
ハナカマキリと出会ったあの日、彼は霊災に巻き込まれた。
正確には仮称第九神霊災害。
普通に生活している限り耳にする事のない単語は、しかしムラサキが感情の大半と記憶を失ったあの日に突如として彼の語彙に追加される事となった言葉だ。
霊災とは読んで字の如く、霊的な存在による災害である。
中でも特に大規模であり、犠牲の多かった物は神霊災害と呼称される。
政府でも対策対応室を設けているのだが、神霊災害などと呼ばれるほど大規模な物はいかんせん発生数自体が極端に少ない。
維持費用の事も考えてか、その部署の所属人数は現在たったの三人。
少数精鋭……と言えば聞こえは良いが、実情は殆どの事例に対して後手に回るしかない現状に頭を抱えているのだとか。
「今日もお手伝いですか?」
「お手伝いと言うかアルバイト。呼ばれているから多分動く事になると思うけども、そんなに大きくない霊障でも霊災の種だし、対応できる人が対応した方がいいでしょ」
「先輩も私も被災者なのに……」
「被災者だから……だよ」
二人の通う学校は、霊災の被災者支援学校だ。
霊災という物自体あまり世間に知られてはいないものの、被災者の多く……特に子供は生活能力を失つてしまう。
そうした中では、通常の学校に通い続けるのは難しい者も多くいる。
先代の室長がこういった事態を重く捉え、国と連携して支援学校を立ち上げたのだ。
現在、二人の通う学校はまさにその第1校であり、華火も霊災の被災者との事である。
「危ないからやめろとは言わないんだね」
「言いませんよ」
淡々と、もしかしたらそれは時に冷酷にすら聞こえるような声音のムラサキに、しかし華火の言葉は優しかった。
歩幅を合わせ、隣を歩く彼女は視線の一つも向けずに続ける。
「だって、それが先輩ですから。昔の自分も感情も失っても、自分にできることはやろうとする。そんなオオムラサキだから、私は尊敬してるんです」
「照れるね」
「ふふ、そうは見えませんね」
華火はムラサキの過去を知る人物だ。
とは言え、彼女も名前は覚えていない。
なんでも、昔仲の良かった近所の少年が居たそうで、霊災に遭った事で引っ越す事になってしまって会えなくなったのだとか。
曰く、面影ですぐに分かったらしいのだが、ムラサキからしてみれば果たして自分が本当にその名前も知らない少年なのかは分からない。
真相はどうあれ、神霊災害の生き残りで近寄りがたい雰囲気の出ているであろう自分に声を掛けてくれた相手というだけでもありがたい。
すでにあれから三ヶ月ほど経つが、いまだムラサキには華火以外に友人と呼べるほど仲の良い相手はいない。
「怪我をするなとは言いません。やめろとも言いません」
「ん?」
呟くような小さな声で、しかしそれでもムラサキの耳にはしっかりと届いた。
ムラサキが足を止めれば、彼女は数歩だけ先に歩き、そこでふわりと振り返った。
「ですから、どうか無事に……生きて帰ってきてくださいね」
泣き出しそうな困った笑み。
本当に言いたい事を押し殺して何かを告げるとき、彼女はいつもこんな顔をする。
僅かにも表情を変えず、しかし確かな決意を持ってムラサキは答える。
「大丈夫。帰る場所はもう覚えたから」
◆
帰り道で華火と別れたムラサキは、そのままの足で霊災対策室の置かれている建物へと向かった。
雑居ビルの立ち並ぶ一角。
一つも表示のない看板が表に出された、まるで廃墟のような建物にそれは設けられている。
ガラス戸を潜れば明かりのない正面入口。
埃の被ったカウンターの横には電気すら通ってなさそうなエレベーターと上階へ続く階段がある。
向かう先は階段。
足音を響かせながら、急ぎもせずに一段ずつ上ってゆく。
視線だけを下げて階段の先に見れば、定期的に利用はされているらしく、入り口のカウンターのように埃は積もっていない。
相変わらず明かりのない廊下を歩き、数えて三つ目のドアをノックする。
「はい、どうぞ」
「お邪魔します」
ノブを回し、ドアを潜ると窓の無い部屋へと入ることになる。
部屋の中にはさらに三つの扉がある。
一つは御手洗い。
もう一つは台所。
そして最後の一つはここの室長のプライベートスペースなのだとか。
ムラサキもそこへは入ったことが無いため、詳しくは不明。
ほんのりと橙色の灯りに照らされる部屋は広く、正面には二人の少女。
華火と同じか、あるいはもう僅かに小さいくらいの体躯に、ピッタリのサイズのメイド服を着た双子だ。
顔の作りはまるで模写でもしたように同じに見え、その差異は髪色と瞳の色くらいなものか。
髪は片や黒、もう片や亜麻色。
どちらも長さは肩に掛からない程度だ。
「これは」
「これは」
「ようこそ」
「桜斑咲(オウムラサキ)様」
交互に言葉を発する彼女達の頭には獣の耳が生えている。
キツネ。
狐。
そう、二人の正体は妖狐。
黒髪で薄灰色の瞳をした少女、カガミが部屋の奥へと促す。
「主様を呼ぶから」
「どうかお掛けになってお待ちください」
亜麻色の髪で青い瞳の少女、ミナモがムラサキの前にお茶を置く。
二人は交互に言葉を紡ぐ。
双子だからなどというレベルを超えて息の合った連携は、給仕以外の【仕事】でも遺憾無く発揮される。
ムラサキよりも小柄な二人は、しかし【仕事】の上では彼よりも余程手際が良い。
「すまない。少々仮眠を取ろうと思っていた所だったんだ」
「いえ、そんな時にお邪魔してしまってすみません。翔人さん」
「いや、こちらから呼びつけたんだから気にしないでくれ。ここに缶詰だと時間の感覚がおかしくなる。放課後だって事をすっかり失念していた」
扉を開けて出てきたのはスーツの男だった。
少し痩せすぎなほど細い腕と、竹馬を思わせるよう細く長い脚。
灰色掛かった髪はオールバックに纏められ、スーツという装いもあってヤクザのようにも見える。
まあ実際は真逆で、一応公務員なのだが。
不機嫌そう……と言うよりは眠そうに細められた目の下にはほんのりと隈も見える。
長身痩躯の大男。
これ以上にこの男を言い表すのにピッタリな言葉もあるまい。
彼の名前は
霊災対策室の室長だ。
「政府の連中はもう少し霊災を重く見るべきだ。日本各地の案件に私一人で手が回るものか」
「主様」
「主様」
「電話対応はカガミが」
「そして家事全般はミナモがしております」
「主様は書類仕事が苦手すぎるだけ」
カガミとミナモの二人に言われ、翔人は眉間にシワを寄せる。
ムラサキがまともならば、苦笑いの一つでもしたのだろうか。
今の彼にはまだそれすら難しい。
二人のメイド狐は翔人を主様と呼ぶ。
彼らの関係はまさにその通りであり、妖狐二匹の使役者が翔人らしい。
とは言うものの、別段二人は忠誠心に厚い訳ではないらしく、見ての通り言いたいことははっきり言う。
なんなら着ているメイド服も翔人からしたらやめてほしいのに聞いてくれないのだとか。
「まあいい。ミナモ、コーヒーを淹れてくれ。ミルクと砂糖は要らん」
「かしこまりました」
返事と一礼。
ミナモはそそくさ奥の扉へ消えていった。
「さて桜斑咲君。早々に本題に入ろう。まず、君の身体で分かった事がある」
「分かった事ですか」
「ああ。君は神霊災害のあの時、どうやら呪いを掛けられたらしい」
「呪い……」
僅か目を細めてムラサキは視線を下げた。
橙色の優しい灯りの下、しかし空気は重く息苦しい。
カガミは手持無沙汰なのか、ミナモが入っていった台所の扉を僅か開けては閉めて、すました顔をしてなんて事を繰り返している。
「カガミ、大人しくしててください」
そして怒られた。
台所から出てきたミナモが翔人の前にコーヒーを置く。
「ありがとう」
「いえ、お仕事ですから」
短いやり取り。
言葉は事務的だが、ミナモの声にトゲはない。
百言飾らずとも一言で足りる関係という事だろうか。
「そう、呪い。呪縛と言っても良い」
呪縛。
呪いで縛る。
「君の感情は何者かによって封印されている」
「主様」
「主様」
「何者かが分かっているのに」
「遠回しに言うのはどうかと思います」
「確定ではない事を話すべきか悩んだだけだ」
翔人が再び眉間にシワを寄せた。
大きく嘆息し、彼はカガミへ不機嫌そうな視線を遣る。
カガミは無言のまま小さく頷いた後、奥の部屋へと姿を消した。
それだけ見届けると、翔人は脚と腕を組んでゆっくりと口を開いた。
「君の感情を封じた相手……それは、奇異路鳳だろう」
「キイロアゲハ……」
「ああ、奴の干渉で妖となったが故に君は蝶なのだろうな」
オオムラサキ、ハナカマキリ、カガミ、ミナモ……そのいずれとも違い、彼、八備翔人はれっきとした人間だ。
陰陽師……旧くはそう呼ばれていた異能の担い手であり、人の身のまま人の世を護る者。
翔人はその中でも言霊使いと呼ばれる力を持つ。
言葉に宿る力を増幅させ、声一つ、あるいは文字一つであらゆる現象を巻き起こす力。
……というのはまあ本当に力の強い者に限られる話で、翔人では精々霊障や妖との意志疎通、あるいは契約や行使の手段として用いるのがやっとだとか。
「あの、翔人さん」
「何かね」
「今日は外仕事は無いんですか?」
「ああ、今日は仕事のために呼んだ訳ではないからな。奇異路鳳の話とーー」
「これを渡すため」
翔人の言葉を遮ってカガミが部屋から出てきた。
スカートのフリルを揺らしながら近寄ってくる彼女の手には折り畳まれた衣類が乗せられている。
「こちらの都合で制服を汚させるのが心苦しくてな。君のサイズに合わせて活動用の服装を用意させていたんだ」
「はい」
「あ、どうも」
一応公の機関から渡された制服なのだから堅苦しいものをイメージしていたが、いざ渡された物を広げてみれば、極めて普通の黒いロングジーンズとフード付きの上着だった。
黒と濃い青紫のグラデーションに白と黄色の模様、赤いワンポイントが入った物。
「オオムラサキがモチーフですか」
「名は体を表す。その逆も然るべきだろう」
言霊使い故の感性か。
もう冷めたであろうコーヒーをようやく口に運んだ痩躯の男は、一息にそれを飲み干すと静かにカップをテーブルに置く。
軽い音を鳴らした後、彼は組んでいた脚を崩し、僅か姿勢を前傾する。
「奇異路鳳という妖についての説明は必要かね?」
「お願いします。僕の感情を取り戻すのに、きっと知らないといけない事ですから」
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