妖語り~胡蝶の夢~
九尾ルカ
オオムラサキ
第1話
道行く人々の流れの中、真白の着物を纏った女性がそれに逆らって歩いてる。
スーツや、あるいはカジュアルな洋服の人々が跋扈する日本の町中において、その姿は極めて浮く。
――はずなのだが、彼女を気に留める者は誰一人としていない。
まるで虫が擬態するかのように、当たり前の世界に溶け込んでいる。
日本人形のような長い髪を小さく揺らしながら、すれ違う人々の脇を避ける動作もせず、しかしすり抜けるように人の波の中を歩いて行く。
目的がある訳ではない。
言ってしまえば散歩のような物だ。
しかし――しかし……だ。
何やら奇妙な気配を感じているのも事実。
「さて、何がいるのかしら」
静かに鳴る風鈴の如く、涼しげな良く通る声で小さく呟く。
彼女に気付く者はいない。
景色に溶け込むは白い女。
美しい捕食者は愉し気に。
喧騒の中へと消えて行く。
◆
高熱を出したときのような嫌な夢を見た気がする。
ゆっくりと体を起こせば、黒い半袖のTシャツが多分の汗を吸って重く濡れていた。
シャツだけではない。
僅か目に掛かって邪魔なくらいまで伸びてしまった白い髪も水浴びでもした後のようにぐっしょりだ。
荒い呼吸と額から頬、顎へと伝う冷や汗を考えるに、寝覚めは最悪と言ってよいだろう。
徐々にハッキリしてきた意識の中、周囲を見渡す。
割れた窓ガラスと剥き出しのコンクリートの床。壁紙も張っていないこれまた剥き出しの壁に、乱雑に置かれたボロ机。
不良グループがたむろする為に使われてそうな一室だ。
自分がたった今寝ていたソファーも埃こそ払ってあるが、お世辞にも良い品の物とは言えまい。
自分が履いているジーンズの長ズボンを見ても別段汚れは……いや、流石に少し汚れてはいるか。
「ここは……」
「あら、お目覚めかしら?」
突如として聞こえた声にゆっくりと振り返る。
内心驚きこそしたものの、寝ていた時の疲れのせいかどうにも動きが緩慢だ。
ソファの背もたれの側から見れば、ボロボロの室内に一角だけ小綺麗に家具が置かれた空間があった。
廃ビル然とした空間にはあまりにも不似合いな、アンティーク家具のような机に一人の女性が腰掛けていた。
机の前に置かれた椅子にではなく、机に。
死装束を思わせる白い着物の、美しい女性が。
「単刀直入に訊くわ。君は何処まで覚えているのかしら?」
「何処まで……って……何がですか」
「全部よ」
黒く艶のある膝裏くらいまでありそうな、長い長い髪を揺らして小首を傾げる。
儚げな菫色の瞳をまっすぐ向けられて感じたのは、どういう訳だか恐怖だった。
本能が訴えてくる。
逃げろ、と。
「ここに来るまでの事全部。何があったのか。通っていた学校。住所。年齢。電話番号。家族の人数、名前。友人の名前や顔。――そして自分の名前」
囁くような声。
彼女の座る机までには距離があるだろうに小さく動いた唇とは裏腹、まるで耳元に居るかのようにハッキリと聞き取れた。
逃げ出したい衝動に駆られているのに、その女の言葉に彼の体は硬直する。
思い出せないのだ。
自分に関わるあらゆる事が。
「……オオムラサキ」
意図せず、小さな言葉が口から漏れた。
白い女は小さく眉を潜め、かと思えばすぐさま楽しそうに目を細める。
「ムラサキ君ね。驚いたわ。まさか自分の名前を覚えているなんて」
「あ、違っ」
「違わないわよ?」
静かな声で反論を遮られる。
こんなにも美しく、淑やかな人物なのに何故先程からこうも悪寒を感じるのだろう。
まるで首もとに刃物を当てられているような。
「君はもう人間じゃないわ」
突飛もない言葉の筈なのに、何故だかすぐに納得できてしまう。
ああ、そうなんだと。
混乱しているはずなのに、何故こうも冷静でいられるのだろう。
「オオムラサキは君の新しい名前よ」
まるで自分が自分でないかのようにすら感じるが、そもそも自分がどういう人間だったかを思い出せないのだから気にしても仕方ないかもしれない。
「でも君は不思議。人間としての生命活動が終わったわけではないのだもの」
「お姉さん、さっきからなんとか言ってることを理解しようとしてはいるんだけど、全く飲み込めないから分かりやすく説明してもらってもいい?」
全く要領を得ない、置いてけぼりな話を重ねられているのに何故だか苛立ちも表には出ない。
まるで……まるでそう、感情を表現する方法を忘れてしまっているかのように。
「君は妖になったのよ。妖……つまり妖怪。霊障の一種にして、中でも「虫」と呼ばれる存在に」
「だから、オオムラサキ……?」
「そう。私と同じ」
「同じ?」
白い美女は机から降りると裸足のままムラサキへと歩み寄る。
埃っぽいコンクリートの床にぺたりぺたりと、有機的な音を鳴らせて。
「あら、失礼。名乗ってなかったわね」
「そういえばそうでしたね……」
「私の名前は――」
机に座っていた白い着物の美女は裸足で床に立ち、汚れるのも気にしない様子でゆっくり近付いてくる。
そして彼――ムラサキの前に立つと目を細めながら名乗る。
その名を聞いたとき、先程自分の口をついて出た名と合わせて今まで感じてきた悪寒の正体に気付いた。
ああ、だから自分はこの美女がこんなにも恐ろしかったのだと。
そう、彼女の名は――
「
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます