ヤツが出た

 朝。


 休日の朝である。新しい朝。希望の朝。

 空は晴れ渡り、秋らしい肌寒い風がボロアパートの隙間から吹き込む。


 しかしまだ眠い。布団を引き寄せ、起きようかどうしようか悩みまどろみながら、寝返りを打った時だった。


 目の前にいた存在に、一気に脳が覚醒する。



 武士ーーーー!!!!



「すわどうした大家殿!?」


 朝の鍛錬の為、外へ出ていた武士が部屋に飛び込んできた。私はそんな武士の腕を引っ掴むと、自分と入れ替わりに部屋に放り込み、戸を閉める。


「なんぞ!? 大家殿、いきなり何をする!?」


 何ってお前、何って……。


 出たんだよ!!


「何がだ!?」


 その、お前、ごき、その、虫が……!!


 あわあわしながら戸を閉める私に、武士は「ごき?」と首を傾げる。

 戸から武士が離れる気配がする。それから、納得するような唸り声も。


「なんだ、油虫か」


 あ、ソイツ江戸時代ではそんなマイルドな呼び名なの?

 いやよく考えたら全然マイルドじゃねぇわ。ほんと気持ち悪い。なんとかしてくれ、武士。


 懇願する私に、武士はニヤニヤとしてきた。


「なるほど、大家殿は油虫が苦手なのだな」


 それ好きな人類とかいんの?


 私はもう無理だね。蚊と同じレベルで共存できる気がしない。武士、キンチョール渡すからプシューッとやってくれないか。


 そう言って、私は薄く開いた戸の隙間からスプレーを差し出す。武士は少し悩んだ後、うっかり自分の顔に向けて噴射していた。それで死ななきゃいいんだが。


「霧吹きで虫を退治できるとは、進んだものだな」


 そして武士と油虫の戦いが始まる。強力な兵器を持つのは武士であるが、なんせ地の利は油虫にある。チョロチョロと逃げる敵に、武士は苦戦を強いられていた。


「そこだ!」


 一際長くスプレーの噴射音がする。同時に、武士の悲鳴も。

 窮鼠猫を噛むというが、油虫に飛びつかれたらしい。私は彼の不運と健闘をたたえ、そっと合掌した。


「クッ……敵ながらあっぱれな散りざまよ……!」


 ともあれ、油虫は息絶えたようだ。武士の言葉は完全に悪役サイドのそれだったのが、少し面白かった。


「大家殿、もう入ってきていいぞ」


 そしてティッシュで包んで捨ててくれた後、部屋の中にいた武士に声をかけられる。

 その言葉に、私は恐る恐る戸を開いた。


 ……。



 部屋の中央で、何故か両腕を広げた武士が立っていた。



 なんのつもり?


「某、なかなか健闘しただろう。その誉れとして、大家殿から抱擁を受けたいと思ってな」


 いやだよ。


 お前普段そういうこと要求しないじゃん。


 絶対油虫に飛びつかれたからついでに私に嫌がらせしてるだけじゃん。


「どこへ行く大家殿! 待つのだ大家殿ーっ!」


 うるせぇ上から下まで全部着替えて風呂入れ!!


 油虫を退治してくれた恩人を残し、私は踵を返して全速力で家から逃げ出したのであった。

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