第6話 傷と心


 日曜の本店の来客数は平日の比ではなかった。美琴が客として通っていた頃よりも確実に多くの人が訪れている。

「この先に新しくショッピングモールができたからな。その客が流れてきてるんだ」

 日高は美琴の左胸に、届いたばかりの小さな名札をつけさせた。苗字だけが入ったシンプルな白い名札は上品な字体で、新米もベテランも関係がなく気が引き締まる。

「急にごめんなさいね。日高くん、北川さん」

 小村が忙しくレジを打つ合間に、二人に小さく詫びた。

「おまえは商品整理と、贈答依頼があれば包装だ」

「はいっ」

 レジ打ちだろうと品出しだろうとなんでもできる日高は、それだけを伝えるとすぐに動き始めた。残された美琴は、とりあえず目についた棚の整理からとりかかる。

 このお店で商品を乱暴に扱うお客さんは少ない。手に取って見て、好みでなければきちんとハンガーにかけたり、畳んでくれる人も多い。それでもお客さんが一度広げた商品はわかるし、元の位置とは全く違う場所に置かれていたり、広げたまま陳列棚に放置されているものもある。

 商品を並べ直しながら一周して戻ってくると、また同じ作業の繰り返しだ。大勢の人に紛れるためか、平日に比べたらどうしても品物が粗雑な扱いになるのは心理として仕方のないことだろう。

 品物を手に取ることはお客さんが興味を持ってくれている証拠だから嬉しいことではあるけれど、もうちょっと丁寧に扱って欲しいなあと思える状態になっているものもある。他のお客さんの目に不快に映らないよう急いで整える。

 品定めしているお客さんの邪魔にならないように動いていると、「ちょっと」と後ろから声がかかった。

 振り返ると、スカートを手にした女性がいた。発売されたばかりのシフォン素材できれいな花柄が人気のオリジナルブランド品だ。

 先日サイズが確定したらチェックしようと思っていたのに、すっかり忘れてそのままにしていたことを思い出し、嫌な予感が走る。

「これ、他のサイズあるかしら」

 さりげなくスカートタグを確認させてもらうものの、サイズ展開までは書かれていない。

「少々お待ちください」

 商品詳細はレジ下の棚に置かれたファイルに綴じられている。確認してこようと緊張しながらも笑顔で返すと、女性は眉間に皺を寄せた。

「急いでるんだけど」

「すみません、すぐに確認してまいりますので…」

「じゃあ、無地タイプはそこに出てる分しかないの?」

「それも確認してまいります」

 質問を重ねられ、美琴は緊張と焦りでいっぱいになる。一礼して他の店員に尋ねようと離れかけたら、 

「自分の店の商品も把握してないの?」

 大きく荒げた女性の声に美琴の動きが止まった。周りのお客さんも何事かと注目する。

 そんな言葉がくるとは思わず、美琴は振り返ると慌てて頭を下げた。

「申し訳ございません」

「この店にこんなレベルの店員がいるなんて思わなかったわ」

 やってしまったと小さくなる美琴に、女性は軽く笑う。

「あなた今日入ったばかり?」

「いえ…」

「こんなことも覚えていないのによくここにいられるわね」

「すみません」

『早く覚えろ』『新人だからは言い訳にならない』

 頭を下げる美琴の脳裏に、日高の言葉が浮かぶ。忠告されていたのに。

「レベル低いわねえ。あなた、この店向いてないんじゃない?」

 近寄ってきた女性が、美琴の耳元で吐き捨てるように言う。

「お客様、不手際失礼いたしました」

 硬直した美琴が横からかかった声に顔を上げると、隣に日高が立っていた。

「そちらの商品は柄、無地共にSMLの三サイズ、店頭に出ている物がすべてです。ご希望の品がないようでしたらお取り寄せいたします。今でしたら三日ほどで届きますがいかがいたしましょうか」

 日高の横顔は、こんな事態だというのに毅然としている。

 女性が日高に薄く笑いかける。

「もう結構よ、買う気失くしたわ。ほんとにここの教育はどうなっているのかしら」

 女性は明らかに軽蔑した目でしばらく美琴を見据えると、手にしていたスカートを美琴に押しつけ店から出て行った。

「お騒がせいたしました」

 日高が成り行きを見守っていた周辺のお客さんに頭を下げた。みんな我に返ったように店内をまわり始める。

「奥入っとけ」

 立ちすくむ美琴の手から商品を取り上げ、日高は短く一言だけ言うとレジへ向かった。低い声に息が詰まる。

 美琴は誰もいない事務所に入るとパソコンの前に座り、さっきの商品のページを開いた。サイズ、色、柄を確認する。

 隣に並ぶ売り上げのグラフを見ていると、カラフルな液晶画面が揺らいだ。

 お客さんを怒らせてしまうなんて最低だ。

 しっかり覚えておけばこんなことにならなかった。新着情報で見ていたのに、どうしてきちんと確認しておかなかったんだろう。こんな基本的なこと、バイトの立場でも把握できていたのに。

 あの女性にも周りのお客さんにも、スタッフにも不快な思いをさせてしまった。

 なにより自分のせいでこのお店の評価を下げてしまったことが悔しい。

 ゆっくり息を吐き出していると、ポンと肩に手のひらが触れ、息が止まりそうになる。

「さっそく復習してるな」

 顔を上げると、隣に立った日高は画面を見て笑っている。

 全く予想外の表情に戸惑いながら、呆れて笑われてるのだと理解する。美琴は席から立ちあがって深く頭を下げた。

「すみませんでした」

 勢いよく下を向くと、日高の茶色い革靴がぼやけた。自分のミスなのに職場で泣くなんて最低だ。奥歯を噛みしめて堪える。

「日高さんに言われていたのに。お客さんを不愉快にさせてしまって」

 日高が右手を伸ばし、美琴の顔を無理やり上げさせた。

「あれは客じゃない。クレーマーって言うんだ」

「……クレーマー?」

「そうだ。サイズや在庫を聞いてきたところまでは客だった。でもその先は、大事な客なんかじゃない。単なるクレーマーだ」

 美琴の顔から手を放して、日高は渋い表情になる。

「まだ覚えきれてないことがあっても仕方ないし、そこは反省してるだろ」

 日高がチラッとパソコン画面に目をやる。

「あんなヤツの言うことにいちいち傷つかなくていい。向いてないとかヤツが決めることじゃない」

「聞こえていたんですか?」

「裏の棚で他の客を応対してた。すぐ行けなくて悪かったな」

「どうして日高さんが謝るんですか」

 日高に謝られるとは思いもせず、どんな表情をしたらいいのかわからない。

「どうしてって、そりゃ……」

 日高が口を開きかけたタイミングで、事務所に小村が飛び込んできた。

「美琴ちゃん、大丈夫? 酷いこと言われたんじゃない⁉」

 抱きつかんばかりの勢いの小村に両肩を揺すられる。店内では苗字呼びだが、裏では名前で呼んでくれる。

「すみませんでした。お手伝いどころか揉めてしまって」

「何言ってるの。彼女はいつもああなんだから」

「……いつも?」

 小村の言葉に、美琴の思考が止まった。



 閉店後の事務所で、日高が淹れてくれたコーヒーを飲みながら机を囲む。

「彼女、以前にここの採用に落ちたのよ」

「ここって……GROWの採用試験に、ですか?」

「そう。設立直後にね。で、それから新人が入るたびに目の敵にして難癖つけてくるのよ」

 思いもしなかった裏事情に、美琴は目を丸くする。

「みんな顔を覚えているから、来たときはチェックしてるのよ。今日はお客さんが多かったから紛れて気づかなかったのよ。最近見かけなかったから、つい油断してたわ」

 山崎が悔しそうに膝を拳で叩いた。

「みなさんも、なにかされたんですか?」

 竹田に話を振ると、めいっぱい首を縦に振った。

「私の時は、私の売った商品が変な色になったって持ち込まれて。でもよく調べたら、色落ちするものと洗っただけの話。もう少しで交換するとこだったわよ」

「扱っていない商品を取り寄せろ、っていうのもあったね」

 どちらも二年以上前の話だという。

「日高さんも?」

「それがねえ、男性にはやらないの。狡いでしょう。だから平野はされていないし、ここ数年女の子の新人が来なかったからなにも起きてなかったの。まさか、未だに新人をチェックしているなんて思わなかったわ」

 小村がすまなさそうに言う。だから美琴に伝えることをすっかり忘れていた、と。

 さっき日高が謝った意味がようやくわかった。

「そんな人がいるんですね」

 美琴は驚きとショックの混ざったため息をついた。自分を不採用にしたお店を何年間も攻撃するなんて、美琴には考えられない発想だ。

「だから、さっきのことは気にしないでね」

「……わかりました」

 小村の言葉に頷き返す。

 それでも美琴がきちんと覚えて対応していたら、なにも起こらなかったかもしれない。

 

 クレーマーなんて初めて体験した出来事に、本店を出るとどっと疲れが押し寄せてきた。

「遅くなったな。飯食って帰るか。食いたいもんあるか?」

 ふいに日高に訊かれ、美琴は思わず見返してしまった。昼食を一緒に食べることは多いけれど、夕食を誘われたのは初めてだ。

「なんだよ。疲れた後輩に、たまには奢ってやろうかと思っただけだろ」

 ふて腐れたような日高の声に、美琴を気遣ってくれているのだと気づいた。本当はあまり食欲がないけれど、それでも食べられそうなものを考える。

「お魚食べたいです。一人じゃなかなか食べないんで」

「よし」

 日高はすぐに店を決めたようで、駅までの道を歩き始めた。

 駅前にある落ち着いた和食屋へ入り、案内されたカウンター席に並んで座る。「刺身がいける」という日高の勧めで、刺身の盛り合わせや煮物など数品注文して、日高はビール、美琴はレモンサワーを頼んだ。

 気持ちが弱っているときの美琴はお酒に強くない。ゆっくりと口にする。

「もう落ち込むな。今日のことは忘れろ」

「でも」

「でも、なんだよ?」

 日高がサラダを取り分けながら美琴を見る。

「日高さん、言われたじゃないですか。新人だからは言い訳にならないって」

「言ったな」

 研修中、日高の講義はみんなに震撼が走った。

「今日のことが普通のお客さんからの質問だったとしても、やっぱり応えられなくて迷惑かけて。できてない自分が情けなくて」

 耳元に残る言葉。軽蔑された視線。

 普通のお客さんは口にはしないだけで、自分は本音ではそう思われるレベルなのだと刺さる。

 憧れだけでやってきた自分を拾ってくれたから、ここで頑張りたいと思っているのにやっぱりついていけない自分がいる。

「あのな、端折りすぎだ」

 頭を上から掴まれて、横に向けさせられる。

「新人だから、の後には何が入る?」

「……後?」

「あの講義では、新人だからできないのは仕方ないと言い訳するなと言ったんだ。ちゃんと聞いてたか?」

 研修では、叱られてからの記憶が曖昧だ。

「聞いてなかっただろ」と日高が見透かしたように笑う。ばれているらしい。

「おまえはできないから仕方ないとも思ってないし、言い訳にもしてないだろ」

 ちゃんと知ってくれているのだと、こんなときなのにそれを嬉しく思ってしまう。

「まあ、努力の結果はそれぞれだけどな」

 からかうような口調で何気に記憶力のなさを指摘され、美琴は俯く。

「あんなやつの言うことに惑わされるな。おまえはおまえの大事にしてるもんを忘れるな」

 顔を上げると日高の目はやさしくて、励ましてくれているんだとわかる。

「ほら、しっかり食えよ。明日は新規探しするんだろ」

「はい、いただきます」

 日高がくれる励ましに、美琴はようやく笑顔になれた。

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