第12話 踏まれた気持ち

 跳ねる鼓動を落ち着かせて戻った店内では、見覚えのあるカップルが楽しそうに選んでいるところだった。

「いらっしゃいませ」

「わあ、北川さん。このあいだはありがとう」

 声を掛けると、振り向いた二人は笑顔で迎えてくれた。彼氏のパンツは先日購入していただいたものだった。上は他店のものだけれどいいデザインだ。

「ちょっと恰好よくなったでしょう? 北川さんに似合うデザイン教えてもらって、選ぶのが楽しくなったんだよね」

 彼女の報告に彼は照れくさそうに頭を掻いた。

 美琴よりいくつか年上だろう、無口な彼にお喋りの彼女、というカップルはバランスがよく、やさしく彼女を見守る彼の表情は温かい。

「今日はどのようなものをお探しですか?」

「私、来週誕生日なんです。彼がプレゼントに買ってくれるっていうから、北川さんに選んでもらいたくて」

「それはおめでとうございます。そうですね、彼女さんに似合うタイプだったら……」

 美琴は店内を回り、数点を選んだ。

 白いカットソーに明るい色のスカートの組み合わせ。カットソーは細かいレース模様で、見た目も涼しく柔らかい生地でラインがきれいに出る。

 もう一点選んだワンピースは、胸元で切り替えの入ったレトロ柄。胸の切り替えから下は細かいタックが寄せられているので、膝丈の裾までさらっと流れるような印象になる。全体に濃い色柄なので下着のラインを気にする必要もない。

 試着してもらうと、スカートとカットソーはよく似合うけれど予想通りといえば予想通り。

「これ、どうかな…?」

 次に試着室から出てきた彼女のワンピース姿を見て、彼がほのかに顔を赤くした。華奢な彼女にはよく似合うデザインで、柄物はあまり着ないという彼女の印象が変わる。

「それがいいと思う」

「ほんと? これに決めていい?」

 頷く彼を見上げる彼女に、かわいいなあと目を細めてしまう。

 レジを終え、見送る二人は手をつないで出て行った。

 笑顔で話しながら歩く二人の後ろ姿は、美琴の憧れだ。いつかあんな仲になれる人に出会いたいなあと願いつつ、「仕事仕事」と呟きながら店内へ戻る。

 巡回に戻ろうしたその時、ピピピピッと聞きなれない音が響いた。

 火災報知器とは違うその音に、お客さんの動きも止まる。

「なに?」

 戸惑う美琴のすぐ脇を日高が足早に通り抜けた。向かう方向は出入り口だ。

 倣って美琴も後を追うと、日高は店の外に出たばかりの男の肩を押さえていた。

「事務所でお話しを伺わせてもらいます」

 有無を言わさない日高の声に男が俯いた。日高は平然とした表情ではあるけれど、男の腕を掴むように歩いている。わけがわからないまま後をついていく。

 事務所へ入ると、日高は男性を少し乱暴な仕草で椅子に座らせた。

 普段ではありえない、お客様に対する日高の態度に美琴はうろたえるばかりだ。

「ここへ来た理由を説明しないといけませんか?」

 男の向かいに立つ日高の冷ややかな口調に、男はしばらく視線を泳がせていたが、やがて観念したように上着のポケットに手を入れた。

 ゆっくりと何かを取り出すと、握った拳を机に置き、手のひらを開いた。そして美琴は言葉を無くした。


 それは、今朝美琴が展示した颯の指輪だった。値札もそのままついている。

 なぜこれが男のポケットから出てくるのか。

「すみません、かっこよかったから欲しくて。でも金足りなくて、それでつい…」

 さっきの音は盗難防止のベルだ。精算の際にはずす値札には、とても薄くて気づかれにくい盗難防止のタグがついている。

 つい、盗ったということ?

 颯が作っていた光景が浮かぶ。

 ここになら、GROWになら、と託してくれたものなのに。

「すみませんでした。お返ししますから」

「あとは警察で話してくれ」

 日高が男の言い訳を途中で切った。その表情は見たことのないほど冷たい。

「だからすみませんでしたって! こんな小さな物じゃないですか!」

 警察という言葉に慌てたのかがばっと頭を上げた男に、日高の表情はさらに険しくなる。

「話にならない。ああ、来たな」

 いつのまに連絡していたのか、遠くでサイレンの音が聞こえる。他の客への配慮らしく近づく途中でサイレンが切られ、裏口から出た小村が二人の警察官を連れて戻ってきた。


 残念ながら万引きという犯罪は、ごくたまにGROWでも起きる。

 どんな理由があろうと一律に警察対応にすることを決めてあり、その流れ作業は悲しいことに日高も小村も慣れている。

 いつも腹立たしく思う事案だが、今回は特に日高の気持ちを逆撫でしていた。

「こんな小さな物」その一言は日高を最高潮に苛立たせ、嫁と小さな子どもがいると訴える男への対応に情状などない。

 男を連行する警察官と共に日高も裏口から出ていくと、部屋の隅で黙って立ったままの美琴を、小村がそばのソファに座らせた。

「他のお客様のためにアクセサリー棚を開けているとき、横からさりげなく盗ったらしいわ。お客様を疑うのは嫌だけど、管理に気をつけないといけないわね」

 警察から聞いたのだろう、小村が教えてくれる。

 目の前のローテーブルの上に、スウェードの台座に載った指輪がある。

「少し休憩したらいいわ」

 小村がやさしく声をかけ、事務所から出ていった。

 閉まった扉の音が合図かのように涙が零れ落ちた。

 仕事中はもちろん、ここ最近泣いた記憶はなく、慌てて机の上のボックスティッシュを引き寄せた。早く止めないと、と焦る気持ちとは裏腹に、胸にどんどん込み上がってくる苦しさで息が詰まる。

 下を向いて堪えていると、ゆっくりと肩に手が置かれた。触れる感覚だけで誰のものかわかる。日高が隣に腰を下ろした。

「……颯さんに申し訳ないです。せっかく作って頂いたのに、こんなことになって」

 声に出すとしゃくりあげてしまう。

 他の人に託していたら、誰かに盗られるようなことはなかった。美琴が持って帰ってきてしまったから、颯の気持ちを踏みにじられることになってしまった。

「北川のせいじゃない」

 肩を叩くゆっくりとしたリズムが、固まっていた気持ちを溶かしていく。

 久しぶりに泣いて頭の芯がぼうっとし始めた頃、ようやく呼吸が整ってきた。日高は美琴が落ち着くまで、穏やかな空気を纏って待ってくれていた。

「災難だったな」

 日高の手がそっと肩から離れる。

「ほんとにすみません」

 今まで人前でこんなに泣いたことはなかった。情けない気持ちが沸き上がって縮こまる。

「気にするな、顔洗って来いよ。それじゃ客が逃げていくぞ」

 日高のからかいに憤慨するふりをして、美琴は洗面所へ駆け込んだ。

 鏡に映るあまりに酷い顔に、日高の台詞は本音かもとへこみながら軽く化粧も直す。

 洗面所から戻ると、台座に指輪がなかった。

「しっかり拭き上げて棚へ戻したぞ。今度こそ、いい人のところへ届くからな」

「ありがとうございます」

 ソツのない行動に頭が下がる。自分が買い取ろうかと考えていたのに。

「よし、仕事に戻れそうだな。支店に送る書類を揃えてくれるか?」

「お店に出なくていいんですか?」

「締め切りが近いんだ。店は回ってるから大丈夫だ」

 日高に指示された書類を揃えると、次は会議資料の作成を頼まれ、美琴は最後まで事務所に籠って作業を続けた。

 無心でキーボードを打つことで、終わる頃には気持ちも落ち着いていた。



 閉店を迎え、スタッフそれぞれの帰路に着く。

 美琴は小村と日高に誘われ、一緒に食事をしていた。

 隠れ家のような小料理屋だ。日高は時々来るらしいが、美琴はこんなお店は初めてできょろきょろしてしまう。

 磨かれた木のどっしりとしたカウンター席の向こうでは、着物姿のおばあちゃんと呼べる年齢の女将さんが切り盛りしていた。

 カウンターばかり十席ほどの店内はどのお客さんもまったりと過ごしていて、時間の流れが緩やかだ。

 日高を挟んで三人で並んでカウンターに座り、お任せで出してもらう料理はどれも家庭的で美味しく、気持ちまで温かくなる。

「今日はすみませんでした」

 あらかた食事が進むと、美琴は二人に頭を下げた。

「何言ってるの。美琴ちゃんは悪くない。あいつが悪いんだから気にしないの」

 小村がお客さんをあいつ呼ばわりしているのを初めて聞き、美琴は目を瞬かせた。

「あんなのお客じゃないわよ」

 お酒が入っているせいか、小村の目は据わっている。

「時々あるのよ、お店をしていたらどこでもね。どんな理由があろうと赦されることじゃないんだから、美琴ちゃんが気に病むことはないの。明日からまた頑張ってね」

「……はい」

「そうだ。美琴ちゃん、書類作成上手ね。すごく読みやすいわよ」

「そうですか? ありがとうございます」

 資料を作ることは接客と同じくらい苦にならない。なのになぜ、たくさんある部署の中で一番苦手な仕入れに回されているのだろうと未だに疑問だ。

「会議資料だって、日高くんよりカラフルで図が見やすかったわよ」

「難しい言葉が書けないだけですよ」

 日高が作った物よりも見やすいなんて恐れ多い! 

 美琴は慌てて首を振り、落ち着かない気持ちで残っていたビールを飲み干した。


 資料の話からその中身へと話題が変わり、美琴にはついていけない仕事の話になった。

 話し込む二人の姿は、傍から見ればお似合いだなとぼんやり眺める。

 日高さんの邪魔をしたら悪いな。せっかく二人での食事の場だったのに、気遣わせてしまった。

 ビールから日本酒に移っていた日高の手元に目がいった。美琴は普段日本酒を飲まないが、こんなお店で味のあるお猪口や徳利で出てくると美味しそうに見える。

「ちょっとください」

「飲み過ぎるなよ」

 日高とのやり取りに、女将さんがお猪口を出してくれた。日高に注いでもらい、そっと口をつけると思ったよりも飲みやすく美味しい。

「美味しいですね」

「そうか。けっこう度数高いから気をつけろよ」

 美味しいお酒も飲めたし、日高のために先に帰ろうかなと算段をつけた。



 遠くで声がする。

 なんて言ってるんだろう? 誰の声? 怒ってる? 

「北川、そろそろ起きろ」

 それが日高の声だと認識するなり、美琴は飛び起きた。

「すみません‼」

 がばっと体を起こし、目の前の見慣れないカウンターに記憶を掘り起こす。

「そんなに急に動いたら目ぇ回すぞ」

「す、すみません。寝ちゃったみたいで」

 一気に状況を把握して美琴は青ざめた。

「いい。終電までに帰らなきゃまずいだろ」

「もうそんな時間ですか。あれ? 小村さんは?」

 日高の向こうは空席になっている。 

「先帰った」

「わあ、ほんとにすみません」

 日高も一緒に帰りたかっただろうに悪いことをした。

「そんなに謝らなくていいから。ほら、帰るぞ」

 もうジャケットまで羽織っている日高に促され、急いで帰り支度をした。

 今日は小村が半分出してくれたとのことで、残りの三分の二を日高が、その残りを美琴が支払った。

 外に出ると少し湿気を帯びた空気が体を覆う。梅雨も間近だ。

 一緒に電車に乗り込み、美琴の降りる駅が先に来る。

「気をつけて帰れよ」

「大丈夫です」

 少し寝たせいか足取りはしっかりしている。日高に見送られ電車を降りた。

 改札を抜けて十分足らずで自宅のアパートだ。一緒に電車を降りた人たちは方向が違ったらしく、一人で家までの道を歩く。慣れた道だが真夜中はやはりすこし緊張する。

 ふと、後ろから近づく足音に気づいた。気のせいかと思ったが、距離を詰めるわけではない。

 美琴が速度を緩めると同じように緩め、速めるとついてくる。

 鞄を持つ手に力が入り鼓動が速くなる。どうしよう、このままダッシュで逃げるべき? それとも顔を見てやるべき?

 とりあえず逃げようとダッシュしかけたら、

「悪い、走るな」

 後ろから聞きなれた声が呼び止めた。

 まさかと思いつつゆっくり振り向き、美琴は膝から力が抜けそうになった。

「日高さん…?」

 電車で別れたはずの日高が、暗がりの中困ったような顔で立っていた。

「びっくりするじゃないですか! なんでここにいるんですか⁉」

 美琴は驚き過ぎて、半分怒ったような口調になってしまった。深夜なので声を落とすがそれでも響く。

「悪かった。降りた客が少なかったから、家まで一人じゃないかと気になって」

「家までついてくるつもりだったんですか?」

「ストーカー扱いするな、見送ったら帰る。変な言い方やめろ」

「だったら最初から声かけてくれたらいいじゃないですか」

「途中で追いついたんだ。不審者扱いで大声でも出されたらややこしいだろうが」

「そりゃあ…」

 ばっちり不審者扱いしましたけど。

 美琴は日高と並んで家まで歩く。さっきの道の続きだと思えないくらい、暗がりでもまったく平気だ。

「でも日高さん、こんなところで降りちゃって、電車ありますか?」

「終電にはまだ時間がある。一緒に食事したあとになにかあったら事だろ」

「なにもないと思いますけど。リーダーってこんなな気遣いまでいるんですか。お手間かけてすみません」

「気にしなくていい」 

 仕事終わってからも大変ですねー、と美琴は縮こまりながら呟いた。

「ここか?」

「そうです」

 美琴の住む二階建てのアパートは古いけれど造りがしっかりしていて、大家さんもいい人で住みやすい。

「ありがとうございました」

「さっさと部屋に入れよ」

 日高にお礼を言って外階段を上り、美琴は二階の自分の部屋へ急いだ。部屋の明かりをつけ、カーテンをそっと開けると日高の姿はなく、夢だったのかと思えるほどだ。

 小村と二人きりにと思ったのに、寝てしまったあげく自宅まで送ってもらうことになるなんて。自分の失態が情けなく、日高にたいして申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

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