第18話 その先にあるもの
やり切れない気持ちを抱えていても、仕事はこなしていかないとどんどん溜まっていく。
美琴は展示会で出会った望月に会いに行き、数点のニットの契約を結んだ。美琴にとって二人目のサプライヤーだ。契約書も今度は自分の力で作りたい。日高に返されないよう細心の注意を払って打ち込んでいく。
定時を超えても終わらない仕事を抱えて、美琴がパソコンに向かっているとスマホが鳴った。液晶に呼び出された名前に、大きく深呼吸をしてから出る。
「美琴、知ってたんでしょ」
耳に届いた低い声に、ぎゅっと目を瞑る。
「……ごめん」
「ううん、私こそごめん。気まずかったよね。さっきうちの部長から聞いた」
自嘲したような風香の声に相槌は頷くだけになってしまい、沈黙となる。
「もうさー、なんでこんなことになるんだろう。すっごい悔しい」
「うん…」
声を抑えているけれど、やり場のない風香の気持ちが伝わってくる。
「製造部にも、縫製の人たちにも申し訳ないし。…でも、延期にするだけで作り直して出してくれるって」
「本当に? よかったぁ…」
元々そのつもりだったのかもしれないが、藤井たちに日高の言葉が伝わったのだと安堵する。
「最初の『特別』にケチついちゃうと、ほんとにへこむね。美琴のこと、ちゃんとわかってあげてなくてごめん」
「なんのこと?」
言いかけて、颯の指輪の事件のことだと思い当る。
風香には電話で愚痴を聞いてもらった。万引き犯に憤ってくれたけれど、きっと今、あの時の美琴と近い気持ちを感じているだろう。
美琴にとっての最初の作品。風香の最初のデザイン。
周りにはなんてことないものでも、そこにはいろんな思いが詰まっている。
美琴も気づかないうちに、誰かを傷つけていたことがあるのかもしれない。
踏みにじられることでこんなに悲しい気持ちになるんだと知ったことは、唯一、美琴にとってあの経験のプラスになったことだ。
自分のまわりの人たちをあんな気持ちにさせたくなかったのに、風香が遭うとは思いもしなかった。だから自分が切られたように痛いし、風香に寄り添いたいと思う。
今度食事に行こうと約束をして美琴が電話を切ると、席へ戻ってきた日高と目が合った。両手に持っていたコーヒーカップを一つ美琴の席に置いてくれる。
「ありがとうございます。あのスカート、ボタンをつけかえて出すことになったそうです」
「そうか。よかったな」
ぺこりとコーヒーのお礼をしながら言った美琴の報告に、日高が頷いた。
美琴も休憩に入ろうと置かれたコーヒーカップを持ち、ちらりと日高を盗み見る。自席でコーヒーに口をつける日高は、珍しくぼんやりとした表情をしている。
流行りのイケメンではないけれど、整った顔立ちで造りはいいと思う。性格は顔に出るというけれど、日高は仕事に厳しいだけで性格も悪くないし、いい表情をしているんじゃないだろうか。
美琴の視線に気づかないことをいいことに、まじまじと観察してしまう。
「そういや、spin・hの契約書はできたのか?」
日高が急にこっちを向いたので、美琴はのけ反りそうになってしまった。コーヒーが気管に入り思いきりむせる。ゴホゴホと咳き込む美琴を「なにやってんだ」と立ち上がった日高が背中をさすってくれる。
「大丈夫です、すみません。契約には明日行ってきます」
「明日? もう約束しているのか?」
落ち着いた美琴の様子に席へ戻りながら、日高の声が鋭くなったように思えた。
「はい。夕方なら浅野さんの都合もいいそうなので、仕事場にお伺いするつもりです」
「わかった、俺も行くから」
「……はい」
日高にチェックしてもらった契約書にサインをもらいに行くだけなのに、それでもまだ一人で行かせてもらえないほど信用されていないのだという評価が痛い。
仕事モードに入ったらしくパソコンを開いた日高の横顔に、美琴は悔しさと情けなさの交ざった一瞥をくれてから、契約書作成の続きに取り掛かった。
翌日の夕方。
揃えた契約書に何も問題なく颯にサインをもらい、契約はあっさりと結ばれた。今回の作品をケースにしまい、鞄にしっかりと入れる。
一人でも出来たのにと内心で愚痴る美琴を置いて、日高は颯と話している。出されたコーヒーは、千春がお店から運んできてくれたものだ。
「あのスピーカーもこちらで作られたのですか?」
日高は、棚に置かれたスピーカーに目を奪われていた。
「ええ、そうです。外枠だけですが」
「あのブランドはデザインもいいし、重低音が効くので人気が高いですよね。それを浅野さんが手掛けられたとは。デザインも浅野さんですか?」
「ええ、まあ」
「さすがですね」
今日初めて工場へ入った日高は、棚に並べられた製品に驚いたようだ。
スピーカーや精密機械の部品に感嘆の声をあげている。
「俺一人で作っているわけじゃないですし。技術は父の方がもっと高いですから」
困ったように頭を掻く颯の表情は赤く照れていて、めったに見ることができない。美琴のことは軽くあしらえても、日高相手だとそうはいかないのだろう。
珍しく饒舌な日高と褒められて若干困った様子の颯の姿に、美琴は吹き出しそうになるのをこらえながら、颯への助け舟のつもりで腕時計に目をやった。
「日高さん、そろそろ…」
「ああ、そうだな。長居をしてしまいすみません。では、今回もありがとうございました」
「こちらこそ。よろしくお願いします」
挨拶を交わす二人を微笑ましく見守りながら、美琴も席を立った。
仕事中だった工場長や他のスタッフにもお礼を言って工場を出ると、辺りは夕焼けの色に包まれていた。遠くに見えるオレンジ色に染まった河川敷の道にはゆったりと歩く学生が連なり、ノスタルジーに浸れる景色だ。
敷地前まで見送りに出てくれた颯に会釈を返した美琴は、暁人の仕事場である、隣に建つ工場に目を留めた。出てきた二人組に見覚えがある。
「……藤井さん?」
製造部の藤井と上園だ。向こうも美琴たちに気づいたようで、会釈をするとこちらへ近づいてくる。
「こんなところで会うなんて、すごい偶然ですね」
言いながら隣を見上げると、日高はなぜか一瞬顔をしかめた。
「日高さん、北川さん。この間は失礼しました」
「お疲れ様です。今日は営業ですか?」
「いえ…。ここがあのボタンを作った工場なんです」
藤井は颯の存在を気にしてか、美琴の耳元で小さく囁いた。
「えっ?」
それって風香のボタンのこと? それと暁人の工場が関係あるってどういうこと?
美琴の頭の中で、処理しきれない疑問が膨れ上がる。
困惑したまま藤井を見つめ返すと、隣の工場から怒鳴り声が聞こえてきた。
何を言っているのかはっきりとはわからないけれど、合間に聞こえるのは暁人の声だ。
颯も驚いた表情で暁人の工場へ視線を送っている。
「とりあえず今回の取引は中止にして、別の工場から取り寄せました。詳細はまた日高さんに報告します」
「わかりました」
「それでは、失礼します」
日高の返事を聞くと、颯にも挨拶をして二人は足早に駅に向かって去っていった。
呆然とする美琴の前で、暁人が工場から出てきた。両手を作業着のポケットに入れて、肩を落として歩く姿はふて腐れているように見える。
「暁人!」
颯の声が響き、暁人がゆっくりとこちらを向いた。美琴の姿を捉えた目が見開かれる。
「暁人さん、どういうことですか?」
駆け寄った美琴から、暁人は目を逸らした。
「あー、うん。…まいったな」
「なにやったんだよ。あの親父さんがあんなに怒鳴るなんてないだろ」
颯も美琴の隣に立ち、暁人は気まずそうに口を尖らせる。
「いやー、まさかGROWの商品になるとは思わなかったんだよね」
「どこの商品になろうと一緒だろ」
へらっと笑う暁人に、事情を察したらしい颯が詰め寄る。
「ちょっと素材選択ミスっちゃってさ」
「素材なんか契約で決まってるだろ? 出す前に気づかなかったのか?」
「見た目気づかれなかったし。期限迫ってたしさ。こんなまばらな強度になるとは思わなかったんだよ」
なに? どういうこと?
気づかれないならいいと思ったわけ?
後頭部にやった片手で髪を掻きながら、暁人が美琴に困ったように笑いかけた。 そのごまかすような笑い顔に、美琴の怒りが噴き上がる。
「気づいてたのにどうして? それで困る人がいると思わなかったの?」
「どうしたの、美琴ちゃん? 怖い顔して」
声を荒げた美琴に、暁人は目を丸くしている。
「そりゃ美琴ちゃんの会社には悪いことしちゃったけど、ちょっと間違えただけだし」
開き直ったような言葉を、暁人の口から聞きたくなかった。
その適当にした仕事がどれだけ風香を、関わった人たちを傷つけ引っ掻き回したのかわかっていない。
美琴も自分の数々の失態を棚に上げて人のことを言えた義理ではないけれど、それでもミスしたことを隠したことはない。そんなことしてもどこかで見つかり、それは後になるほど事態が大きくなることくらい想像がつく。
「どうせ俺は、颯みたいにすごいもの作ってるわけじゃないしさ」
投げやりな口調で、急に引き合いに出された颯の顔が強ばる。
傷ついた颯のその表情を見た途端、美琴の中でなにかが弾けた。
「颯さんみたいな作品が誰にでも作れるわけない! そんなこと暁人さんが一番知っているでしょう!」
掴みかかりそうになる美琴の肩を日高が押さえた。
「特別すごいものじゃなくても、暁人さんだって必要とされて頼まれたんだから、責任持って作ってください」
「なんだよ、美琴ちゃんまで親父みたいなこと…」
訴えるような美琴を見下ろし、暁人が呟く。
「どんなに小さなものでも、その先は誰かに繋がっているんです」
美琴はそこまで言葉にすると俯いた。日高に教えられた数々の言葉が浮かぶ。喉の奥がつかえて、これ以上口にすると何を言い出すか自分でもわからない。
大きく息を吐き出すと、はっと我に返った。
「ごめんなさい、言い過ぎました。……失礼しますっ」
颯に頭を下げると、美琴はその場から駆けだした。
駅に向かう道を走り、途中で息が切れ足を止める。気づくと、商店街の手前にある広い公園まで来ていた。美琴はそばに置かれた木製のベンチに座り込んだ。
夕暮れのオレンジだった空はいつのまにか半分以上が濃紺に覆われ、見上げると細い三日月が浮かんでいる。
ふと思い出し、慌てて鞄の中を覗く。
そっと開けたジュエルボックスには、入れたままの形で颯の作品が収められている。一つずつスポンジで包まれているものの、無造作に鞄を揺らして傷つけなくてよかった。暁人に向かって責任持てなんてよく言えたものだ。
そっと鞄に戻す手の動きがおぼつかない。膝の上で小刻みに震える両手を握りしめる。
「どうしよう、やっちゃった…」
いくら風香が絡んでいて頭に来たとはいえ、担当でもないのにあんなに口を出してしまうなんて。だけど、傷ついたような颯の表情を見ると止められなかった。
「その靴でよくそんなに走れるな」
呆れたような声が降ってきて、顔を上げると日高が大きく息をついた。なんのことかと足元を見る。ヒールだが低めだし、歩きやすさを重視したパンプスなので走るのには不自由しない。
「おまえ、俺の存在覚えてたか?」
「……すみません」
一緒にいたことをすっかり忘れていた。けっこう走ったような気がするが、追いかけてくれたんだろうか。
「ほんとに……まあ今更か」
日高は口の端っこで笑うと、持っていた小さなペットボトルの紅茶を美琴に渡した。隣に座り缶コーヒーを開ける。
「すみません。藤井さんの担当なのによけいな口出しして」
「まあ、おまえにとっては、取引先というか知り合いというか微妙なところだろ。言ったことは間違っちゃいない」
肯定されていると思っていいのかな。
美琴はもらった紅茶を開けた。甘い味が喉を通り気持ちが落ち着いてくる。ゆっくりと頭の中が動き出すと、ふと思いあたった。
「日高さん、もしかして知っていたんですか? 暁人さんの工場だって」
横を向いて日高の顔を見ると、気まずそうに目を逸らされた。
「はっきり知っていたわけじゃない。藤井さんからの経過報告で、浅野さんと住所が近いのと、工場名があいつの名前と一緒だったからもしかしてと思っただけだ。まさか張本人だとは思わなかったけどな」
「藤井さんたちが今日行かれることも知っていたんですね」
黙ったままコーヒーを飲む日高は否定しない。
だから一人でもできる内容にも関わらず、美琴に付き添ってきたんだとわかる。
「藤井さんたち、もう少し早く帰る予定だったんだけどな。変に引き延ばして失敗したな」
苦笑する日高に、今日は颯相手にやたら饒舌だった意味が解けた。
どうして日高はいつも先回りして気を遣うのだろう。
そうか、こうなることが目に見えていたからかと納得する。
「落ち着いたか? 会社に戻るぞ」
信頼は、普段の仕事で積み上げていくしかない。立ち上がって駅へ向かう。
「おまえさ…」
「なんですか?」
背中からの声に振り返ると、
「いや、やっぱいい」
日高は思い直したように首を振った。
言いかけてやめるなんて珍しい、と少し気にかかったが、「今日は飯どうする?」その言葉に引っ掛かりは消え去った。
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