第10話 託される輪

 お昼時は近所の人たちで混んでいる「BLUE STAR」だけれど、夕方早い時間帯の店内は空いていて、美琴は颯、暁人とテーブル席で向かい合っていた。

 美琴の隣には、初めてここを訪れた日高が座る。

「では、こちらにサインをお願いします」

 美琴が指した空欄に颯がペンを走らせた。

 丁寧な文字で、『浅野颯』に続いて、ブランド名『spin・h』が並ぶ。

 一点ものの作品には、手間だけれどそれぞれに契約書が必要となり、各作品の写真も添付してある。


 颯が書き込む契約書は、美琴が日高に何度も叱られながら作り上げたものだ。

 社内の定型契約書に沿って作ればいいだけなのに、初っ端で甲欄にうっかりGROWと打ち込んだ美琴は、日高に甲乙丙丁の基準から指導を受けるはめになった。 何度も作り直してようやく出来上がった契約書に、颯が署名を入れる姿を感慨深く見守る。


「ありがとうございました」

 書き終わった颯に向けて深くお辞儀をする日高に、美琴も慌てて倣った。

 颯から渡された書類を日高が一枚一枚チェックしていく。

「結構です。では、こちらが浅野様のお控えとなります」

 日高が社名の入った茶封筒にサプライヤー控えの契約書を入れて差し出すと、颯は軽く会釈して受け取った。

 日高から社内控えの封筒を渡された美琴は、無意識に一瞬胸に抱きしめた。

 なんとしてでも颯に気持ちを伝えたかったし、諦めるつもりもなかったけれど、本当に颯の作品を扱えることになるなんて。

 初めてのサプライヤーがこんなに素敵な作品を作る人になったことを、颯に、暁人に、日高に、感謝しかない。

 テーブルの隅には、今回契約した作品が木製のトレーに並べられている。

 日高はトレーに置かれたリングを丁寧に手に取った。

 先日颯が彫り上げたものだ。

「北川からspin・hのブランド名を聞いた時、正直、最初は疑いました。同じ名を語った詐欺商法かな、と」

「え……?」

 おもむろにゆっくりと話し始めた日高の話す内容の意味がわからず、美琴は訝しげに日高を見た。向かいに座る颯は表情を変えず日高を見つめ、ははっと笑い声をあげたのは暁人だ。

「そんなこともあったな。警察からの連絡にみんなで仰天したよな」

「だから、北川から写真を見せられて驚きました」

「写真だけでわかるもんですか? 五年間、表立って出していないですけど」

 どこか挑発的な笑みにも見える暁人に、日高は落ち着いた態度を崩さない。

「もちろんですよ。私も惚れ込みましたからね」

「それは光栄だな、颯」

 暁人は、無言で日高を見つめている颯の肩を叩いた。

「契約書まで取ってお聞きすることではないですが、どうして今回うちと契約される気になられたのですか?」

 三人の中では明瞭に進んでいるらしい話を、美琴だけがついていけない。一人だけ蚊帳の外にいるようだ。

 目を伏せた颯に代わり、暁人が続ける。

「美琴ちゃんがなにも知らずに作品を気に入ってくれたからですよ。そりゃあ熱烈なアプローチでしたよ。GROWさんが戦法を変えたのかとも思いましたが、すぐに美琴ちゃんの本心だと伝わってきたので」

 出会ったときのことを言われているのがわかり、美琴の頬が熱くなった。

 暁人はのぞきこむように美琴に笑いかけてくる。肩をすくめつつ、美琴は今の話を反芻した。

 過去にGROWが颯にオファーしたということなんだろうか?

「あとは颯の直感ですね。昔、デザインを転用されたことがあるんです。俺たちも知識がなかったので管理が悪かったせいもあるんですが。まさかそんなことをするようなブランドだとは思っていなかったので、けっこうショックでした」

 暁人の話に思わず颯を見ると、視線を落としたまま無表情に聞いている。

「それ以来、他人を自分のスペースに入れることのなかった颯が、美琴ちゃんは受け入れた。じゃあ美琴ちゃんに、GROWさんに預けて大丈夫だろうと」

 思わず美琴が颯を見やると、なんだよ、と拗ねたような無声音が返ってきた。

「えらく北川に信頼を頂けたのですね」

「それは日高さんもわかっていることでしょ? 俺たちも、美琴ちゃんの人柄を知っていたしね」

「へっ?」

「北川をご存知だったのですか?」

 驚く日高と美琴の反応を暁人が面白そうに眺める。

「一方的に、だけどね。変わらずいい子ですよね」

「ええっ、どこでお会いしました?」

「さあ、どこだと思う?」

 予想外の暁人の言葉に美琴はパニックになる。二人と出会った記憶はない。

「まあ、そんなことも含めてGROWさんにお任せしようと思ったので。颯をよろしくお願いします」

 話を締めた暁人はもう答えてくれそうにない。

 釈然としないまま、日高と二人で「こちらこそよろしくお願いします」と深々と頭を下げた。


「定期的にご連絡させていただきますね」

「よろしく。こっちに来る用があれば食事においでよ」

「ありがとうございます」

 お店の前まで見送りに出てくれた二人が、いつもと同じペースであることにほっとする。さっきは契約の場だったからだろうが、口調も態度もいつもと違う人のように見えていた。

 託された作品は、専用のジュエルケースに入れて美琴の鞄の奥に入っている。

 お店へ並べるまで傷つけてはいけない。鞄を持つ手に力が入る。


 日高と並んで駅まで歩く道すがら、美琴はさっき輪に入れなかった話の内容を尋ねた。

「颯さんに、GROWがオファーしたことがあるんですか?」

「……もう五年前になるかな」

 五年前、颯が二十歳の頃だ。日高が二十二、三。新人の頃だろうか。

「それより、どこで会ったのか覚えてないのか?」

「すみません。まったく覚えていないです」

「ほんとに、おまえの記憶力は…。まあ、一方的とは言ってたしな。しかし気になるな」

 一体どんな場面を見られていたのだろう。恥ずかしい出来事だと嫌だなあ、なんて逡巡しているうちに駅に着いた。

 電車の到着まで時間があり、人の少ないホームのベンチに並んで座ると、日高は鞄から一冊の雑誌を取り出した。ファッション誌のバックナンバーだ。

 無言で渡された美琴はわけがわからないまま付箋の貼ってあるページをめくる。

「あ、これっ!」

 その記事の文章を読まずとも、写真のネックレスだけで颯の作品だとわかった。

 記事によると、二十歳だった颯が、若手デザイナーの登竜門となっているジュエリーコンテストで特別賞を受賞した、というものだった。

 通常はダイヤモンドや宝石類のついたジュエリーが選ばれる中、シルバーのみで施した颯のデザインが受賞したことは、きわめて稀なことだったらしい。


「颯さん、こんなすごい賞を取っていたんですか……」

「やっぱり知らなかったんだな」

日高がくすりと笑った。

「当時はけっこう注目されたぞ。近年ない逸材だって、いろんなブランドや店が打診したし、うちからも…俺がオファーに行った」

「日高さんが?」

 顔を上げた美琴に、日高は懐かしそうな表情を見せた。

「ああ。賞なんて抜きにしても、丁寧で繊細なデザインと技術に惚れた。あっさり断られたけどな」

「それでさっきの話だったんですね」

 一人だけ話が見えず、ヤキモキした会話の意味がようやくわかった。

「だけど、しばらくしたら作品が出なくなってな。たまに名前を語る偽物が出ては、レベルの低さに偽物だと叩かれる話があるくらいで消息は不明だった。だから最初におまえが話を持ってきたときは、本気で騙されてきたなと思った」

「騙されてきたって失礼ですね! そもそもこんな受賞歴知らなかったんですから、騙されようがないですよ」

 日高からそんな風に思われていたなんて考えもしなかった。

 でも思い返すと、spin・hの名前を最初に出したとき難しい表情をしていた。もしかしたら日高なりに心配していたのだろうか。

「悪かった、よくやったな。ここからだから頑張れよ」

 普段厳しい日高から、初めてこんなにまっすぐに褒められ、美琴の鼓動が跳ねあがる。それは思った以上に嬉しい言葉だった。


 

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