第3話  あたえられた場所

 どんな心境だろうと、時間は平等に過ぎて朝は来る。


 慣れたベッドだからなのか、おもいほか深く眠っていたらしい。疲れが取れて体が軽くなったぶん、気合いで起き上がった。

 いくら嫌でもここまできて今さら逃げ出すのは性に合わない。

 初日なので、無難にグレーのパンツスーツと白のブラウスを合わせる。お化粧は普段から軽くしかしないけれど、それでもいつもよりは丁寧に施した。

 鏡をのぞき、両頬を軽く叩く。


 混雑する電車に揺られて三十分。駅から徒歩数分で、GROWの入っているオフィスビルにたどり着いた。十階建てのビルには様々な企業が入居しているので、他社の様子も垣間見られる。

 エレベーターに乗り合わせたスーツ姿の男性二人が、小声で話し合っていた。

「昨日の書類ですが、構図の決まらないところがあって。見ていただけますか?」

「会議までなら時間あるからいいよ。すぐ持ってこいよ」

「お願いします」

 頼んだ方がピシッとしたスーツにピカピカの革靴が新人っぽい。頼まれた方はベテランクラス、やさしい雰囲気で穏やかそうだ。

 いいなあ、こんな上司なら働きやすそう。なんて羨ましがっているうちにGROWの入る七階に着いた。GROWは七階、八階の全フロアを借りている。


 エレベーターホールから続く扉に、首から下げたIDカードをかざして解錠した。入社式後にあったオリエンテーション以来だ。

 開いた扉は広めの廊下につながり、左右に応接室や会議室、給湯室など数部屋があり、そのまま奥へ進むと、各部署のデスクがずらっと並べられている。ところどころ簡単なパーテンションで仕切られているものの、ほぼ全体を見渡せる。

 八階も同じ広さだけど、企画部が入っているのでフロア半分が独立した部屋になっている。デザインの扱いは厳重に行われているらしい。

 すれ違う人と挨拶を交わしながら商品管理部のスペースへ移動する。途中で違う部署の同期に会い、お互いなだめ合うように声をかけた。

 商品管理部のブースは十ほど並んだデスクにすでに大半が出勤していて、奥に唯一知っている顔が座っていた。パソコンに向かい忙しくキーボードを叩く、その目線は厳しい。

「商品管理部の新人さん?」

 声に目をやると、一番手前の席に座っていた女性がこちらを見上げている。

「はい! 昨日辞令をいただきました。北川といいます」

 笑顔が引きつっていることは自覚しつつ、とりあえず第一印象が大事だと元気よく返事をする。

「待ってたのよ。私は吉岡、よろしくね。新人担当はね、えっと……」

 立ち上がってデスクを見渡す。

「日高ー!」

 席から立った吉岡が、気軽に日高を呼んだ。

 まさかの名前に、心の中で動揺が吹き荒れる。手を止めてこちらを見たのは、間違いなくあの日高だ。新人担当は二、三年目あたりの先輩だなんて吹き込んだ風香を恨む。

「北川さん来たわよ」

「ああ、おまえか」

 近づいてくる日高はいきなりのおまえ呼ばわりで、背筋が伸びる。

「日高恭介だ、よろしく」

「よろしくお願いします」

 笑顔なんてない気難しい表情は、これが素なのだろうか。研修中のことを憶えているのか不安になるけれどとても聞けない。

「日高、不愛想だけど気にしないでね」

 耳元で吉岡が笑い、美琴の背中を押した。

「部長に挨拶行くぞ」

 言われるまま、商品管理部の一番奥、みんなを見渡せる配置の席についている女性の元へとついていく。

「部長、新人の北川です」

 日高の言葉に、書類に目を通していた女性が顔をあげた。四十代だろうが、癒し系の笑顔がかわいい。ふわふわとした肩までの髪がきれいに揺れる。

「楽しみにしてたのよ」

「こら、挨拶」

 にっこりと微笑む笑顔に見惚れていた美琴はワンテンポ遅れてしまい、日高に促されて慌てて頭をさげた。

「商品管理部長の伊藤です。わからないことはなんでも日高くんに聞いたらいいからね」

 なんでもなんて無理です!

 心の声は言葉にはならなかったようで、実際には「はい!」と返事をしていた。

「元気いいわねえ」

 くすくすと笑う伊藤のやさしげな表情からは、とても部長職を務めているようには見えない。それにしても美人の多い会社だ。美人のカテゴリーとは無縁の自分が浮いて見える。


 日高はその場で美琴を方向転換させ、部全体へと向けた。デスクからみんながこちらを見ている。

「今日からお世話になります。北川美琴です。よろしくお願いします!」

 腰から折るように挨拶をすると、拍手が返ってきた。

「初々しいなあ。美沙にもこんな頃があったのになあ」

「そうそう。かわいかったよな」

「そこ、うるさい。ここで鍛えられたおかげでこんな性格になったんです。どうしてくれるんですか」

 最初に声をかけてくれた吉岡が、席の中ほどからかかった声に言い返す。

「ほら行くぞ」

 言い合うやりとりを放置して、自席へ戻る日高についていく。


「おまえはその席な。パソコンはまだ設定してないからあとでやってやる」

 備品のノート型パソコンの置かれている席は、日高の隣だ。

美琴の心は折れそうになる。

「商品管理部は二つの部門にわかれてる。向こう六人は、店舗管理とネット販売管理。こっち側の四人は仕入れ担当だ」

「仕入れ⁉」

 淡々とされた説明に、美琴は声が裏返った。

 仕入れといえば店の商品を外から選んで購入してくる仕事だ。まさか新任早々そんな大役が来るとは思ってもいない。

「なんだ? 仕入れだと不都合あるのか」

「いやっ、だって新米でそんな!」

 仕入れ業務は店舗で何年間も経験を積んで、目の肥えた人がやることだと思っていた。

「うちは小規模だから、挑戦的なことだってありなんだよ」

 挑戦的って……それはそれでリスキーな採用をしてみたと宣言されたような気がする。

「店舗でバイトやってたんだろ。六年だったか」

 履歴書には少しでもポイントになるかと、高校大学でのバイト経歴は書いた。それがこんな高得点な扱いになるとは思いもしない。

「仕入れは一応、俺がグループリーダーだ」

 社内の組織図を思い出す。役職は部長以上、その下に各部リーダーがいる。

「リーダーって言っても形式上だけどな。仕入れ担当はこっちの席でまとまっていて、俺の向かいの席が友永さん」

「よろしく」

 立ち上がって挨拶をくれる友永は、三十代後半か。少し丸い体格に温和な雰囲気で安心感が沸く。

 明らかに友永の方が年上だけれど、日高がリーダーなのか。研修でも年功序列ではないと言っていたなと考えていると、

「友永さんは最近まで企画部だったんだ。オリジナルブランドでヒットを連発して、そのセンスを買われて、名古屋店準備のために移動されてきた。名古屋店の中心だぞ」

 美琴の単純な思考を見透かしたように、日高が説明を入れた。いやいやと照れて首を振る友永を見る目が変わる。

 美琴の向かいは、同年代の男の人。

「森谷悠真です。よろしくね」

 人懐っこい顔をした森谷は、立ち上がると笑顔で机越しに手を差し出し、美琴と握手を交わした。新人指導はこの人がよかったと心底思う。

「それぞれ担当の店舗につく。地域によって仕入れ内容が変わるからな。森谷は関西、友永さんは名古屋、俺とおまえは本店だ」

 本店はここから電車で二駅隣り、瀟洒な店が立ち並ぶショッピング通りにある。

 将来的には東北や九州への出店も予定されているけれど、まだ下準備の段階だと研修で聞いた。

「でも四人だけって少なくないですか?」

「継続的に仕入れている発注は各店舗に任せているし、関西は店長が補佐をしてくれる。ここでは統括と、新規発掘や一点物への発注がメインだ。忙しいが回らないことはないからな」

「なるほど」

 美琴は持参した小さなメモ帳を手に書き込んでいく。

「新規開拓やサプライヤーとの打ち合わせは、店舗まわりと兼ねる。慣れるまでは一緒に動くから」

 日高と二人で担当な上、一緒にまわると聞いて憂鬱になる。

 友永は名古屋へ出張だと席を立つと、日高は美琴のパソコン設定をはじめた。

「このままじゃメールも使えないからな」

 愚痴を言いつつも、日高の指は美琴のタイプする倍のスピードで動いていく。 

「ほら、パスワードなにか考えろ。八桁以上だぞ」

「はい、ええと……」

「忘れるなよ」

 慌てて考え、念のために手帳に書き留めようとすると日高はそっぽを向いた。数字やアルファベットの混ざったパスワードを慎重に打つ。

「できました」

「じゃあもう使えるから。それクリックしたら社内のネットワークに繋がる。メールはこれ、各店舗のデータはここ、受注内容はこれで、過去の……」

「ちょっと待ってください。メールがここで、データがここの…」

「研修で話しただろ」

 日高のむすっとした表情と口調に冷や汗が出る。

「すみません。スライドでぱーっと流れちゃったので」

 覚えきれませんでした、と正直に白状する。それに実際自分で触れるほうが圧倒的に頭に入る。

「あれこれ触ってみたらいい。わからないことは聞けよ」

「はい」

 日高は自分の席に戻ると、なにやら手早く打ち込みだした。画面を見つめる表情はやっぱり怖い。

「北川さん、いくつ?」

 社内データを見ていると、向かいに座る森谷から小声で訊いてきた。

「二十二です」

 隣の日高を気にしつつ、美琴も小さく答える。

「いいねえ」

 森谷はニコニコしているけれど、なにがいいんだかよくわからない。

「地元?」

「いえ、地元は……」

「森谷、そんなことは休憩時間に聞けよ」

「すみませーん」

 日高の注意に森谷は、「怒られちゃった、あとでね」と全然反省してない顔で笑った。

「覚えるのは実際やりながらの方が早いな。北川、今から本店行くぞ」

 立ち上がった日高に、美琴も慌ててパソコンを閉じると鞄を持った。

 本店までは電車移動だ。使った交通費は毎日記入する行動表と連携していて、部長の承認が押されると清算され、後日支給されると説明を受ける。

 乗った車内は、通勤のラッシュとは打って変わってのんびりとした空気が漂っていた。席はガラガラだけど、二駅なのでドア付近に立った。

「一番多い仕事は、サプライヤーとの契約作成だな。新作やマイナーチェンジのたびに契約書をもらう。あとは新規サプライヤーを探し出す。店舗とサプライヤーがトラブルになったときは交渉役だ。店回るついでに店舗スタッフとして手伝うし、イベントや繁忙期はスタッフ要員に組み込まれる」

 サプライヤーという言葉に、研修が思い起こされる。

 日高の説明を聞きながら、自分に務まるのかと不安になっていく。

「だんだん慣れていくもんだ。新規契約は必ず二人で行くし、重要な部分に最初からおまえが一人で動くことはない」

 美琴の心境が伝わったのか、日高が口の端で笑った。

 単純な美琴は、そんなことでほんの少し緊張がほぐれた。

 

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