鬱病編 創価学会と私
姉の病気と同時期に私を苦しめたのは、創価学会の存在だ。私の両親は創価学会に入っている。知らない人にもわかりやすく言うと、宗教団体の一つだ。法華経の在家仏教の集団らしい。私は幼い頃から当たり前に題目(何妙法蓮華経)をあげてきたし、会合にも参加していた。しかし成長するにつれて、それは私にとって必要なものなのだろうか、と思うようになった。仏教を信じたことなどない。親が創価学会に入っているから、私も入らなければならないのか。それは違うだろう。そう思いながらも、これといって否定してこなかった私だが、ある日母にこう言われる。
「任用試験があるから受けてみない?」
任用試験とは、創価学会の人間が受けられる教学の試験らしく、受かったからといって何があるわけでもない。私はこれをきっかけに、創価学会へ入ることを真っ向から拒否することになる。
ーーていうか、任用試験ってなに?それに何の意味があるの?私はなにも信仰してないのに。
私はその提案を断った。やる意味がわならない、と。母は、私を説得するために創価学会についていろいろと話してきた。全く興味がなかったし、そんな話は憂鬱でしかなかった。話を聞く前から全面否定するなんて、と思うかもしれない。けれどこういう話は、少しでも興味を持った人が聞く話であるはずだ。全く興味がない私が、聞かなければいけない義務がどこにある。創価学会については詳しく知らないが、地区ごとに定期的に会合を開いている。幼い頃は参加していたが、なにをしていたかあまり覚えていない。覚えているのは全員で題目をあげたことくらいだ。同じ地区に住む創価学会の女性が家に来て、私を説得するために一時間近くも玄関口で話を聞かされたこともあった。うんざりしていた。それでも私は断り続けた。なぜ頑なに受け入れなかったのか、これといった理由はない。けれど、ここで流されたらダメな気がしていた。そういえば、近くの駅のカフェで、隣に座った熟年女性が、青年男性に創価学会の話をしているのを聞いたことがある。隣にいて話が強制的に聞こえてくる私には、それが宗教勧誘に見えて仕方なかった。すごく居心地が悪かった。兄は創価学会に関わる気は無いと断言していた。姉たちは面倒くさいことにならないように、すんなり試験を終わらせていた。理解できない。そんな興味もないことに時間を割くことなんて、私にはできない。なにより、当時の私は自分のことで精一杯で、任用試験どころではなかったのだ。大学はまだ慣れないし、九月当初は休むことが増えて思い悩んでいた。学びたいと思っていた心理学だが、それよりもやはり漫画の方に興味が向いていた。漫画の専門学校に行けばよかった。今からでも遅くはないか、そう思って、進路変更も視野に入れていた。そんな私に、母はこう言った。
「お姉ちゃんが心配じゃないの?お題目して一緒に祈ってよ。」
その言葉が、私を妙にイラつかせた。
ーーそれはずるくないか?その言い分は違うでしょ。
「題目あげてないとなんで心配してないことになるわけ?意味わかんない。心配してないわけないじゃん。」
自分で言って虚しい気持ちになったのは、私自身、姉を本気で心配しているのかわからなかったからだ。でもね、死んでほしくなかった。そしてなにより、治るって信じてた。それだけは、本当だよ。
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