第5話 包丁 VS 松葉杖

 とても”クレイモア”と呼ぶには程遠い、どこの家庭にも存在するであろうただの包丁にしか見えない刃物。

 とは言え、ひと振りで人を殺してしまう、或いは生涯残る大怪我を負わせることができてしまう凶器でもある。


 たとえ指一本でも切り落とされたりしただけでも、人生は大きく変わってしまうだろう。しかも、入手も簡単。包丁とは、そんな道具だ。先程随分な我儘を言っていた男がその凶器を振り上げ、歩み寄ってくる。


 瞬時に思考をめぐらせる。

 うむ。あれは既に正気を失っているのだろう。元は普通の人間だったのだろうと思うが、もう既に魔物に変質しかけていると思われる。……ああ、あの体形と動きは少しオークに近いか。暫くするとそのうち完全に変態――オーク化するのだろう。


 「仕方ない、退治しておくか」


 「……えっ?」


 マユカの耳元で小声で宣言すると、彼女は驚いた風に宣言の言葉を吟味する。


「……たいじ……退治?」


「ああそうだ。お前たちは下がっていてくれ」


 マユカ、ショウ、ジュリに一歩下がるように伝えて、手に持った松葉杖を構えた。

 ここはマナが無い場所だ。得意の魔術が発動しない事はわかっている。

 とは言え、これまでの数多の冒険の中で、スタッフ(魔術師用の杖)を使って戦った事くらいは何度もある。得意ではないが、オーク化しかけている狂人の一人くらいなら、俺にも対処可能だ。


 増してやこの医療用の松葉杖は包丁に比べて随分長い。木製だがなかなか頑丈そうだ。包丁を振り回した程度では到底切れないし、しかも握り易い。


 包丁を構える男の目前に杖を構えると、間合いの差は歴然だった。

 数十センチに満たない包丁の刃と、1メートル以上ある松葉杖。いかに刃物が致命傷を与えやすい凶器だとは言え、届かなければどうという事は無い。


 この間合いの差を埋めるのは容易な事ではない。この男にそのような技術が果たして有るだろうか。

 目前の男の動作を見る限り、動くものを切りつけた経験が有るとは到底思えない。ひと目で戦闘の素人とわかる。むしろかなりの運動不足だろう。駆け出しの冒険者より酷い。

 杖で腕を打てば、刃物を取り落とさせる事もできそうだ。そう考えて、もう一歩前に踏み出てみ……


「うぐっ!」


 踏み出した左脚に走る、激痛!


 またしても転倒しそうになる。

 今、転倒するのは危険過ぎる。目前に刃物を振りかざした男が居るのだ。また、先程部屋を出る前にはショウに支えて貰ったが、そんな余裕も無い。……視界いっぱいに床が迫る。


 つい咄嗟に、空中浮遊(レビテーション)の魔術を発動しようと無事な右足に意識を集中した。体内にMPが満ち、足まで届いている感覚はあった……が、しかし、そうだった、ここにはマナが無いんだった!

 足元に現れるはずの魔方陣が現れない。魔術は――そう、俺の特技である魔術は――発動しない!


 そのまま俺は転倒してしまった。床に腹ばいになった状態だ。

 刃物男(クレイモアモンスター?)に切りつけられる事を覚悟した。左膝がじんじんと痛むが、それ以上の痛みが背中、或いは首などに発生するだろう。いや、頭蓋を割って脳に刃先が到達するような刺され方をするかもしれない。


 俺はいい。だが、俺を助けてくれたマユカ、ショウ、ジュリの3人はどうなる?明らかに戦闘経験が皆無に近い奴らだ。

 それに、ここに飛ばされてくる前の冒険仲間たちは、王国は……


 ………………


 ……何十秒、何分経過しただろう。いや、数秒だったかもしれない。痛みは襲ってこない。人の悲鳴も、話す声も聞こえない。


 視界の隅に、床に転がっている包丁が見えた。

 そっと顔を上げてみると、この包丁を振り上げていた男は、何故か先ほどの受付近くの壁際で倒れて丸くなり、苦しげに呻いていた。俺の居る位置からは随分距離が離れている。10メートル程先だろうか。


「……ほおおおおぉぉう」


 周囲から感嘆の声とともにパチパチパチ、と突然の拍手。

 この医療施設の就労者の他、病人・怪我人も居るようだが、揃って俺に向かって――賞賛の意味、だよな?――拍手喝采を送っている。


「うわあああ、良かったです!すみません、ああー!」

「すすす、す、すっげーっ!!!、本当に魔術師なんだ!」

「おお、おおおお兄ちゃん?怪我アブナおおお兄ちゃんんんっ!!!」


 マユカ、ショウ、ジュリの三名が一斉に俺に駆け寄り、それぞれがぎゅうと強く頭を、腕を、胴体を抱きしめてきた。

 特にジュリはぽろぽろと大粒の涙を零している。マユカも目が潤んでいる。逆にショウは興奮した様子で目を輝かせている。


 美女・美少女に強く抱きしめられるのは悪い気分ではなかったが、少し痛いぞ。そうだった左足の他にも全身打撲しているのだったな。もういいだろう、離してくれ。


 三人を引きはがし、周囲を見回す。ショウの解説を聞きながら整理すると、どうやら俺は転倒しなつつ、この松葉杖の先端であの包丁男(クレイモアモンスター?)を突き飛ばしたようだ。

 随分飛んだな。たまたまだが、上手く体重が乗った突きになり、あの男の胴体を強打したという事だと思われる。

 うんうん、と、ジュリが目をこすりながら激しく首を縦に振り、マユカは俺に背を向けながらも頷いた。


 包丁男はまだ苦悶の呻きを挙げながら、胎児のように壁際の床に丸まっていた。医療施設の就労者と思われる男性数人が取り抑える様子が見えた。


「ロープを持ってこい!それから、警察を呼んでくれ」

「その前に病院に連れて行った方が良いんじゃないか?、あ、ここ病院か!」

「ふてえ野郎だ!見るからにも太いしな!」

「こいつ、先週も来た奴だぞ。あの時は追い返してたんだが……」


 などと口々にしていた。


「見たか今の?映画の撮影とかじゃないよな?」

「吉野さん……災難ね……」

「全く、いまどきの若い連中は……」

「あの松葉杖のお兄さん、普通そうに見えるけど、格闘技か何かやっている人かな?」


 などという声も聞こえる。

 一気に騒然となり、俺達がほっと一息つけるようになるにはそれから半日ほどの時間が必要だった。

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