第5話 ユイ その2

 二人の心にはいつも一定の距離があった。私はユウジを追い求めていたのに、ユウジはどこか遠くを見ていた。それにいつ気付いたのだろうか。二人一緒に時を過ごしても、ユウジが私と同じ感動を得ていないと、そう思った時…………


 中学二年のある日。夏をすぎた頃。今、思えば、他の子よりも少し背伸びをしたかった、だけかもしれない。親のいない日を狙って、ユウジを私の部屋へと誘った。すごくドキドキしていて、ガラにもなく緊張していた。

 自分の貞操なんてものになんら価値を見出していなかったし、ユウジに対してもそういった価値観を押し付ける気持ちはなかった。だけどユウジの言葉があまりにも乾いていて………… 男という生き物が、女よりもずっと雑にできていることを知った。

「はじめてだから、やっぱ痛いの?」

「あ、でも、結構、声、出てたよな、お前」

「きつくしめつけるんで、ビックリしたよ」

「次はもっと感じられるんじゃないかな」

「セックスするとスタイルが良くなるらしいよ」

 そう言いながらお尻をなでる。

「次の生理っていつ?」

 二人は今よりももっと幼かった。今考えると、女も女で、好き勝手なことばっかり言っていた。

「私だけ痛い思いするのってズルくない?」

「ゴムはユウジが買ってよ。私、買うの恥ずかしいし。お金、私出すから」

「ユウジってさぁ、カナの前だとさぁ、なんか良い人になるよねぇ」

「なんかさぁ、ユウジの脇のところ、動物っぽいにおいするよね」

「なにこれ、あはは、パンツのゴム、ゆるんでない?」

「ふーん、皮って戻るよね。仮性ってやつ?」

 今は二人とも、もっと空気を読むとは思うが、本質はあまり変わっていない。


 その時だって別に、傷ついたわけでもないし、嫌いになったわけでもないんだけど……


 愛する二人が結ばれるという事に、私は期待しすぎていた。大切な秘密を分かち合うような、大切な気持ちを預け合うような、恋愛とはそういうものだと思っていた。私の気持ちはユウジに届いていないし、それに、ユウジの気持ちは私の気持ちとはちょっと違う。その頃の私は『男の子だからかな』と思っていた。でも、今、考えてみると………… ユウジはすでに女を知っていて、私を『女という集団の中の一人』として見ている。


 そう、ユウジにとって私は特別ではない。


 ユウジがずいぶん昔に言った言葉を思い出した。

『三つ上の女の人にもてあそばれて』

 なぜ思い出したかというと、それに該当する女の名を知ったからだ。

 古い五階建ての団地、築三十年はたっている。その三階がユウジの家だ。外壁の塗装も色あせている。鉄柵はさびているし、過去には花壇だったであろう所には雑草しか生えてなく、手入れはされていない。間取りもあまり広くないらしい。ユウジと妹は、同じ部屋で、二段ベッド。自分の部屋がないことにユウジは不満を言うが、一人っ子の私にはよくわからない。私は住めればなんでもいいと思っているが、実際に古い団地に住んでいるユウジはそう思っていない。ユウジは私を家の中には入れない。学校の帰りに寄っても、ユウジが私服に着替えるのを、私は外で待つ。

 いつものように待っていると、一人の少女がやってくる。私の方をハッキリと見ている。

 大きな目で、まつげが長い。お人形のような女の子。

「………………」

 学校から帰ったばかりなのか、服には名札をつけたままで『5年2組 田中マナ』と丸っこい字で書いてある。

「あっ」

 私は気づいた。確か、ユウジは妹のことを『マナ』と呼んでいた。三才下だときいた。ユウジの妹だ。マナちゃんの表情は硬い。団地とはいえ、自分の住まいの前に見知らぬ女が立っているのだから、警戒するのも当たり前だ。

 私が何て声をかけようか、迷っていると、

「あなた、お兄ちゃんと付き合ってるの?」

 随分と高い声で私にきく。ユウジが私のことをなんと説明しているのか、わからなかったから、私は即答しなかった。代わりに

「ユウジの妹さんね、はじめまして」

 私は笑顔で話しかけた。だけど、マナちゃんの表情は硬いままだ。そして、再び

「お兄ちゃんと付き合ってるの?」ときく。

 ただの好奇心なのか、兄をとられて嫉妬しているのか、兄妹のいない私にはよくわからない。ただ、私に対して良い感情を持っていないのは、見ていてわかる。私は微笑みかけているのに、マナちゃんは笑わない。とは言え、二回同じ質問をされたので、

「うん、付き合って半年くらいになるかな」と答えた。

 マナちゃんの目が少し鋭くなり、「あぁ、やっぱり」と言う。

「やっぱり?」

「あなたの方が『後』なんだね」

 いやみったらしく「ふふ」と笑う。私もつられて少しにらんでしまった。

「あぁ、やっぱり一年負けてるね」

「負けてる?」

「シホさんに」

「えっ?」

 マナちゃんは、また「ふふ」と笑って、階段をのぼっていった。


 シホさん?


 女にとって、他の女の名前とは存在感そのものだ。心の中に不安が広がる。

 ユウジが階段からおりてきた。

「あぁ、ごめん、待たせたな」

 私はすぐに「シホって、誰?」ときいてしまった。浮気相手を探し出すような言葉。こんな言葉を自分が言うなんて、口に出してみるまで考えもしなかった。ユウジは「えっ? なんで知ってるの?」と、質問を質問で返す。

「妹さんが……」

「あぁ、マナが言ったのか」

 私は、自分の中にある女の性に戸惑いながらも「あっ、うん」とうなずいた。

「あいつ、なんか言ってた?」

「ううん、別に」

 ユウジが歩き出したので、私も歩き、ユウジの手をにぎった。私はユウジの顔を見ていたが、表情はいつも通りだった。

「シホさんって、母さんの友達の娘さん。家が近所なんだ」

 私は「へぇ」と言った後に、すぐに「何才なの?」と質問ばかりしてしまう。

「えっ? あっと、僕らの三つ上だから、今、高二」

 ユウジは眉をしかめる。

「やっぱり、マナ、何か言ったのか?」。

「ううん、別に」

 私は感情を隠すような言葉を繰り返す。そういう苛立ちが顔に出ていたのだろう。ユウジは「あっそう」と言うだけで、それ以上はきかなかった。


 別の日。

 いつものように私が団地の前で待っていると、

「…………………」

 マナちゃんと会うことが多くなった。今まであまり見かけなかったのに、ここ最近何度も出会うようになった。偶然ではない。マナちゃんは私に一言、二言、声をかけて、すぐに家に戻る。近所のコンビニに向かうこともある。何にしろ、私の声をかけて、どこかに行ってしまう。パターン化していた。マナちゃんと何度か話してみたが、常に値踏みするように私を見つめて、嫌味な言葉を残す。まぁ、兄に対するジェラシーだから、私は『可愛いものだ』と思っていた。顔つきは可愛らしく見えるし、その外見に通り心の中も子供なのだろう。そういった私の気持ちは態度にも出ていただろう。マナちゃんもそれに気づき、腹が立ったのか、嫌味の度合いが増していった。

「お兄ちゃんがあなたを抱く時って、何回くらい射精するの?」

 小五の子がこんなことを言うなんて思わなかったから、驚いて思考がとまった。でも、答えは頭の中にあった。いつも一回。私はユウジとしか経験がない。セックスとはそういうものだと思い込んでいた。

「ねぇ、何回?」

「あのね、女の子がそんなことを口にするもんじゃないでしょ」

 これ、よくカナに言われる言葉。まさか自分がこの言葉を言うなんて。

 マナちゃんは人差し指を一本立てた。

「一回」

 言い当てられた。

「そうでしょ?」

 私は『なんで知ってるの?』と言いそうになったが、言葉をとめた。きっと適当に言っているのだ。自分の方が三つ年上なんだからナメられちゃいけない。

 そんな思いが表情に出ていたのか、マナは「ふふふ」と笑った。

「ねぇ。一回なんでしょ ねぇ?」

「べ、別にそんなこと、どうでもいいでしょ。変な事きかないでよ」

「ふっ やっぱ一回なんだぁ」

 マナは嫌みったらしく笑う。

「そんな回数なんて決まってないわよっ 日によって違うよ」

 私が少し強い口調で言い返しても、マナは全然ひるまない。マナは私の全身を舐めまわすように見る。

「お兄ちゃんの机の、一番上の引き出し」

 マナは言葉をとめ、ニタァと笑う。でも目は笑っていない。不気味だ。クリッとした人形のような瞳が怖い。意志の強そうな瞳。

「その引き出しの中にコンドームが入ってるの」

「えっ?」

「私、毎日、数えてるの」

 ユウジはサイフにコンドームを入れたりしない。必要な分だけカバンに入れている。学校ではたまに持ち物検査とかもあるので、常にカバンには入れてないと思う。確かにマナが言うように、引き出しに入れているのかもしれない。もしこれ本当なら、ユウジがいつセックスしたかもだいだい解るし、セックスの時にユウジが何回射精したかも解る。私は『日によって違う』とウソを言った。私は恥ずかしくなり、言葉が出なくなった。

 マナは私に顔を近づける。

「なんでウソつくの?」

 高い声が耳元でささやく。近寄ると解る。小さい顔で、まつげがながく、小五にしては背も小さい。それなのに、表情だけは大人じみていた。あざけわらうような、嫌味ったらしいニヤついた顔。それでいてどこか冷静だ。

「あなたはお兄ちゃんのこと、なんで好きになったの?」

「えっ?」

「本当のお兄ちゃん、あなた、知ってるの? どういう性格か、知っているの?」

「えっ、あ、なにを…………」

 私はユウジの何を知っているのだろうか。私はユウジの何を知らないのだろうか……

「あなたってお兄ちゃんのこと何も知らない。だから、愛されない」

 愛されない…………

「な、なに、言って…………」

「愛されないからお兄ちゃんのこと知ることができないって思ってるんでしょ? 違うよ、それ。逆なんだよ。あなたはお兄ちゃんに愛される資格がないの。お兄ちゃんのこと、何も知らないから。知ろうとしないから」

 私の目の前にいる小五の子が言っている事は、正しかった。ユウジは何かを隠している。それは解っていた。だけど、それがどんなことなのか私は知らない。知らないからどんどん不安が広がる。そう、私はユウジの側にいるだけで、ユウジのことを知ろうとはしない。不安だからこそ、ユウジにきくことができない。だから何も知ることができない。

「お兄ちゃんがシホさんと会った後に」

 『シホさん』という名前をきくと、また不安が胸に広がる。

「引き出しを開けて数えるとね、コンドームはだいたい三個か四個か、減ってるの。しかも二人きりになれるのって、せいぜい二時間くらいなんだよ? 愛がなきゃ、そんなにできないよね、ふふっ」

 愛がなくては…………

「シホさんにあって、あなたにないものってなんだと思う?」

 私に無いもの…………

「傷、なんじゃないかな」

「え?」

「何もないもの。あなたには。何も。顔を見ればわかる。何もない。それなりの家で、大きな問題もなく、スクスクと育っていったんでしょ。なんの障害もなく。私達とは違う」

 ユウジだって傷なんてないじゃん、と言おうとしたが、母子家庭だということを思い出して、やめた。ユウジを見ていると、いつもバカみたいなこと言ってて、いつも笑っていて、一見、悩みなんて無さそうに見える。でも、片親だし、裕福な方ではない。

 私は自分の胸を押さえた。

「傷なんか何も無くたって…… そんなの関係ないじゃんっ」

「わからないんだよ。幸せに暮らしてきた人には」

「そ、そんなことっ」

「だったらきくけど、あなた、お兄ちゃんの心の傷、癒そうとしたことあるの?」

「だって、そんな……ユウジって………… そんな弱い男じゃないし」

 マナの強い視線、にらんでいるようにも見えた。クルッと背を向けて、そのまま階段を上っていった。団地の階段だからだろうか、その奥は薄暗く、その中にマナは消えた。あの薄暗い階段の先に、私の知らない世界があるというのだろうか。確かに、この団地に住んでいる家族の収入は高くないだろう。それくらいのことは想像できる。お母さんが働いていて苦労していると、ユウジから聞いたことはある。私の家なんか、家族であまり会話もしないんだから、なんだか、ユウジの話を聞いていると、むしろその方が親子の絆を感じることができて『うらやましい』と思った。

 心の傷? 私には、知ることができない?

 私はそれほど勘の鈍い方ではない。

 本当なのだろうか?

 私はマナの言葉を信じていない。もし本当だとしても…………

 ユウジが隠したいって思っているなら、私は知らなくてもいいのではないか。結局さ、男ってプライドが一番大切なんでしょ。だから、私はそれを傷つけたくない。鈍感なフリをして見守っている方が、私らしいと思った。いつか、私のそういった『やさしさ』にも気を付けてくれるかもしれない、この頃の私はそう思っていた。

『一年負けているね』

 マナの言葉を思い出す。

「シホ…………」

 私は女の名をつぶやいていた。

 マナの言葉を鵜呑みにするなら、ユウジは中一の頃からシホという女と付き合っていて、今も続いている。一瞬、そういう不安もよぎったが………… そんなこと、あるわけない。

「映画行く?」

「え?」

 ユウジが私服に着替えて、階段を下りてきた。スポーツ刈りを少し伸ばしたような頭をポリポリとかきながら、歩き出した。

「今日、水曜だよな。駅前の映画館って、女性千円じゃなかったけ?」

 ユウジの顔を見て、一瞬声がつまった。

「ん? どうした?」

 搾り出すように、懸命に、声を発した。

「あ、あっ、うん ……………いいね。 …………じゃさ、ジュース、おごるよ」

「あぁ。どうも」

 ユウジは私のそんな表情にも気付かない。

「じゃ、ユイも着替えるよな。ユイの家よるか」

 ユウジは歩くスピードをはやめた。


 シホという女がどういう女なのか、気になってしまう。マナが言ったことを信じたくない。信じたくないと思えば思うほど、私の心はかき乱される。何度かユウジにそれとなくシホのことをきいた。

 お母さんの友達の娘。

 簡単に言えばそういう人だ。お母さんとその友達との取り決めで、夕飯を週に二度、一緒に食べている。ユウジの家で食べる曜日と、その友人の家で食べる曜日が決まっていて、友人の家で食べる日は、シホが料理を作る。私がきけば、ユウジは何でも答えてくれた。もちろん『シホさんと付き合っているの?』とか『シホさんとセックスしたの?』とか、そんなことはきけない。色々と遠まわしにきいて、ユウジがシホという人をどのように見ているのか、知りたかった。

「綺麗いな人なの?」と、きいこともあった。

「ん、まぁ………… 不細工ではないけど、すごく綺麗って感じでもないよ。なんかさ、ああいうのが普通の女子高生って感じなのかな。ちょっとジミで」

 ユウジは笑いながら「お前の方が、可愛いよ」と言ってくれた。私は社交辞令のように「ありがと」と返したが、ユウジが何かを隠すために私を褒めているように思えて、素直に喜べなかった。

「料理は上手なの?」

「あ、ああ、なんていうか、下手ではないけど。うちの母さんとか恭子さんと比べると、まぁね、感じ。ああ、恭子さんって、シホさんのお母さんね。ああ、んー、で、シホさん、高校生だからか、レパートリーもそんな多くないな。でも、良い高校いってるから勉強とかで忙しいのに一所懸命に作ってくれて」

「彼氏とかいるの?」と、きいたこともあった。

「ああ、いるって言ってたな。会ったことはないけど。美形で、女の子みたいな顔してるって」

 話をきいている感じ、あやしいとは思わなかった。私の勘が鈍かったのだろうか。この時、やはりマナはウソを言って私をからかっていただけだと、思っていた。


 ベッドの上で、ぼんやりとしていた。何もしたくなくて、ぼんやりとしているのに、ふと、スマホに目がいってしまう。手にとって、暗証番号を押すと、写真の閲覧アプリを立ち上げた。そこにはユウジがうつる。ユウジは写真を取られるのが嫌いなので、なかなか撮らせてくれない。私は相手の許可を得ずに、シャッターを押す。自然体のユウジ。斜め45度くらいの角度の写真。私はその写真を見ながら、この男がどういう男なのかと、考えた。気が利くし、いい奴で、頭も良くて、会話も楽しくて、そういう奴。でも、それだけではない。影のようなものがチラついて見える。それがなんなのか………… マナが言うように、ユウジが浮気しているからか? ユウジのことを全て知りたい。

 いつのまにか、スマホを持ったまま目を閉じていた。眠気で少し意識が遠のいていた。手に持ったままで、ユウジの姿は既に消えていた。マナーモードにしていたので、無音のままスマホはおなかのあたりで震えた。

「ん?」

 メッセージだった。カナからだ。

『クラスの友達にきいたんだけど、ユイってユウジ君と付き合ってるの?』

 ユウジと付き合っていることを学校の友達には黙っていた。特別隠そうとしていなかったので、二人で一緒にその辺を歩いていたし、いつかバレると思っていた。カナが仲良くしている友達はだいたい恋愛の話とかに疎いので、情報の伝達が遅いのだろう。付き合いはじめて一年たって、ようやくカナのところまで伝わった。

『そうだよ。ごめんね。なんか言いそびれちゃって。今度また、カナの家に行っていい? その時に色々話すね』

 これがカナのはじめての失恋だったのだろう。カナってメッセージの返事を必ずするし、返信もはやい。でも、この時だけは返信が来なかった。

 ユウジとつきあいはじめた頃は、単純に、彼氏がいるという優越感を感じていた。別にカナに対して強い劣等感を得ていたわけではないが、何か一つでも自分の方が勝っている部分があるって思えて、やはり優越感を得ていた。

 でも、このカナからのメールを読んでいる時には…………

 男性を知らないカナ、純粋な少女、なんだかうらやましく思えた。私の純粋さは、なにと引き換えになったのか………… セックスの快感と引き換えになったのならば、随分と安っぽい。それ以上の何かを、私は手に入れただろうか…………

 私は結局、ユウジという男をどれだけ愛していたのだろうか? 体の思うまま、求めるまま、ユウジのそばに居れれば良いと思っていた。でも、それだけでは愛は育たない。そして、いつしか愛は不安になってしまう。ユウジを信じたいのに、信じることができない。


 あの時の私を思い返すと………… 人を愛するには少し早かった。


 カナと同じくらい恋愛に疎い人間がいる。高橋君だ。私がカナに話さなかったのと同じように、高橋君にも話さなかった。噂は波紋のように広がり、その波紋の終端にて高橋君の耳にも入る。

「別に驚いているわけではないけど」

 高橋君の顔に少しだけ失望が見えた。きっと『友達なんだから言ってくれればいいのに』と思っているのだろう。当時の私はそう思うようにした。でも少しだけ、もしかして私の事を好きだったのかなって、思う部分もあった。ドキドキしていたので、精神的な浮気だ。


 放課後、中三になると、家に帰ったり塾に行ったりする生徒が多く、教室にはあまり人が残らない。だからかもしれないが、久しぶりに高橋君と長く話した。他愛もないも無い会話を何十分もしていたが、

「ユウジの、前の彼女の話って、何か聞いたことある?」

 私は誘導尋問のような言葉を投げかけた。

「え? 前の彼女?」

「あぁ、ユウジはそんなこと言ってないけどね。なんか…………」

 私は迷うように見せて、「…………そういう噂、きいて」と言葉をつなげた。

 高橋君は「うーん」とうなった後で、話してくれた。

「ユウジって一年の時、なんか落ち込んでたみたいで、オレ、そういうに気付くの鈍い方だけどさ、ずっとそういう状態が続いてたから、さすがに気付いて。ちょっときいたんだよね」

 一年の時?

「なんか年上の人と付き合ってたみたいで、それ聞いたときはうらやましいなって思ったけど………… なんかそんな単純じゃないみたいで」

 私は反射的に「年上ってどのくらい?」と、きいた。高橋君は話の腰を折られて「えっ、ええっと」と動揺したが、「三つって言ってたかな」と答えてくれた。私は頭の中には『シホ』という女の名が浮かんだ。口では誤魔化すように「ああ、そうなんだ。結構、年上なのね」と言っていた。

「あ、うん。で、いつのまにか、元に戻ったっていうか、あまり暗い表情を見せなくなったっていうか………… あっ」

 高橋君は気付いたかのように、私にきいた。

「そういえば、ユウジと付き合いはじめたのっていつ?」

「え? あぁ、中二の夏ごろ」

 高橋君は微笑んだ。

「じゃ、ちょうど、その頃からかな」

「えっ?」

「ユウジが元気を取り戻したの」

 私も微笑みながら「だといいけど」と言ったが、不安はあった。ユウジは私と付き合いはじめたから何も変わらない。表面上で取り繕うのが上手くなっただけなのかも。

 やはり、ユウジの言葉を思い出す。

『三つ上の女の人にもてあそばれて』

 もしそれが本当だとして………… マナが言ったことが本当だとして………… シホって女はユウジの『傷』を癒しているのだろうか? わけのわからない黒い感情が、私の胸を締め付ける。

「あっ、ちょっと、トイレ行ってくる」

 涙が出そうになって、私は急いで廊下に出た。高橋君に涙を見せたくない。人前で急に泣きそうになるなんて小学校以来だ。高橋君と話していて心の壁が低くなっていたのか、それとも信じたく無かった話を無視できなくなって、心に逃げ場がなくなったのか…………

 トイレにたどり着く前に、涙がポロポロ落ちていて、屋上へと向かう階段を上った。三階と屋上の間にある踊り場。ここならだれも来ない。そもそもトイレに行ったって、誰かいるかもしれない。

「篠崎さん」

 その低い声。

「どうしたの?」

 見つかっちゃって思わず「ふっ」と笑ってしまった。

「泣いてるんだ」

「ユウジと………… 何か、あったの?」

「あったのかもしれないし………… なかったのかも」

「オレ、話きくくらいしかできないけど、何か話したかったら」

 私はうなずいた。感情がおかしくなっていたのだろうか、

「高橋君、私のこと、好きだった?」

 こんなことをきいてしまう。高橋君にとって失礼なことを言っている。高橋君は怒るわけでもなく、目が泳いでいた。こんなアホなことを言う女が目の前にいて、しかも踊り場で泣いているのだから、仕方ない。

「あの頃に戻りたい」

 私はまた訳の分からないことを言っていた。

「高橋君を好きになっていたら…………」

 意味のないことばかり言っている私を、

「あっ」

 高橋君は抱きしめてくれた。そして、低い声を感じた。耳と、胸のあたりで。

「オレ、今でも、篠崎さんのこと、好きだから」

 私はその日、高橋君を自分の部屋に連れ込んで、抱かれた。高橋君はマジメだから、ユウジに悪く事しちゃったなと、何度も言った。あんなに激しかったクセに。高橋君にとって、私は『初めての女』だ。妙に嬉しいものだ。何度も愛されたけど、終わった後、高橋君の頭や広い背中をなでた。浮気したことの罪悪感なんて。怖いくらい全くなかった。

「バレなきゃ、何やってもいいのよ。お互い様」

 高橋君は何も言わない。私の胸に顔をうずめたままだ。

「軽蔑した?」と私がきくと、「そんなことない」と低い声で答えた。

 そんなことないってことはないでしょ。

 その後もちょくちょく高橋君と会うこととなった。マナが言っていたことが本当なんじゃないかって、思うようになった。体の相性というものがある。ユウジの時には、イクって感覚、全くわからなったし、都市伝説かとも思っていた。でも、そうではなかった。高橋君に抱かれるだび、私は何度もイクことができた。

 それでもユウジと別れなかったのだから、私は本気でユウジのことを愛していたのだろう。でも、この頃から大分楽になったと思う。逆に言えば、もし高橋君との関係がなかったら、もっと早く私とユウジは別れていたんじゃないかな。ユウジだってシホって女と続いているのかもしれないし………… 妙な関係だ。


 ユウジがちょっと先生に呼び出されて、少しだけ帰る時間がずれた。待ってればいいのに「家の用事があるから」とウソをついて、私は家帰ることにした。ユウジと一緒にいたくないって思うことが多くなった。そうそう、会いたくなかったら、会わなければいいだけ。高橋君にメッセ送ろうかな、と思っていると、

「ユイ」

 透き通るような声に呼び止められた。その声の方に目を向けると、そこには黒髪のロングで、まっすぐな瞳の少女がいた。私に微笑みかける。

「どうしたの? なんか楽しそうにして」

「え? そ、そんなことないけど」

 私はすぐに顔を戻し、「別に、ちょっと、考え事してただけ」とウソをついた。カナは人のウソを見抜いたりしない。

「何、考えてたの?」

「進路のこと、とかさ」

 しわのない制服に身を包み、楽しそうに私を見つめる。

「進路? 北並高校はどう?」

「北並? なんで?」

「私が受けるから」

 私立で進学校として有名な高校だけど、大学付属ではない。大学受験が一般入試になるので覚悟しないと、と先生が言っていた。部活の先輩から聞いたが、そんなきれいな校舎でもないし、制服もあまり特徴がなく『かわいい制服』ではないと。少なくても、カナのようなお嬢様が通うような高校ではない。

「なんでそこがいいの?」

「なんか国立の大学の合格者が多いらしいって」

「ああ、そうなんだ」

 カナはクスクスと笑う。

「でもね、本当はね」

 車道と歩道を分ける段差に足を乗せて、バランスをとりながらヨタヨタと歩き出す。しわのないプリーススカートが揺れる。

「それを理由に、一人暮らししたいなって」

「え?」

「うちからだとけっこう通学、時間かかるから」

「じゃ、違う高校にすればいいじゃん」

「いや、なんかね、私、自分で言うのも変だけど、過保護に育てられてるんじゃないのかなぁって。だから、通学に時間かかるって理由で、一人暮らししたいなって」

「過保護、ねぇ」

 カナは私を見て「やっぱ、そう見える?」ときいた。私は素直にうなづいた。

「北並高校って、距離的にはそこまで遠くはないんだけど、私の家からは電車で片道一時間こえるからね。まぁ、私の家が駅から遠いってのもあるし、都合のいい電車がないし。通学に時間かかちゃって、その分勉強する時間が減るってお母さんに言ったら、北並に受かったら一人暮らししてもいいよって」

 カナは段差を降りて歩道に戻った。カツッという高級な靴の音がきこえた。

「ユイって、最寄りの駅ってどこだっけ?」

「紫陽花町」

「ああ、そっからだと、私鉄があるんだよね。北並まで電車で40分くらいかな」

 カナは笑いながら話す。カナと一緒の高校………… もちろんカナも、そこまで本気ではないと思うが。

「私、カナみたいにあんま勉強してないしさぁ」

「一年の頃は私よりもずっと成績良かったのに」

 私は振り返ってみて、自分がなぜ勉強しなくなったのか考えた。部活を真剣にやっていたという理由もあるが、もっと大きな理由がある。ユウジと付き合い始めてからほとんど家で勉強しなくなった。幸せを感じていた時も、不安に襲われていた時も、高橋君とそういう仲になった後も、とにかく勉強にならない。

「ああ、なんでだろうね。なんか勉強、あんまり好きじゃなくなったのかな」

 もう春が過ぎて、歩くと背中に汗を感じる。中学三年の、そんな季節になっていた。

 カナは笑顔のまま、「それともユウジ君と同じ高校にするの?」ときいた。そんな事、考えたこと無かった。

「別に家近いから、いつでも会えるし、高校まで一緒でなくたっていいよ」

 カナの笑顔につられて、私も笑顔で答えた。

「そういうものなんだ」

「えっ?」

「彼氏と彼女って」

「あ、まぁ、そういう彼氏と彼女もいるんじゃないかな」

「そうなんだ。いっつも一緒にいたいって、思うものなのかなって」

 頭の中では『一緒にいたくない日もあるよ』と答えていた。今日がその日だ。私は別の言葉を捜す。

「一緒にいたいって思っていたとしても…………… そのために全てを犠牲にしていいって事はないでしょ」

「犠牲?」

「進路、とか」

 カナは納得していない。

「そうなんだぁ」

 顔を見ればわかる。

「なんか、別人みたい…………」

「え?」

「私が知ってるユウジ君と、ユイの彼氏」

「へ?」

「常に、最大限の幸せをユイに与えてくれるのかと、思った」

 私はもともと、そこまで期待してなかったけど、ユウジと二人なら楽しい日々がおくれるんじゃないかって、そうは思っていた。でも実際は………… なんだか、苦笑がこみ上げてきた。

「どうして笑うの?」

「カナは夢見すぎだよ。男女の関係ってそういうものじゃないでしょ」

 やはりカナは納得していない。

「ユイには、男の人を愛することよりも大切なことがある、ってこと?」

「え? いやぁ、そうじゃなくて、進路と恋愛は別だって言ってるだけ」

「言ってる意味、同じじゃん」

 超可愛いクセに、恋愛偏差値30くらいのこの女に、どう説明しようか…………

「恋愛ってのは衝動的なもんでしょ。だから将来と天秤にかけるな、って話よ」

「衝動的?」

「そこ、異論ある?」

 カナは大きくうなずく。

「恋愛ってものはずっと続くものでしょ? 将来そのものじゃないの」

 いや、別れるかもしれないじゃん、と言いそうになったがやめた。そしたら、別れること前提で付き合ってるのか、って言われるだろうな。まぁ、その辺が人間の矛盾だ。

 もう私には、こうとしか言いようがない。

「素敵な男性に出会えるといいですねぇ」

「なに、その言い方、バカにしてるでしょっ」

 私はユウジと付き合う前に、ある心理テストをやって、自分という人間をある程度は理解した。それをカナに説明した。

「昔、未来予言書ってのが、流行ってね」

「予言? なにそれ」

「いや、オカルトとかではなくて、自分の都合が良いように未来のことを書き続けるってやつ」

「なんの意味があるの?」

「意味なんかないよ。そうやって書いていくと、自分の求めているものが見えてくるってことかな。結婚する、とか、子供ができて、とか、って書いたとしても、真剣に考えれば、考えるほど、相手がどんな人でって、そういうはあまり書かないものなんだよ。つまりね、女の言う事をきく男をつかまれば、その予言はだいたい成就されるってこと」

 カナは「ふんっ」と鼻息をもらし、スネる。可愛い子は、スネても可愛い。

「その未来なんとかってやつ、私も書いてみる」

「そうそう、書いてみなよ。女ってのは、自分を幸せにしてくれる男が必要であって、一目惚れしました、なんて男は、意外に役に立たないって、わかるから」

 歩いているとコンビニが見えた。カナはコンビニに入る。

「なんか買うの?」

「さっきユイ、言ってじゃないの。未来なんとかってやつ、書けって」

 店に入ると、カナは小さいノートを手に取る。

「いや、心理テストみたいなもんだから、紙一枚でいいんだけど」

「書きたいこといっぱいから、私。ノートに書くのっ」

 書きたいこと? そんなにあるのか? そんなに書いてどうする? ツッコミが多数頭に浮かんだが、面倒なのでやめた。

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