第4話 シホ
『これは仕方のない事』
そう思うことが多くなった。一言で言うなら妥協なのだが、その思いは他者に対するものではなく、自分自身に対するものだった。だから私には『堕落』という言葉がちょうど当てはまる。他者を許す自分がいて、善人になった気でいて、その自分はいつしか堕落する自分をも許していた。自分の欲しいものを選んで、それと反対側にあるものはあきらめたはずなのに、欲張って全てを求める。そして自分の所為なのに傷ついたフリをして、他者の許しを請う。
女であるという、ただ一つの理由だけで。
高校一年の時。
私立の制服は可愛いものが多いが、それは主に女子の制服だ。男子の制服は色だけを女子と合わせて、デザインはシンプルなブレザーが多い。上着だけ見ていると男女ともに似ている。
その子は、パッと見、女の子かな、と思った。でも、スラックスを履いていた。
誰もその子に話しかけない。その子も、誰にも話しかけない。姿勢よく座っていて、現国の教科書を広げている。髪は、女の子の髪型としてみれば短い方だが、耳がかくれるくらのボブで、前髪をそろえている。大きい目、長いまつげ、形の良い鼻。顔は女にしか見えないので、『なんで、この子、スラックスを履いているの?』と、皆、疑問に思う。チラッ チラッとその子を見ている。なんだか、その状況が嫌だなと思って、
「あなた、男の子なの?」と声をかけた。
その子は怯えるように、「……はい」と答えるものの、その声は見た目と同様に女の子としか思えない。
担任の先生が教室に入ってきた。自己紹介をして、そして出席をとりはじめた。まず男子の名を呼ぶ。その最後に呼んだのは「和田ヒロユキ」だった。そして
「はい」と、その子が返事する。
やはり女の子のような高い声で、透き通るような声でもあった。教室の全ての人が注目する。ヒロユキはその視線に耐えていた。視線を少し下にさげて、何も言わず、黙っていた。
何週間かたって、クラスに友達とかもできるようになる頃。ヒロユキは一人でいることが多かった。男の子達もヒロユキにどう声をかけていいか解らなく、困っていた。女の子の何人かは声をかけたが、どうも面白半分みたいで、ヒロユキは無難な返事をしながらも気を悪くしているように見えた。
ある日の放課後、私は遅刻した友達にノートを見せていて、教室に残った。ヒロユキは日直だったようで、一人で黒板をふいたり花瓶の水を取り替えたりと、日直の仕事をしていた。私は暇をしていたので、ヒロユキに話しかけた。
「日直って、女の子の方はどうしたの?」
日直は男女一人ずつ。
「あ、なんか用事があるとかで」
日直の仕事をヒロユキに押し付けて帰ってしまったのだろう。
「ちゃんと文句言わないとダメだよ」
ヒロユキはうつむいて、小さい声で「あ、うん」と答えた。
近くで見ても女の子にしか見えない。胸のふくらみがないことだけが唯一男の子の特徴を示していて、それ以外の全てにおいて女の子だ。体は細く、身長も私よりも小さい。150センチくらい。体重も40キロを下回るだろう。
「お昼、いつも一人で食べてるね」
ヒロユキはうつむいたまま、小さい声で「あ、うん」と答えた。
「今度、私達と一緒に食べようよ」
いつも私は友達のリンと二人で食べている。リンはノートを写し終えたようで、「うん、一緒に食べよう」と言ってくれた。リンはヒロユキの顔や体をジロジロと見た。
「ほんと、女の子みたい」
ヒロユキは小さい声で「あ、うん」と言ったが、嫌がっているように見えた。リンはそういうことに鈍い子なので、更に色々と言ってしまう。
「手とかも小さくて女の子みたいだし、手の毛とかも全然生えてないねぇ」
リンはヒロユキの手を触った。ヒロユキは嫌な顔をしなかったが、女の子に触れられて恥ずかしかったようで、少し顔を赤くした。
「リン、あんま触っちゃだめだよ」
「あっ、ごめんね。なんか女の子とじゃれてるみたいに思って。えへへ」
「あ、うん…………」
ヒロユキは私をチラッと見る。。
「ありがと。今度、お昼、一緒に…………よろしくね」
その瞳がキラキラしているように見えたのは、私の気のせいかと思った。でも後から思えば、この時からヒロユキの気持ちは私に向いていたと思う。恋愛の対象というわけではないが。
最初は捨てられた仔猫みたいに可愛そうだなって思っていただけだけど、お弁当を一緒に食べるようになって、少しずつ仲良くなっていった。見た目は女の子、着ている制服は男の子、じゃ、全体としてどうなのか? 本人からもそういった話が出てこないので、、どちらでもないのかな、と私は思った。小さい頃、お人形がもし話してくれたら、って思うこともあったが、その感覚に近い。、
ヒロユキもだんだんとクラスの男子達とも仲良くなっていった。男子の何人かは調子にのって、ヒロユキの胸や股間を触ろうとした。私が「ちょっと、やめなさいよ」と言うと「からかってるだけだよ」などと言って、去っていった。ヒロユキは顔を赤らめながら「ありがとう」と私に言う。潤んだ目、赤い頬や耳、ちょっとだけ「はぁはぁ」と、あらい呼吸。きっとこういうのが男を誘う女の表情なのだろう。私は不覚にも教えられた。
私とリンは、彼のことを『ヒロ』と呼ぶようになった。
「ヒロもしっかりしなさいよ。そうじゃないと、またイタズラされちゃうんだから」
ヒロは「あ、うん」と言って、苦笑いした。クラスメイトと話すようになっても楽しそうな表情をあまり見せていないが、寂しそうな表情がなくなっただけでも良かった。でも、捨て猫をしばらく飼っていたら、飼い猫らしくなってきた、と、そのくらいの変化だ。ヒロの人間らしさを見ることはできてなかった。
人間を見ているのに、人間らしく見えないのは、見る側の洞察力が足りないからだろう。今ならそう思うが、高一の頃の私は、ヒロは人間らしくない人間なのだと、そう思っていた。私は随分と幼かった。
お弁当を食べ終わって、リンがお手洗いに行ったときに、ヒロにきかれた。
「シ、シホちゃん」
ヒロには名前で呼ばせるようにした。一か月くらいは戸惑いながら私の名を呼んでいた。私はペットボトルのお茶に口をつけながら、横目で「なに?」ときいた。ヒロは視線を一度だけチラッと私に向けたが、すぐに下に向いてしまう。
「なんで、僕に声をかけてくれたの?」
反射的に『可愛そうだったから』と頭に浮かんだが、そんな事は言わない。
「なんとなく」
つまらない答えだが、この言葉も正しい。
「シホちゃんは太陽みたいな人だね」
「えっ? なにそれ?」
「なんとなく」
ヒロは恥ずかしそうに、嬉しそうにして、笑う。
「そう思ったの」
ヒロの心の中には人間らしい感情があり、それが私にも見えはじめた。弾んだ声。笑顔。そういった解り易い表現を読み取って、さらに内側に触れたいと思う。心を開いてくれないと、その感情を読み取れなくて、心を開いてくれるまで時間がかかって、そうやって回り道をして………… 高一の頃の二人。でも、二人がもっと大人だったらすぐに感情を伝えられただろう。それは良いことなのだが………… 随分と味気ない。
土曜日のある日。もう季節は夏。ヒロと話すようになって三ヶ月になった。一学期の期末テストが近づいてきたので、勉強会をしようと、私の家に集まった。ヒロもさそった。学校では三人で行動することも多かったので、違和感はない。誘った時、ヒロは嬉しそうにしたので、私も嬉しかった。
私もヒロもまじめな方なので、成績は良い方だ。しかしリンは違う。だいたい毎日、彼氏とデートするかバイトするかで、勉強はおろか宿題も自分でやらない。だから勉強会はリンのためにやっているようなものだ。二時間くらい教えていると、
ブルルッ ブルルッ
リンのスマホがなる。彼氏からのようだ。するとリンは「ごめ、ちょっと用事」と言って、帰ってしまった。私の部屋という狭い空間に、私とヒロは残された。お互い二人きりになったことを意識することはなかったので、そのまま勉強した。色々と教えたり、教えられたり、そんな時間が続いた。
ある瞬間、私は、ふと、ヒロを見ていた。当たり前だが勉強をしている。やはりヒロは本当に可愛い。動く人形のよう、妖精のよう、そう見える。
「休憩しよっか?」
「あっ うん」
私は苦手な数学を勉強していて、少しイライラしていたのかも。そういったイライラが性欲に変化することもある。私はヒロの太ももに手を置いた。
「え?」
スリスリとさする。
「あっ」
太ももは私と比べると、少し硬いかもしれない。でも、男性の体というよりかは、子供の体という感じ。ヒロは顔を真っ赤にしているが、嫌がることもなく、モジモジしている。だから私は続けた。親指でヒロの小さい唇を撫でた。すると「んふっ」と高い声を漏らした。
「くすぐったい?」
ヒロはうなずいた。首の、耳の裏あたりをなでた。ヒロは首をすくめる。
「くすぐったいだけ?」
ヒロの瞳には涙がうかび、キラキラしていた。
「わからない」
ヒロの中に何が潜んでいるのか、男の子なのか、女の子なのか。
胸に手をおくと、「あっ」と、もっと高い声がきこえた。胸のあたりをさらにサワサワとしていると、
「うぅ」
色見をおびた声になっていった。ヒロが感じているところがわかる。私がさらに刺激するとプックリとしきた。
「ここ?」
「あぁっ はぁ」
「一人でしてる時、ここ触ってるでしょ?」
一度も自分で刺激したことないのなら、こんなにプックリしないだろう。
「あぁ、そんなこと…………きかないで」
ヒロは顔を真っ赤にする。
つねってやった。
「あぁぁぁ」
「答えなさい」
両手で両方を攻める。
「あぁぁ、そこ、ダメ。そこ」
ブラウスをぬがした。思ったよりも肌は白く、そして細い。全体的に色素が薄く、体に毛が全く生えていない。脇も処理しているようでなく、もともと生えてないのだろう。こんな未成熟な体を見ていると、どんどんイジメたくなる。今度は、ヒロが感じるところを爪をたてて軽くなでた。
「あっ あっ あっ」
「答えなさいよ。ここ、自分でいじってるでしょ」
「……………うん」
「ここ、さわりながら、男の子の部分もいじっているの?」
ヒロは「はぁはぁ」と呼吸しながらも、答えない。私は、『はい』か『いいえ』で答えられる質問をしているのに、ヒロは答えない。
「……………………」
何秒か待っても、やはり答えないので、
「答えなさい」
両方をいっぺんにつねった。
「きゃぁぁ」
「はら、一人でするとき、どうしているの? ほらっ 早く、言いなさい」
ヒロは観念したのか、「はぁはぁ」と呼吸しながらも答えた。
「おしりに」
「え?」
「入れながら」
私は驚いたが、反射的に「指?」ときいた。
ヒロは何度か「はぁはぁ」呼吸した後に、「おもちゃ」と答えた。
私はさらに驚いたが、反射的に「どんな?」ときいた。
「男の人の、形してるの」
私は、やはり反射的に「大きさは?」ときいた。
「はぁはぁ 、はじめは小さい奴だったんだけど、だんだん物足りなくなって………… はぁはぁ、今は、はぁはぁ、結構大きいかも」
ヒロは恥ずかしかったのか、涙がポロポロと落ちた。
それがとても可愛く見えたので、
「ん?」
私はキスをした。私も初めてだったので、すぐに離れた。
「ヒロって、エロいんだね」
ヒロの唇がふるえている。私にイジメられて感じている。
「んふ」
もう一度キスをして、今度は長く、そして舌を突き出した。ヒロも抵抗せずに口を開いてくれた。舌と舌がふれた。ヒロのこと、赤くなってるなぁ、なんて、楽しくなっていたが、私もだいぶ赤くなっただろう。首や唇のあたりの血管が脈を打っている。
でも、よく考えてみると………… 唇を離して、ヒロにきいた。
「でも、ヒロってさ、おしりでしちゃってるんだから、まぁ、男の人に相手してほしいってことでしょ?」
ヒロは顔だけでなく、首の下、鎖骨のあたりまで赤くなっていた。肌が白いので余計に目立つ。
「わからない。でも、シホちゃんのこと、好きだよ?」
『好き』って言われて、単純に嬉しかったが、
「でも、その好きって、どういう好きなの?」
ヒロは考えるが、「わからない」と答えた。
自分の欲望に対して、『わからない』ってあり得るのかな、と一瞬思った。でも、自分はどうなんだろう? と考えてみると、やはり『わからない』と答えるかも。子供の頃、人形を着せ替えて、なんとなくキスしたりしたけど、ヒロとのイチャツキはその時のドキドキに似ている。
よくわからないけど……………
その後もお母さんが帰ってくるまで続けた。勉強しよう、なんて言ってたクセに、三時間くらいそういうことをしていた。途中、私が昔きていた服をヒロに着せた。四年くらい前の服だ。それでもヒロには少し大きい。下着も私の下着を履かせたり、タイツを履かせたり、化粧をしたりして遊んだ。ヒロは女の子の姿に近づけば近づく程、楽しそうにしていた。興奮しているようにも見えた。
三時間、こんなことをしていても、やはりさっきの疑問の答えを得ない。ヒロも同じだろう。
ヒロが帰る時に、私は言った。
「ヒロ、今日から私のカレシ、だからね」
「え?」
私は自分の顔に指さした。
「私は、ヒロのカノジョ」
ヒロはキョトンとしながらも、「あっ、うん」と返事した。最後にキスしたときには、お互い戸惑うこともなかった。私が唇を近づけると、すぐにヒロも唇を寄せた。
ヒロは私とのイチャツキをはじめた辺りから、他の人とのコミュニケーションがとれるようになっていった。私はヒロに手を出したことに、若干の罪悪感を得ていたが、徐々にヒロが人間らしくなっていくの見て、結果的に良いことをしたのかな、と楽観していた。
はじめてイチャツキをした次の日。
男子三人がふざけてヒロの体を持ち上げた。
「わぁ、ヒロユキ君は軽いなぁ」
「やめて、やめて」
今までは泣くだけだったのに、言葉で『やめて』と言うことができた。
一か月後。
ある男子がヒロに抱き着いた。
「細いなぁ、お前」
「ちょっと、やめてよっ」
ガツッ
かかとでその男の足を踏みつける。
「ぐわわぁ」
二か月後。
クラス委員のマジメそうな男の子がヒロに頼み事をした。
「あの、和田くんって係ってやってないでしょ? 部活もやってないみたいだし。図書係、やってくれないかなって。クラスから二人、なんだけど」
「なぁんで、僕なの?」
「あ、だから、できたらやってくれないかなって」
「やるわけないでしょ。くだらない。そもそも、僕、図書室なんて行ったことないし。僕、勉強で忙しいから、部活も係もやりたくないの。もっと暇そうな奴に頼みなよ」
今までヒロは大人しくしていたが、その反動なのか、だんだんと好戦的になっていく。
三か月後。
私の学校にはスポーツデイというのがあって、ミニ体育祭みたいなものだが、迷惑な話、クラス対抗全員リレーという競技がある。一人が100m走る。しかも全ての競技の最後に行い、点数が高い。足の遅い人がどんな思いをするのか、この競技を考えた人の想像力はだいぶ低いだろう。
別に足が遅いのは私だけではないが、私が走っているときにたまたま4つのクラスに抜かれた。結果、うちのクラスがビリになった。まぁ、覚悟はしていたが、ある男子は「山岡さんのせいだよな」と言う。私に言ったわけではなく、私に気づかずに、グチッていたのだが、
「ごめんね」と私が言うと、その男は私に気づいて、
「あ、あぁ、まぁ、しょうがないけどね」と言う。
まぁ、こういうのは『体育祭あるある』だから、気にはしない。そもそも全員リレーなるものをやれば、負けたクラスの足の遅い子がこういう被害にあうのは必然だ。私がムスッとしていると、
ガジッ
なにか大きな音が聞こえた。
「ぐぁ ちょ、やめろっ」
男の声が聞こえ、次には「きゃぁ」と女の声がきこえた。
私が声の方に目を向けると、
「ヒロ、なにやって」
さっき私にグチッていた男子が足をおさえて倒れている。リンがヒロを抑えている。
「どうしたの?」
「ちょ、シホもとめてっ ヒロが、ラケットで橋口の足、叩いたって」
私もヒロの片腕を捕まえた。
みんなが集まってきた。その内の一人は「なにやってんだ?」ときくと、ヒロは答えた。
「こいつが、シホちゃんの悪口言ったんだ」
この後、先生がやってきて、ヒロは連れていかれた。頭ではなく足を叩いたので、大きな怪我にはならなかった。ヒロは、ちゃんとそこまで考えていたと思う。でも思い切り叩いたので、かなり腿がはれたらしい。後日、ヒロは三日間の停学をくらった。
自信を持ってくれるのはいいけど、大人しかった頃の反動なのか、どんどん好戦的になっていく。もともと頭は良いので口では負けない。クラスでは、私がヒロを洗脳しているのではないかと、そんな噂も広まった。
ヒロとのイチャツキをはじめて、もう三か月たったのだが……………
背中の傷跡、ヒロも見たと思うが、何も言わなかった。もしきかれたら、自分がかかえている悩みをヒロに打ち明けるタイミングなのかなと、私は作為的に考えていた。まぁ、ヒロの体の障害と比べれば大したことではない。むしろヒロの悩みをきいた方がいいのかな、と思ったりもするが、ヒロはあまりそういうことを話さない。ハキハキと話すようになってからも、あまり話さない。
背中の傷は、もう痛んだりしない。ただ色を残すだけ。自分の背中なんてあんまり見ないから、意識することも少ない。就学旅行のときなどはお風呂に入る時間をずらして、見られないように努力した。見られても、お母さんが言ったように『小さい頃に坂から転倒した』と言うと、クラスメイト達は同情して、それ以上はきかない。
風呂場の鏡が三面鏡のようになっていて、自分の背中を鏡ごしに見た。傷はかなり色あせている。しかしその存在が消えたりはしない。薄っすらと紫色になっている。古傷は背中のいたるところにあって、私を傷つけた者の精神状態を表している。でもそれは過去の事。私はうらんだりしない。
ユウジは私に同情してくれた。
ユウジは背も高くてもガッチリしていて、頬骨やアゴの骨もしっかりしていて男らしい顔をしている。私と同じ歳くらいに見える。性格も大人で、会話も私に合わせてくれる。
とても都合のよい男の子。
もちろん逆もまたしかり。
ユウジにとっても、私は都合のよい女だった。
ヒロとの関係が続けば続くはど、性的に満たされない気持ちが強くなる。だから、いつかヒロと一緒にいられなくなるのではと、私もそう思っていた。
少なくても高校生の間は…………
私が求めていたのは『永遠の愛』ではなかった。
お母さんは帰る前に必ずメッセージを私に送る。だいたい夜の十時か十一時に帰っくるので、あえてメッセージを送る必要はないのだが。夕食を食べて終えて、マオちゃんが帰るのがだいたい八時くらいなので、ユウジと二人きりでいられるのは二時間くらい。長いようで、短い。
ブルルッ ブルルッ
水を差すように、ユウジのスマホがなる。ある頃からちょくちょくメッセージが来るようになった。愛し合っている時、ユウジだってさすがにスマホを手にしないけど、終わってまどろんでいる時には手にする。SNSのメッセージのようだ。最近、多いので、
「彼女から?」ときいた。冗談のつもりだったのだが。意外にもユウジは
「そうだよ」と答えた。
「ホントなの?」
ユウジはスマホを私に見せた。女の子からのメッセージと、ユウジの返信。あて先には『ユイ』と書かれている。メッセージの内容は日曜日のデートの約束。
ユウジは何回かボタンを押して、また私に見せる。そこには女の子の写真が映っていた。ハデな感じの子。いや単に私がジミなだけかもしれない。今どきのおしゃれな子、そういう子だ。
「ユイっていうんだ」
「ああ、うん」
自分が浮気しているクセに、胸のあたりにジワッと嫉妬を感じた。でも、付き合ってるって言ったって中学生なんだから、と思う部分もあった。
「もう、したの?」
口に出してみて、私ってこんな女だったったけ? と自分で疑いたくなる。でもユウジから見る私という人物像は、きっとこんなんだろう。
「うん、いちおね」
嫉妬する気持ちが強くなった。『別れてよ』って言いたかったが、そんなこと言えた通りはない。すると次には、ユウジとの関係が終わってしまうのではないか、と心配が生まれる。週に一回の関係だが、私の中心となっていた。特に、高校生のときの私は、病的に、それを求めていた。愛されれば、愛されるほどに。
「私との………… 続けるの?」
ユウジは、すぐには答えなかった。
大人にならなくっちゃ、と、私のこの気持ちだけは唯一マトモだった。
「私の事は気にしなくてもいいから、別れたいなら、そうする。もともと、ユウジに無理なこと言ってたの私なんだから。もちろん私はユウジとの関係、とっても大切だと思ってるけど」
ユウジは私にキスをした。舌を強引のねじこみ、私の唇の間を割って入った。私は抵抗せず目を閉じた。もう条件反射のようなものだ。あとはユウジがしたいがままに………… それが何よりも気持ちいい。ユウジは、私を求めてくれた。これがユウジの答えだった。
その日、母さんが戻ってくる前にユウジは帰った。帰り際に私はまたきいた。
「私はユウジとの関係を続けたい。でも、ユウジには彼女ができたんだからさ、私との関係を続けることに意味ってあるのかな?」
ユウジは苦笑いをした。大人の男が見せるような、嫌な笑い方だ。
「ユイは細いからな。ユイみたいな細い子を抱きたいって思うし」
そう言いながら私のお尻を軽くつまむ。
「シホさんみたいに肉のついた女を抱きたいって思うしな」
嫌な男だと、そう思うのに、すごく安心した。
「バレないようにしてね」
自分のために言ったわけじゃない。ユイちゃんという知らない子のために、私は言った。ユウジは「ふふっ」と声に出して笑った。
「童貞のフリすんの、面倒くさかったよ」
ある日の朝、
「シホ、本当に悪いわねぇ。でも、勉強の時間とか大丈夫なの?」
お母さんに声をかけかれた。私は靴をはきながら答えた。
「大丈夫。週に一日だけだし。それにユウちゃんとマオちゃんに会えるの楽しいから」
「ほんと、ごめんね。なんか昇進するために試験受けろって言われてて。仕事を減らしてもいいから試験にパスしろって上司から言われて。ほんと、会社って変なところよね。仕事するところなのに、それが二の次なんて」
お母さんにも色々と不満がある。
「仕事している母親ってさ、ちょっとした自慢なんだよ」
お母さんは少し驚いたような顔を見せ、そして微笑んだ。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
学校に向かう電車の中で、また色々と考えた。
私はずっとお母さんが求める娘を演じてきた。お母さんは女手一つで私を育ててくれて、苦労もいっぱいしたと思う。そんなお母さんの笑顔を見る事が私の幸せだ。だから私が、マジメな娘、気のきく娘、そう演じるのは、きっと正しい。二人だけの家族なんだから、お互い支え合わなくてはならない。それは当たり前のこと。何も疑問に思わなくていい。
でも、真実を知りたいって思う。知って得をする事なんて何もないのに。なぜ人間は『知りたい』って思うのだろうか。その気持ちが消えるないので、過去を断ち切れない。
一ヶ月に一回だけお父さんと会っている。ふと、した時に、私は『なんで離婚したの?』ときいた。お父さんはファイミレスでビールを二本くらい飲んでいた。あまり強い方でもないでの顔を真っ赤にしていた。だからかもしれないが、お父さんは話し出した。
『恭子ってさ、お前を生んだ時に、育児ノイローゼみたいになっちゃってて。なんていうか、もともと仕事が好きな人だったし、まぁ、恭子の会社ってデカい会社の子会社だから産休とかもしっかり取れたんだけどね。だから割り切って考えればいいだけなんだけどさ。上司とかにちょっと嫌味とか言われたみたいで。本当はやめてもらった方がいいって。まぁ、その上司ってのがどんな奴からしらないけど、会社には制度ってものがあって、働く俺らには権利ってものがあってさ。もちろんやめてほしいなんて事を言うもんじゃないよ。だからきっとその上司って、最低で、しかも世間知らずだって、俺は思うけど。でもさ、恭子、なんていうか子育てしているうちにどんどん仕事からおいてきぼりくらっちゃうって思ったのかな。恭子のそんな気持ち、オレ、その時、気付いてやれなかったんだね。で、一年したら職場に復帰しようって考えてたんだけど。ちょうどその時、お前がひきつけで入院しちゃってね。まぁ、それっきり入院とかしなかったんで、大したことなかったんだけどさ。でも、おばあちゃんって、あぁ、オレを母親の方ね。おばあちゃんがオレに内緒で恭子に専業主婦になった方がいいんじゃないかとか、そんなこととか言ってたみたいで。なんていうか、そんな事にもオレって気づかなかったんだよね。まぁ、なんだ、結論から言うとオレが悪いんだよなぁ。オレがたまたま出張で二週間くらい台湾に行ってた時なんだけど、そのぅ、なんだ、恭子が、お前を叩いてたりしてたって。もう、そんとき正気じゃなかったんだと思う。おばあちゃんからその話きいて、すぐにお前と恭子を病院につれってたよ。お前はすぐに元気になったよ。背中に傷が残っちゃったけどな。まぁ、暴力を受けていた期間が短かったから、心の病とかにもなってなかったみたいで、不幸中の幸いってやつ。恭子も精神科の先生のおかげで二ヶ月もしたら、だいぶ良くなった。まぁでも、ノイローゼは治ったかもしれないけど、考え方がどんどんネガティブになっていったのかなぁ。恭子、俺にこう言うんだよ。自分がこんなひどいめにあってたのに、なんであなたは助けてくれなかったの、ってさ。そんで離婚』
離婚した理由、お母さんからは『浮気したから』ときいていた。だから私も
「お父さんが浮気したからじゃ…………」と、思わず口にした。
「なんだ? それ? 恭子がそんな事言ってんのか?」
私はとっさにとウソを付いた。
「あ、いや、私が勝手にそう思って」
「なんだよ、それ。ひどいなぁ」
お父さんの言葉を信じられなかったわけではない。でも、お母さんを信じたいって気持ちと矛盾する。私はなぜ真実を知りたいって思うのだろうか。私は真実に到達できるのだろうか。私は真実を知るべきなのだろうか。その答えをユウジに求めたとき、ユウジはこう言った。
『何も考えない。そういう選択肢はダメですか?』
ユウジにきく前から、私の中には答えがあった。ユウジの家も片親だから、私と似た家庭環境で育ってきたと思うし、同じような悩みがあったと思う。だから、ユウジは同情してくれる。
ユウジだって私のお父さんが言っている事が正しいと思っている。でも、そう答えなかった。そうか、こういう許し方もあるんだ。もちろん私は、お母さんに言葉で何か言ったりはしない。それにお母さんへの態度も変えたりしない。私の心の中だけの問題だ。
この頃から私が変わったのかもしれない。私は真実を見ていない。偽りの目で、自分の母親を眺めて、そして幸せを感じていた。それ自体は正しかった。同じような目で自分自身を見つめてしまった。そこに問題があった。
ユウジに相談した後だったか。ヒロだったらどううやって私をはげましてくれるのか。
ヒロはもともと頭が良い。口下手だったから、大人しくしていたのだろう。口下手がなおったわけだが、そしたら歯に衣着せぬ物言い、というか、ペラペラと話すようになった。
私は試すようにヒロにきいた。ユウジの時と同じように。そうしたら、
「まぁ、お母さんがやったんでしょ」と、ヒロはあっさり答えた。
お母さんがやった………… 私もそうは思っているが、「いや、でも、そんな」と戸惑ってみせた。
「今はされてないんでしょ。じゃ、いいんじゃないの?」
『女の体の傷』というものに対して、ヒロは同情する気持ちがない。その辺はユウジとは全く異なる。
「育ててもらってんだからさ、今、現在のことならともかく、過去のことは文句言わない方がいいんじゃないかなぁ」
「べ、別に文句なんて」
「じゃ、なに?」
お母さんには直接言えない。だから、ユウジやヒロに話したい。そもそも何を言いたいのか、と考えると、ヒロが言うように『文句』なのだろう。でも、私は別の言葉を探した。
「ヒロには話しておこうかなって。背中の傷、気になっていたでしょ?」
「ああ、傷あるなぁ、って思ってたけど、別に気にはなってないけど」
「だって、私、いちお、女だしさ」
「女だったら悪くて、男だったらいいの?」
確かにその通りだ。
「てかさ」
ヒロは自分の左の頬を指さす。
「奥歯、三本インプラント」
次に左目を指さす。
「左目、視力、めちゃ下がったから。コンタクト入れても、そんな視力あがんないし」
私は全く気づかなかったので、驚いた。
「父親になぐられました」
「え?」
「理由、何だと思う?」
お父さんに殴られた? その理由? 私には全く見当がつかない。ヒロは悪いことをしそうもないし、
「やっぱり、育児とか、教育とか、そういう問題?」
ヒロは大きく首をふる。少し伸ばした髪がゆれるほどに。
「僕が女の子の服、買ったから」
そんな理由で? と、私は耳を疑った。
「僕もね、どーせ、殴られるんなら、親がノイローゼとかさ、そんな理由がよかったよ。しかもね、中学の時だよ? 担任とかが、ヒロユキ君には友達できませんね、親のあなたが悪いんじゃないですか、みたいなことを遠回しに、お母さん、言われて。で、悩んでる時にだよ? うち父親、どんな脳ミソしてんのかって話。おじいちゃんとかも、何も言わなくてさ。人間って、なんで、こんなカスばっかなんだろうって思ったよ。全人類、全員死ね、って本気で思った」
ヒロは自分が興奮しているのに気づいて、「こほん」と咳払いした。
「まぁね、親がおかしいだなんて言い出したら、キリないよ。みんなどっか、何か所か、おかしいとこあんだから。子供だって」
私はヒロの前で悲劇のヒロインになりたかったのだが、見事に失敗した。まぁ、もしかしたら、ヒロは私のそういった邪な部分を見抜いていたかもしれない。
ヒロが言うように『現実』を受け入れるべきなのか。
いや、私にはできない。私もお母さんも、マトモな人間だと思いたいから。
自分の理想とは少しだけ違う現実。お母さんのこと。ヒロのこと。ユウジのこと。私だって自分が望むような自分でいたいと思っているけど………… そうはならない。
『坂から転倒してできた傷』
『性欲を満たすために誘惑した少年』
『偽り』を受け入れることが『現実』で上手く生きる方法なのだろう。
私はお母さんに似ている。表面上、良ければそれでいいと思っている。ユウジと浮気してたって、バレなければいいって。
こんなのは、私が高校生でいる間だけ…………
大人になって振り返ったとしても、若気の至り、として片づけられる。私達は幼いからこんなことをしてしまった。仕方ないよね。こういった打算は、十分に大人の考えなのだが、実際にしてしまうのが高校生という幼い生き物なのだ。そう言い訳している。パラドックスのような三年間。
それが一年数か月、伸びてしまった。
私の人生の歯車が少しずれてしまったのは、私だけの所為ではないと思うが、私が選んだことでもあった。でも、ユウジの人生の歯車が狂ってしまったのは、明らかに私の所為だ。ユウジには何かを選ぶことなんてできなかったと思う。幼かったから。たぶんユウジはユイという子を本気で好きになっていない。だって本気なら私と別れていたはずだから。私と体を交えて、そしてユイという子と体を交えて、そうしていく中で、ユウジの気持ちは不安定になっていただろう。ユウジのために別れようとか、何度か言ったけど、私が本気じゃないんだから、ユウジだって本気で考えることができない。
こんな状況が四年間続いた。
そしてある日、ユウジはこう言った。
「シホさんとの関係をやめる」
「えっ?」
「好きな人ができた」
私は「良かったね」と言って、つくり笑いを見せた。良い事であっても悪い事であっても。物事が終わる時に、総括される。あ、私、やっぱり良くないことをしてたんだ、そう思った。そして私はユウジに懺悔した。
「なんか、ユイって子と上手くいってないのも私の所為なんじゃないかって思っててね。いつかこんな関係やめようって、本気で言わなくっちゃて思ってたんだけどね。私、ずっとユウジに甘えてて…………年上なのに、私、何やってたんだかね」
言い終わる頃には自分の気持ちが見えてきた。そうか、私、ユウジの事が好きだったから別れたくないって思ってたんだ。蓄積された感情は涙となってあふれた。
心の中で、別れたくないってそう思いながらも、私は年上の女を演じなくてはならない。
「ごめんね、別に悲しくて泣いているわけじゃないの。ユウジに好きな人が…………できてよかったなぁって」
その後もユウジと色々話した。何を話したのか、もう覚えていない。でも、その後にユウジに抱かれたことは覚えている。最後に一度だけ、「激しくして」とお願いした。悲しくて感情が高ぶっていて、想いが加速して、私は「ユウジ、ユウジ」と何回も名前を呼んだ。涙と鼻水がいっぱい出ていた。悲しいのに、体はどんどん熱くなる。電気みたいな衝撃が脊髄を何度も通って、私の感情を支配した。頭が狂ってしまうかと思うくらい、自分がどこにいるのか解らないくらいに頭がクラクラした。自我すらも曖昧になる程だった。最初は呼吸を荒くなり、欲情のまま高い声を出していたのに、頂点に登り詰めると、体はあまり動かなくなった。この最後の幸せは、怖さを感じるくらい脳を揺らして、私の体を何度も痙攣させた。
今まで、こんなことなかったのに…………
汚れたシーツを見て、二人で笑った。
私はどこかで思っていた。狂った歯車を元に戻せば、それで全て上手くいくと。でも、人間ってそんな単純ではないと知った。
いつかユウジは私のところに戻ってくると、心のどこかで思っていた。でも、そうはなからない。ユウジと別れてから、ずっと、感情だけが他の歯車とかみあわず、カラカラと意味もなく回り続けた。
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