第3話 ユイ
帰りに喫茶店に寄ろうってカナからメッセージがあった。まぁ、だいたいどんな話かは解っている。今日たまたま掃除当番だったので、『ちょっと遅れるから先に行って待ってて』と返事した。
店に着いて、カナを探した。隅の方に、日差しのあたらないところに座っている。それでもこの女は目立つ。カナってそんな子。店内の男共もチラチラとカナを見ている。でも多分、カナはそういうことに気付かない。鈍感で、自分の魅力にも気付かないで、純情で、無垢で、そんな子。
私を見つけると戸惑うような、自信のなさそうな、そんな顔をする。私は向かう。カナは紅茶を頼んでいた。どこの店に行ってもだいたい紅茶をたのむ。どれにしようかなって、そういう楽しみとか無い。そういうところはユウジに似ている。
カナはいつもの透き通るような声で、「ごめんね、わざわざ」と言う。
「あ、うん、いいよ、暇だし」
店員が来たので私はメニューの表紙に書いてある絵を指差した。
「このバナナのミルクセーキ」
前からちょっと気になっていた。
カナは店員がいなくなると、すぐに「あのね」と話し出した。私はカナの言葉をさえぎった。
「ああ、言わなくてもだいたい解ってる」
「えっ?」
「ユウジと付き合うんでしょ」
「…………あ、うん」
「ユウジからきいた。まぁ、それが最後の通話」
カナは戸惑う。
「ああ、私、なんて言っていいか」
「えっ、ああ、いいよ別に、どっちにしろ私ら自然消滅ってやつ? そんな感じだったし」
「あの、でもね、私からちゃんとユイに話さないとねって思ってて」
「ああ、いいよ、そんなつまんない話」
もちろんカナにとっては重要なのだろう。それは解っている。でも別に私はユウジに未練があるわけでもないし、もしろ、向こうから別れ話を言ってきたことに対して、少し驚いた。なんとなく、腹も立った。私から言ってやりたかった。
「つまんないって……そんな」
カナは下を向く。下を向いたら向いたで、長いまつげがパタパタと動いて、どの角度からみても、この女、可愛い。
「じゃあね、カナにね、言ってもどうしようもない事だけど、一つだけアドバイスしてあげる」
カナは私を見つめる。
「ユウジはね、大人だし、悪い奴でもないし、頭も良くてっさ、会話も楽しいし、空気も読めるし、そういう奴だけどね」
私は言葉を一瞬とめて、真剣な視線をカナに送った。私は友人として言うべき事を言う。後は、その言葉をカナが受け止めるかどうか、そこまでは責任を持てない。
「ユウジはね、カナが思ってるような男じゃないよ?」
カナはめずらしく、呆けたような顔を見せた。
「考えてもみてよ、もしユウジがカナが思っているような男だったらさ、私だってずっと好きでいられたんじゃないの?」
カナは反論しないが、「理由、きいてもいい?」と言う。
「理由? なんの?」
カナの声は小さい。
「別れちゃった……理由」
私が「浮気」と即答すると、カナもすぐに「ウソでしょ?」と言う。
「なんでウソなのよ? ウソじゃないよ」
カナは私の言葉にショックを受けているが、信じてはいない。顔を見ればわかる。私はちょっといじわるな言葉をカナに突き付けた。
「もしカナがさ、ユウジと別れたら、その時に別れた理由をきかせてよ」
「えっ?」
「私と同じだったら、ユウジがダメな男だってことが証明されるんじゃない?」
私は嫌味ったらしい顔をしただろうか。だからかもしれないが、カナは少し感情的になった。
「ユウジ君が、浮気するって?」
「いや、あいつだって、心を入れ替えてるかもしれないからね。それは解らないけど」
カナは黙り込んで、そしてまたうつむいた。ユウジが浮気していた理由、私に魅力が足りなかったのかなって何度も思った。その心配が的中しているとするならば、カナと付き合ったユウジは浮気なんてしないだろう。カナより可愛い子なんてそうそういないんだから。理由は結局解らなかったけど、そんなんじゃなかったように思う。だからカナも私と同じ苦しみを味わうんじゃないかって。でも、こんなこと言葉にしても意味がない。何を言ったって、カナが『じゃ、付き合うのやめる』なんて言うわけないから。
私は頭をかく。
「だから、つまんない話だって言ったでしょ」
話を変えよう。
「別の話しようよ。こうやってカナと話すことも少ないんだし」
「別の話?」
「なんかクラスの子の話とか、色々あんじゃん? 教師の話とか。あ、そうそう、前に言ってた屋内プールの話だけどさぁ」
色々と話していてもカナは気持ちが入らない。上の空だ。
恋愛とは盲目。
テレビでタレントがこう言っていた。
「男の約47%は浮気します」
もちろん他のタレントやMCに「どこが調査したんだ?」とか「47%ってえらい具体的な数字だな」とかツッコミが入る。しかし色々と友達の恋愛の話とかをきいていると、説得力のある数字だと思う。
日本人女性の12人に1人は乳がんになるときいていたが、自分の母親がそれに該当して、ショックを受けたことがあった。早期発見だったのでほとんど胸を切り落とすこともなく、私よりも大きい母親の胸は今も大きいままだ。不幸中の幸いであった。
不幸は確率的に起こり得るものだ。それは知っている。でもなぜか自分の彼氏がその47%に入るわけがないと、あの頃はそう思っていた。
そう、恋愛とは盲目。特に、初恋であるならばなおさら。
漠然と、なんていうんだろうか、周りに影響されたっていうのか。なぜか中一くらいになると女って『男子って子供だよね』とか言うクセに『だれだれの事が好きで』とかそういう話をしだす。私は特別そういう話に興味があったわけではないが、クラスの中でも目立つ子が集まる輪に入って会話することが多かったせいか、影響されて、とりあえず人を好きになっていた。まぁ、初恋といえば、そうなのかもしれないが、今考えてみるとウソっぽい。中一の時、ユウジの友達、高橋君。170センチを超えるユウジよりも、高橋君ってもっと大きくて、がっしりしていて、そういうところが私の目をひいた。ユウジなんかよりも無口で、あまり女の子と話すところを見た事がない。私から話しかけたりしたけど、あんまり話が上手い方じゃないみたいで、結局いつも横にいるユウジと会話していた。だけどそうしているうちに高橋君とも少しだけ話すようになった。私が何か言うと、低い声で、「そうだな」とか「オレもそう思う」とか言って、私の言葉を肯定的に受け止めてくれた。中一だったからかもしれないが、そういうところが単純に『やさしいいなぁ』って思った。
高橋君のいいところを段々と知っていくと同時に、ユウジのいいところも知っていった。ユウジは空気が読めて、会話を先導してくれる。高橋君のやさしさとは違って、みんなに気を使うってタイプ。二人には別々のいいところがあった。でも二人がどういう人か解るようになる頃を狙ったように、中一の三学期は終わる。その頃、私の気持ちが高橋君とユウジのどちらかに傾いていたかというと、嫌な話、ちょうど釣り合っていた。
三学期のある日、小学校三年生からの友達、カナが、私のクラスに来た。学年でも有名な美少女。私が知る限りカナはずっとそういう存在だ。クラスの何人かはカナの方を見ていた。カナはそういうことには一切気付かずに、長い髪を光に反射しながらテクテクと私の席まで歩いた。いつものようにユウジと高橋君と、三人で話していたが、カナが来たので会話がとまった。
カナの中学生の時の声、綿あめのような甘い声。
「あっ お話の途中だった?」
「あぁ、いや、別に」
「ユイ、日曜って暇? 午後からなんだけど」
「日曜? 別になにもないけど」
「家でね、ケーキつくろうって、お母さんが言ってね。じゃ、ユイも誘ってみたらって」
「あ、うん、行くよ」
私が冗談で「でも、私、食べるだけだよ」と言うと、カナは真に受けて「うん」と返事する。
「いやいや、うそうそ、ちゃんと手伝わせてよ」
カナはさっきと同じようにまた「うん」と言う。
長い付き合いだが会話のペースがつかめない。特に中学までのカナは典型的なお嬢様だった。さすがに高校くらいになると多少はスレてきて、私との会話もかみ合うようになった。でも、根本にあるものは変わっていない。多少スレているように見せているだけで、中身は今もお嬢様のままだ。
カナはユウジと高橋君を見て「ユイのお友達?」ときいた。改めてそうきかれると恥ずかしいと思いながらも、「うん、そうだよ」と答えた。
私は指さして「ユウジと、高橋君」と雑な紹介をした。カナは笑顔で「ゆ、湯沢カナです。よろしくね」と、自己紹介らしい自己紹介をした。男子達にはわからないと思うが、カナの笑顔には緊張が含まれている。男性恐怖症だ。男二人は鈍感で、そんなことには気づかずにデレェとしている。ユウジだけではなく、高橋君も。見ているこっちが恥ずかしい。
「田中ユウジです」
「高橋恵一です」
男子二人もカナと同じようにフルネームで自己紹介した。カナはコクンと首を曲げる。
「じゃ、日曜ね」
「あ、うん」
カナはテクテクと姿勢を崩さずに教室の出口のところまで歩くと、クルッと振り返って私たち三人に軽く手を振った。私も軽く手を振ると、またニコッと笑って廊下を歩いていく。
ユウジはカナの姿が見えてなくなると、
「ユイ、お前、湯沢カナと知り合いだったのか? すげーな」
学校のほとんどの人はカナのことを『湯沢カナ』とフルネームで呼ぶ。芸能人を呼ぶように。
「なに? すごいって?」
ユウジは私の言葉を無視して「すげーな、緊張したよ。オーラが違うな」と意味不明なことを言う。
「別に普通の子だよ。確かに家は金持ちだけど」
ユウジは「あの子が普通っていうなら、お前はなんなんだよ?」と腹の立つことを言う。私は机をバンと叩いて「私が普通以下って言いたいの?」と言ってやった。
「いや、普通じゃない子に対して、普通だって言うなって、話だ」
ユウジは「なっ、ケイちゃん」と高橋君に同意を求めた。高橋君は無表情な顔のまま、
「篠崎さんだって、可愛いと思うよ」と低い声で言う。篠崎は私の名字。あまり名字で呼ばれないが、高橋君は女子でも男子でもみんな名字で呼ぶ。
私は『可愛い』と言われて気を良くしたが、高橋君は
「湯沢カナさんは、別次元かもしれないけど」と余計な言葉を足した。
私はまた気を悪くする。
「あ、ごめん。なんか変な言い方だったな」
まぁ、仕方ない。別にカナと張り合うつもりなんか、これっぽっちもない。
日曜日。
豪邸ってわけじゃないけど、都心の一戸建てで、庭は走り回れる程広い。芝生が生えていて、私はいつもそこに寝転ぶ。そして大の字になって青空を見上げる。私の家の狭い庭から見上げた空と、この青空が同じだなんて信じられない。高級な家の広い庭から見上げる青空は、心がとけてしまうほどに透き通って見えた。
そして寝転んだ私をカナは見下ろす。下から見ても可愛い。
「もう、子供みたい」と言ってカナは笑う。細い身体に水色のワンピースが良く似合う。白いカーディガンを羽織っている。そこからのびる細い手足。私は寝転んだまま、カナを見上げて「確かに別次元だ」と言った。
「ジョンのうんちとかあるかもしれないって、前にも言ったでしょ」
ジョンとはカナの家で飼っている犬。私は急いで立ち上がって、自分の背中をカナに見せた。カナは私の髪に付いていた『何か』を取った。
「えっ? 付いていた?」
カナは笑いながら「大丈夫だよ。芝生だよ」と言った。
黒い鉄格子の門からレンガの道が家まで伸びる。十メートルを超える。そのレンガを歩いていると、ジョンが犬小屋から首を出す。種類はわからないけど大きな白い犬。頭の良い犬だ。私を覚えていたようで「ワン」と一回ほえて、尻尾をパタパタと振った。大型犬なので、頭が私のおなかくらいまである。最初見た時は怖かったが、何回か接しているうちに頭が良い犬であることを知った。頭の良さが可愛さに思えた。私は頭をなでた。
「覚えててくれたんだね」
ジョンは耳をピクッピクッとふるわせる。
カナはドアを開けて、「後で散歩に行こうね」と言う。私はジョンに向かって手を振って、カナの後に付いた。
私は誰に言うでもなく「おじゃましまーす」と家に入ると、廊下が暖かい事に気付いた。
「家の中に入ると、外ってまだ寒いんだなぁって思うよね」
「あ、うん。三月だしね」
カナは羽織っていたカーディガンを脱いで手に持って、しゃがんだ。そして廊下のフローリングに触れる。すると早足でリビングに向かい、母親を見つけると、大きな声で文句を言う。
「もう三月なんだから、廊下の床暖房、消してよ。部屋の中だけでいいでしょ」
母親はカナに圧倒されて、「ああ、うんうん、ごめんね」と言って、すぐに立ち上がり、壁のコントローラを操作した。
カナの家に来ると思い出す。カナってちょっとエコロジスト入ってるんだよなって。冷暖房とかをあんまり使いたがらないし、母親が車で迎えに行くとか言うと、そんなことしなくていいってスマホに向かって怒鳴ったりする。意見したものなら『地球がぁ』と、我を忘れてエコロジーのウンチクを何十分も言い出す。
リビングに入ると、カナのお母さんと目が合った。顔にシワもなく、穏やかそうな瞳。
「まぁ、ユイちゃん、いらっしゃい」
声にも品がある。
「あ、おじゃまします」
私のお母さんとはえらい違いだ。私のお母さんに限らず中学生の娘を持つ母親なら、おなかがちょっと出ていたり、髪につやが無くなっていたり、口元や目尻にシワがあったりするものだ。カナのお母さんはそういう老化現象とは一切無縁だ。上品で、笑顔を絶やさない、そういう人。自分の母親の姿を思いおこすと、自分の未来がそこにあるように思える。美しい者とそうでない者を分けへだてる見えない壁。壁の向こうにいるカナを私はいつも見つめていた。カナはずっと何にも汚されないんじゃないのかって、そう思う。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
カナが手首に付けていた黒いゴムで自分の長い髪を一つにまとめる。何気ない動作でも可愛い子がやると絵になる。
カナのお母さんはキッチンの引き出しから、白い布を取り出した。遠目では何かよく解らなかったが、それを広げるとエプロンであることが解った。しかもフリフリの付いたエプロン。そして私に近寄り、私の体にエプロンをあてて、「はい」と言う。
「あ、ありがとうございます」
この日のためにわざわざ買ったのだろう。私の後に回り、エプロンのひもを蝶々むすびで結んでくれた。その光景を見ながらカナは「また、余計なもの買っちゃって」と悪態をつく。
カナのお母さんは、娘の声を無視して、私をジロジロと見て、「まぁ、可愛い」と言う。可愛い? あなたの娘の方が百倍可愛いと思うが。まぁ、『可愛い』と言われて単純に嬉しかった。
もちろんエプロンは二着ある。カナのお母さんはもう一着のエプロンを広げて「カナ! 付けなさい」と言う。偉そうに親らしく言っているが、単にエプロン姿のカナを見たいだけだ。
「そんなのいらないよ、別に付けなくたって。普段着なんだから汚れたって」
「洗うのお母さんなんだからねっ じゃ、汚したら、カナ、洗いなさいねっ」
カナもすぐに言い返す。
「この服、家で洗ってないでしょ? いつもクリーニング出してるじゃん」
カナのお母さんはエプロンをカナにあてがって、「とにかくつけなさいっ」と言う。もはや理屈ではない。カナも母親の迫力に負けて、しぶしぶエプロンを付けた。
カナのお母さんは調子に乗って、白いフリフリの付いたリボンを手にしていたが、カナはにらんで「それは付けないからねっ」と強く言う。カナのお母さんは悲しそうな表情をして、リボンを引き出しにしまった。
「じゃ、やろうか」
カナはノートをテーブルの上に広げた。そこには『ショートケーキの作り方』と書いてある。カナの字ではない。私はカナのお母さんに「お母さんが書いたノートですか?」ときいた。
「そう。レシピを見て料理を作れるようにならないとね」
「あ、はい」
私もたまに母親の手伝いなどをするが、本格的な料理やお菓子作りを一人でやったことがない。カナはノートを見ながら、お母さんには何もきかずに、材料を冷蔵庫の中から取り出して、分量を量り、ボールに入れた。黙って見ていたら、カナが全てやってしまいそうだ。私も手伝うことにした。
「これ、まぜればいいの?」
「あ、うん。じゃ、お願いね」
カナはボールを私に渡して、レシピを声に出して読んだ。
「シェイカーで一分くらい、泡が立つまで」
「シェイカーって?」
カナは片手で持てるくらいの機械を持ってきて、スイッチを押す。すると、金属の長細いわっかがグルグルと回った。私は理解した。
「ああ、これで混ぜるのね」
私の家にはこんな機械ないから、普通に泡立てのやり方をしようとして、機械を斜めに入れた。するとカナのお母さんに「垂直に入れて大丈夫よ」と言われた。
カナは「口出ししないって言ったでしょ」と母親に強く言う。
「そんな、本当に何も口出ししなかったら、私、ここにいる意味ないでしょ」
お母さんの言葉を無視して、カナは作業をすすめる。
ショートケーキって、簡単に言えば、スポンジを焼いてその上に生クリームでホイップするだけなんだけど、色々と難しい。材料の配分はレシピどおりにやればいいから簡単かもしれないけど、かき回し方とかもどれくらいやればいいのか解らない。それに、なによりも難しいのは飾りつけだ。ショートケーキの理想像は自分の頭の中にあるのだが、なかなかそれにならない。試しに私がホイップして飾りつけしてみたがバランスがむちゃくちゃだったので、一回生クリームを全部とっぱらって、もう一回カナがホイップした。多少形は悪いが、ショートケーキに見える形になった。私は感心した。
「上手くいったわね」
カナは納得していないようで「うーん」とうなっている。カナのお母さんは「まぁ、はじめてにしては上出来よ」と褒めた。
カナのお母さんはケーキにナイフを入れて、円状のケーキを少しだけ切った。
「冷やしてから食べた方が美味しいけど、出来立てのケーキもまた違った美味しさがあるのよ」
お皿にケーキの小さいひとかけらを乗せて、カナと私にフォークを渡した。カナはケーキのかけらを更に半分くらいに切って、その一方をパクッと口に入れた。
「生クリームがぬるいけど」
もぐもぐして飲み込むと、「なかなか」と嬉しそうな顔を見せる。私も食べてみた。ケーキなんて店で買うものだと思っているので、ケーキらしい味を感じたけで私はうれしかった。
「おいしいっ」
私がニコニコしていると、カナのお母さんも微笑みかけてくれた。そしてケーキを大きい冷蔵庫に入れる。
「冷やした方がおいしいからね、冷蔵庫に一時間くらい入れておきましょう」
カナと私はエプロンを脱いで、ジョンの散歩に行くことにした。
ジョンは外でトイレをしない。でも一応糞を入れる袋と新聞紙を持って出掛けた。首輪からのびるロープをカナが握っているが、力はジョンの方が明らかに強い。ジョンは頭がいいので他の犬や猫が近寄っても吠えたりしないが、先に進もうとするのでカナは引っ張られる。隣で見てると、どっちが散歩してあげてるんだか解かったものではない。ジョンが少し駆け足になると、カナもつられて駆け足になる。その後ろを、私も駆け足で付いていく。走ったり歩いたりしながら散歩していると、河原に着いた。その側の芝生にジョンは降りた。近くに誰もいなかったのでロープを首輪からはずした。ジョンは芝生を走り回り、私達はジョンを見ていた。土手に階段があり、少し冷たいコンクリートに腰を下ろした。
風が吹いていた。カナは目を閉じて風を感じる。白く大きい帽子が風で揺れていた。
「いい風ね。ちょっと寒いけど」
私はカナを見いた。
「そうだね。いい風だね」
するとカナは目を開けた。私がカナを見ていたので、二人は目があった。私はすぐに視線をジョンに向けた。
「男の子の友達がいるんだね」
男の子の友達ぐらいいても不思議はない。小学校の頃までは、私もあまり男の子とは話さなかったので、カナにとっては意外だったのだろう。うらやましいと思ったのだろうか…………
「え、ああ、ユウジと高橋君。なんか、友達っていったら友達だけど、まぁなんていうか、話し相手って感じかな」
カナは遠くの景色を見つめて「話し相手かぁ」とつぶやいた。
「男の子って、怖くないの?」
これまたいかにもお嬢様が言いそうな事を言う。
「え、ああ、別に。まぁ、口は悪いけどね」
「口が悪い? あのやさしそうな人も?」
やさしそうな? いったいどっちのことを言っているのか。だから「ええっと、大きい方?」ときいた。ユウジも結構大きい方だが、高橋君の方が明らかに大きい。解り易い見分け方だ。
「ううん、大きくない方の人」
そしてカナは「クスッ」と天使のように笑う。
「それでも、私達より全然大きいよね」
ああ、なにが面白しろいんだか。冷静に考えると意味のない言葉も、カナが笑いながら言うと、つられて私も笑顔になってしまう。
「あっ、大きくない方? ユウジって言うんだけどね、あいつは結構口悪いよ」
「えっ、そうなの?」
「うん」
カナは走り回るジョンを視線で追っていた。
「へぇ、そうなんだ。意外だなぁ」
人間の記憶って不思議だ。多分、この時の私は自分達が作ったケーキが美味しかったって、そういう事が記憶が残り、あとジョンと遊んで楽しかったとか、芝生に寝転んで気持ちよかったとか、川沿いの風が気持ちよかったとか、そういう楽しいことだけを覚えている。でもなぜか、その時あまり重要でないと思っていた記憶が、今になってよみがえる。カナの笑顔。ユウジの事を話していた時に見せた笑顔。可愛い子が幸せそうに笑うと本当に可愛いんだなぁって私は思っていた。天気もよかったし、ケーキ作りも上手くいったし、ジョンも元気だし、だからカナが幸せそうな笑顔を見せていたのだと…………
でも違う。
カナはこの頃からユウジに想いを寄せていたのだろう。中学生のときの私は勘が鈍かった。カナが単に男子に興味をちょっと持っただけで、個人に向けられるような恋愛感情ではないと、私は思っていた。高橋君がカナのことを『別次元の人』と言って、極端な表現だなって思ったけど、今考えると、私だって高橋君と同じようにカナのことを見ていた。カナのようなお嬢様はもっとカッコイイ男を好きになるのだろうなと。線の細くてかっこよくて足が長くて、上品で、成績がよくて、そういう人を。
中学の二年になってクラス替えがあって、その夜、カナからメッセージが来た。
『ユウジ君と一緒のクラスになったよ。前に一度だけ挨拶したよねって、声をかけたの。ユウジ君、私のことを覚えていてくれたよ。はじめて男の子に私から声をかけたちゃった。数学が得意なんだってね。教えてもらおうかな』
カナは本気で数学を教えて欲しいんだろうなって、この頃の私は素直にそう思った。過去のメッセージをパソコンにとってあるので、今、それを読んでみるとカナの気持ちがよく解かる。
そのメッセージに対して私はこんな返事をしていた。
『ああ、確かに数学だけね。前も言ったけど、あいつ口、悪いから。カナに変な事言ったら私に教えてね。とっちめるから』
これに対するカナの返事。
『大丈夫。ユウジ君、やさしいよ。男の子って怖くないんだね。ユウジ君だけかもしれないけど』
まぁ、学年で一、二を争う美少女に声をかけられて、やさしくしない男子はいないだろう。ニヤニヤしているユウジの顔が頭に浮かんで、少し腹を立てていた。
中二になって、高橋君とも違うクラスになったけど、なんのかんの言って、週に数回は高橋君のクラスで話していた。それまで高橋君とユウジとで、私の気持ちは釣り合っていたと思うのに、いつしか私の想いはユウジに傾いていた。
カナから送られてくるメッセージの回数が増えると、さすがに鈍い私も、カナの想いに気づいた。そして、私の気持ちも釣られていった。
中二のある日、帰り道。
たまたまユウジを見かけた。ユウジの後姿、背中を曲げて、なんだか悲しそうに見えた。私は背中をバシッと叩いて、「元気?」と声をかけると、ユウジは「わぁ」と驚いた。
「ユイか、いてぇな」
「どうしたの? 元気、なさそうじゃん」
「そうか?」
私はユウジの顔をチラッと見て、やはり元気がないように見えた。まぁ、ユウジのことだから大した悩みでもないだろう。軽い口調で「なに? なんかあったの?」ときいた。
ユウジはニヤっと作り笑顔を見せた。
「三つ上の女の人にもてあそばれて」
「えっ?」
信じられない言葉だった。だから反射的に「なに、つまんないウソ言ってるの」と言ってやった。また背中をバシッと叩いた。
「叩くなよ、もう」と、いつもの口調なのだが、やはりちょっと元気がないように聞こえた。
「本当に何かあったの?」
私がしつこくきくと、ユウジは真剣な表情で語った。
「ちょっとさぁ、ちっぽけなオレにはどうにもできないことだって解ってるんだけどださ。パレスチナ問題の事が気になって………… あぁ、平和ってなんなのかな…………この平和大国日本に生まれてさ。オレ達は何を考えるべきなのかな。そんな事を考えてしまうと、寝付けないんだよなぁ」
ユウジって政治の話に興味なんかあったかな?
「ああ、ごめん。ウソウソ。すげー寝てるよ、オレ。寝すぎて、小五の妹から人生を無駄にすんじゃないわよって言われたことあるぜ」
笑いながら言う。一瞬でもまじめに聞いていた私がバカだった。
会話がすすむとユウジはいつもの顔に戻っていた。
「そういえばさ、カナちゃんと隣の席になったぜ」
「あぁ、話してみると普通の子でしょ?」
「ん? うーんと、まぁ、そうかもね」
私はクスッと笑った。
「一年の時さぁ、ユウジ、カナを見てさ、オーラが出てるって言ってたよね」
「ああ、うん。でも、話して見ると」
ユウジは言葉をとめた。
「話してみると? なに?」
「ああ、なんていうか、ほんと、純粋な子って感じだよな。マンガのヒロインだってもうちょっと欠点とか性格の悪い部分とかあるんもんだよな」
私と同じ事をユウジも感じている。美しい者とそうでない者を分けへだてる見えない壁。その向こう側にいるカナ。ユウジは私と同じ価値観を持っているんだなって、思った。
日が落ちようとしていて景色が赤く染まる。通学路が川沿いなので、赤く光る川が見える。弱い風がふいても、冬服を着ている私達にはちょうど良い涼しげな風だ。
「日が伸びたよなぁ。部活終わっても、まだ夕方だ」
「あ、うん」
教室にいる時とは違う。二人で道を歩いていると、なんだか恥ずかしい。誰かに見られたりしないだろうか。そういう不安も少しあって、ドキドキしていた。もっとユウジと話したい。そういうふうに思うほどに、私の気持ちも育っていた。駅前を歩いている時、
「久しぶりだし、ちょっと話していかない?」
私はユウジを誘った。
ユウジは少し驚いた表情を見せたが、「ああ、うん」と返事してくれた。
ファストフードの店に入っても、話す内容はカナのことだった。
「最初、オレと話してるときも、ちょっとオドオドしてて、可愛いく見せるためにワザとやってんじゃねぇのかって思うほど、可愛いっていうかさ、あの外見でそういう仕草とかするもんだから、ドキッとくるよな?」
ユウジは男同士で話しているかのように、私に同意を求める。
「ドキッって言われても、私、女なんで」
でも、ユウジの言っている事はよく解る。
「って言うかさ、なんかあれだけ可愛いんだから、それなりに、こうなんていうか自信とかあるんじゃないのかって思うんだけど、それが全然ないっていうか。天然とも違うよな。なんて言えばいんだろう…………」
私はユウジの疑問に答えた。
「美しい花は、自分自身が美しいって思う必要がないってことでしょ」
「へ?」
「花に群がる虫達が花の美しさや匂いに惹かれるんであって」
「はぁ」
「美しいって思うのは虫達。花はただそこに存在するだけ」
ユウジはストローに口をつけたまま、私の言葉の意味を考える。
「でもさ、カナちゃんだって人間だぜ?」
「だから少しずつ変わっていんじゃないのかな。一生あのままだったら………」
言いかけて、カナのお母さんの事を思い出した。話し方、声、人柄。カナもきっとあのお母さんのように歳を重ねていくのかも。カナはカナのままなんじゃないかって。ずっと私達とは別の世界にいるんじゃないのかって。
私は色々と考えてしまって、言葉が止まっていた。するとユウジは「ちょっと怖いよな」と言う。
「えっ?」
「いやね、誰かが安易にその花をつみとっちゃったりしないかって」
私は思わず、「ユウジが嫉妬………… するってこと?」ときいてしまった。
ユウジは「ぷっ」と浮き出して「違うよ」と言った。
「誰かしらねぇけどさ、ある男が、カナちゃんの良いところを全て受け止めて、そんでカナちゃんに告白するっていうならいいけどさ」
私は「フフフ、父親みたいね」と言って、笑った。
「ほんとだよな、なんか心配になるよな。あの子見ていると。だってさ、カナちゃんが好きになる人が、カナちゃんにふさわしい人かって、そんなのわかんねぇから」
ユウジのこの考え方は幼い。自分達の目から見て『特別な人』がいて、その『特別の人』は『普通の人』とは違う考え方で生きていると思っている。もちろんそういう部分もあると思うが、女の本質的な部分は、カナだって普通の女と変わりない。私と比べたって、それほど変わらない。
この時の私はウソを言った。
「まぁ、今のカナは特定の男の子を好きになるとか、そういうのはないかな」
「どうして?」
「だって、あの子、ちょっと男性恐怖症、入ってるから」
「そうなの? そんな感じには見えないけど」
「まぁ、ユウジは私の友達だから、話せてるのかな」
ユウジは考える。
「確かに、オレ以外の男子とあまり話さないなぁ」
私はさらに、しなくてもいい話をしてしまう。
「カナがなんで公立の学校、通ってるか、知ってる?」
「あっ そういえば変だよな。お金持ちだし、頭もいいし」
私も気になって、きいたことがあった。
「なんか、小学校の受験したときに、女子がいける学校の中では一番くらいの学校受かったらしいんけど」
「受かったの? じゃなんで、そっち行かないの?」
「なんか、お父さんに騙されたみたいで」
「え?」
「お父さん、その学校の男女の人数が同じだって言ってたんだけど、実際は男子の方がかなり多かったらしい」
「なにそれ、じゃ、その小学校やめて、うちに来たって?」
私はうなずいた。
「小一の二学期に転校してきたから。で、お父さんに反発したまま、中学受験もしなかったって」
「すげー話だな」
カナは特別な子、という話をあえてユウジに吹き込んだ。
そして、私はユウジを誘う。
「今度の日曜、映画に行かない?」
「えっ?」
ユウジが「うん」って言う何秒かの間、私は笑顔でその答えを待った。ユウジは断らないだろうって確信していた。女は人形や花や、そういったものではない。果実のようなもの。目の前にあるにおいを放った果実の方に、男は手を出す。ガラスのケースに入っているおいしそうな果実は、ただ見ているだけ。
「見たい映画があるの」
見たい映画なんてなかった。でも、そういう言葉が私の口から出ていた。
「あぁ、映画か…………」
ユウジは喜んでいたわけではなかったが、嫌そうにもしていなかった。
「最近、行ってないな。いいかも」
私はユウジを見つめた。
「本当にいいの?」
「へ? なんで?」
「デート、だよ?」
ユウジはコクコクとうなずいた。
「まぁ、デート……だろうな」
映画に一緒に行くという約束をした事、自分が言った事、家に帰ってから振り返ってみて、またドキドキしていた。この時、私のユウジに対する気持ちは恋心になっていたと思う。きっかけや動機に関わらず、自分の胸の中にあるドキドキする気持ちは正しいと思っていた。恋心は真っ白で、そして汚されない。カナのような生まれ持った美しさではないけど、自分にも美しい部分があるんだなって思っていた。
でも………… カナにユウジを取られたくないって思ったからか? いや、それならまだ可愛いもんだ。本当は、何もかも適わないカナに対して、一つでも何か勝ちたいと思っただけなんじゃないか………… 中学生だっていうのに本能的にそんなふうに心が動いていたのかも…………
私の人を愛する気持ちは、嫉妬から生まれた。
嫌だな、そんなの。
ユウジだって私とじゃなくて、最初からカナと付き合っていたら、浮気なんてしなかったんじゃないのかな。別れた後もいつもこんなことを考える。そして意味もなく昔のメッセージを読んで、後悔ばかりして………… 私ってなんなのかな………… 涙が出てくる。自分でもよくわからない感情に襲われる。
あの時、『友情』と『恋心』、本当はどちらが大切だったのかな…………
やはり、恋愛とは盲目。特に初恋であるならばなおさら。
人の気持ちなんか何も見えないまま、人を愛そうとしていた。
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